十字架のヨハネ Juan de la Cruz あるいは「カルメル山、登山」(私のキリスト教遍歴ノートより)
「十字架のヨハネ」とは
男子カルメル会の改革者にして中興の祖である。
修道生活の魂の階梯と進化についての
神秘的な啓示と教訓と零示に満ちた
修養の書、
それが主著「カルメル山、登攀」である。
修道者が魂の闇夜を抜けて
現世から離脱して
崇高なる霊性の山、、
すなわち「カルメル山」を目指して修養すべきことを説いた書である。
それは霊性への浄化の道であり
キリストへの道程でもあるのだ。
この書物の役目とは?
「この小さい詞は山の道筋を示して二つの間違った道を行かないように勧告を与えるためである」
ファン・デ・ラ・クルス(十字架のヨハネ)はそう記している。(以下、ヨハネと略記します)
カルメル山の登山口にはまず3つののぼり口がある、、とヨハネは言う
それは
「不完全な霊の道」
「間違った霊の道」
「完徳の狭い小路」
さてでは「不完全な霊の道」を行った修行者はどうなったか?
この道はすでにして「天上の至宝」と、入口に掲げてあって、いかにもこの道こそが
正しい霊性の道と思わせるのである。
しかも広くて登りやすい道だ、
だが其の道を辿るといくらいってもどこにも辿りつかない、
なぜならば、天上の至宝という偶像を求めたからあなたは何も得られない。
そしてどこにも行きつかないのだ。山に迷いあなたは途方に暮れるだけ。
さて次に「間違った霊の道」を行った修行者はどうだろう?
この道の入り口には「地上の財宝」と掲げてある。
すなわち、ここを行くものは、
欲望のみに急き立てられて、結局何も得られないで終わるのだ。
或いはけち臭い地上の腐った宝を少しばかり得てそれで終わりなのだ。
では「完徳の狭い道」を行った修行者は、
「生命に至る道は狭くてこれを見出すものすくなし」マタイ伝
この道の入り口には「無」としか掲げらていないのだ。
狭い道を必死で登って行っても何もない。
安全、愉悦、慰め、光栄、休息、名誉、自由、
それらがすべて無、無。無。無。無。無。無、、、、、、、
何もない。
それでも、心励まして、神を信頼して、しばらく昇ってゆくと、
やがて山の中腹に至る。
と、
そこにはこんな看板が、、。
「お前は内を求めて登ってきたのか?
この山には何もないのだよ」
まわりを見まわせばあたりはごつごつした山容がつらなるばかり、
修道者は思わず、天を仰ぐばかり。
と、
その時、神の言葉が挑む。
「自我愛で求めなかったお前は今すべてを得ているんだよ」
「こうして今何もないところにお前は身を置いたとき実はなんにも不足してはいないって気がついただろう」
神の言葉を受けて修行者、はっと悟るのだった。
今私は本当の光明に包まれて祝福されたいるのだと、
更に神の言葉が挑む。
「ここから先の登山道はもうないよ。だって、あなたは今、神の義に触れ、さとったのだから、
地上の掟でしかないような通俗の登山道なんてもうないのさ」
あなたは今神の全知を受けて神の知恵と神の沈黙の境地に達したのだ。
さあ登りなさい、目に見える道なんてもうないのですよ。
さあ見えざる道を登るのです。
さあもう頂上ですよ。
ここは神の栄光と神の恩寵のみがあるのです。
今あなたは神の愛の炎に焼かれて神の懐に昇華するのです。
そして修道の最終目的である
神の至純の沈黙の中に安らうのです。
以上が「カルメル山登山」の
解き明かす
修道の生活の
巡歴であり修道の階梯のただしき、道筋なのである。
アーメン。