009 女王
「ふ~ん。それで、今後に期待されたわけね」
「婉曲に才能なしと判定されたんだと思います。口調は柔らかでしたけど、出来上がった絵を見る目付きは険しかったので」
カウンターで調理をする女と、雑巾でテーブルを拭いて回るアキミが、閉店後のカフェで話している。
「でも、良いじゃない。まだ、これから伸びしろがあるってことだもの」
「今から伸びますかねぇ」
「伸ばすも伸ばさないも、アキミちゃん次第よ。いやぁ、若いって良いわね」
――もう、立派なオバサンだと思うけど。
アキミが口には出せないことを胸のうちに秘めていると、女は菜箸の先でフライパンに卵液を一滴落し、温度を確かめながら頼む。
「あっ、そうだ。悪いんだけど、それが終わったら、二階に上がって、レコードを取ってきてくれないかしら? 奥の洋間に、何枚か出して置いてあるんだけど」
「あっ、はい。すぐに行ってきます」
アキミは、雑巾をバケツの縁にかけて持つと、店の奥へと急いで向かった。
*
――奥の洋間は、ここね。
「失礼します」
そう言ってアキミはドアを開け、部屋の中へ入る。中は八帖ほどの洋室で、百合の花のようなホーンが目を惹く蓄音機や、何冊もの本や何枚ものレコードが入ったガラス引き戸の棚、そして、数枚のレコードが無造作に置かれたライティングビューローがある。部屋の中央の床には、毛足の短いカーペットが敷かれている。
――マスターが言ってたレコードは、これね。……あら?
レコードを持って行こうと手を伸ばしたとき、アキミは、ふと足元に視線を移した。よく見ると、猫脚のビューローの下から、一冊のアルバムの角がはみ出している。
――なんで、こんなところにアルバムを置いてあるのかなぁ。
「マスター?」
顔をドアに向けながら小さく言って様子をうかがい、返事が無いことを確認したアキミは、イスを引いてビューローの下に潜り込み、アルバムを引っ張り出した。
*
「どうりで、なかなか降りてこないと思ったわ。もう、アキミちゃんったら」
「エヘヘ。どうも、すみません」
あきれ顔の女と笑ってごまかすアキミの二人は、カウンターに並び、冷めて食べ頃を過ぎたオムライスを口にしつつ、会話を交わしている。
「でも、まさかマスターが、シャンソンの女王だったなんてねぇ」
「やめてちょうだい。昔の話よ。私には、過去の栄光すがる気は無いの」
「写真を見る限り、清純な乙女そのものでしたけど」
「そういう設定だったのよ。高原の別荘に来た貴族の令嬢が、結核を患ってサナトリウムに来た青年に恋をするとか、海水浴に来た脚気の少女が、渚のバルコニーで漁師の少年に片想いするとかね」
――なるほど。お涙ちょうだい系の、あざとい計算だったのか。
「聴いてみたいな、マスターのシャンソン」
「ダメよ。もう、すっかり歳を取っちゃったから、若いときみたいな澄んだ声は出ないわ。――はい。この話は、これでおしまい。ごちそうさま」
そう言って、女は立ち上がってカウンターの奥へ入り、自分が食べた食器を片付けはじめる。
――残念だなぁ。
アキミは、皿に残ったオムレツを平らげると、立ち上がってカウンターの奥へと移動した。