008 絵心
――入居を承諾してもらったことや、この前の銭湯のことやら家具のことやらを全部ひっくるめて、何か御礼がしたいと言ったら、デッサンのモデルを依頼された。
アキミは、海老茶地に浅葱の波模様が描かれた上に、大胆に臙脂と山吹の牡丹花模様があしらわれた銘仙を着て、レースのカーテンが風に揺れる窓辺に佇んでいる。
「この見当で、よろしいでしょうか?」
ご機嫌を伺うように、おずおずとアキミが声を掛ける。
――集中してるところを、お邪魔しちゃったかな。
アキミが見つめる視線の先で、イーゼルとキャンバスを用意したフユトは、小刀で鉛筆を注射針のように削っていたが、やがて手を休め、イスに座っている上体と顎を引き、構図のバランスを確かめながら応える。
「そうですねぇ。立ち位置は、それで結構ですが、袖の模様や帯が見えるように、片手を窓枠に添えてみてください」
「あっ、はい」
アキミは、フユトの指示通りにポーズを直す。すると、フユトは鉛筆でキャンバスに十字や円を描きつつ、気遣いの滲む優しい声音で言う。
「十五分、いや、十分ほどでラフを描き上げますから、しばらく、そのままで辛抱してください」
「はい」
――雑誌の撮影で、気難しい写真家に休憩無しで半日以上付き合わされた経験がある私からすれば、二時間でも三時間でも楽勝よ。
*
――美術学校の入学試験では、砂糖と塩の粉末の小山を描き分けるというのが、もっぱらの噂であるけれども。
普段着に着替えたアキミは、横でフユトが目を光らせる中、スケッチブックを片手に褐色のコンテを走らせ、テーブルの上にある餡蜜を描いている。
――うぅ。手元を見られながらだと、緊張して思うように筆を走らせられないわ。それに。
アキミがコンテを動かす手を止めると、フユトが助言する。
「器も寒天も、どちらも透明ですが、一方はガラスで硬質、他方は軟質です。また、蜜のかかっている部分は光沢があり、艶めきますが、それ以外の部分はザラツキがあることを意識すると良いですよ。ヒントを申し上げれば、前者は求肥、後者は杏子です」
「はい」
――じっと対象を見つめれば見つめるほど、おなかが空いてきちゃう。
再び描き始めてから、すぐに手を止めたアキミに対し、フユトは首を傾げながら問う。
「どうかしましたか?」
「あっ、いえ。何でもありません。ただ、美味しそうだなぁと思っただけで」
「そうですか。では、早いところ描き上げて、お茶にしましょう。器の左下は、スプーンの影が重なることを念頭に置きましょう」
「はい、先生」
――食欲が牙を剥いて暴走する前に、さっさと終わらせてしまおう。あぁ。安易に描きかたを教わるんじゃなかった。さっきのフユトさんの上手なデッサンより、下手な私のスケッチのほうが時間がかかってる。