お兄様と優雅な休日
天井が高く、壁一面に七色の光を降り注ぐステンドグラスがはめ込まれ、前方には聖母マリアの像が嫣然と微笑んでいる。
祝福を告げる鐘の音に包まれる教会の中に、純白のウェディングドレスを着た鞠亞が一人、たたずんでいた。
自分のほかに誰もいないこの神聖な場所に足を踏み入れることを許されているのは、鞠亞以外にたった一人のみ。
淡いピンク色のブーケを胸に抱きながら、その人の登場を待つ。
キキィ・・・と重厚な音を立てながら、教会の入り口の扉が開く。
期待で胸をいっぱいにしながら振り向くと、白い光に包まれ、自身も純白のタキシードを身にまとい、手に紅い薔薇を一厘持った翼が真紅のカーペットの上を優雅に歩いているところだった。
その足取りはゆっくりで、白鳥が舞っているかのごとく美しく、ずっと見ていたい気持ちになったが、鞠亞は待てなかった。ドレープの裾をつかんで持ち上げ、翼の元へと駆け寄る。
「お兄様っ」
ぱふっと広い胸の中に飛び込み、ぎゅっと抱きしめる。
大好きな、大好きな、愛しい愛しいわたくしのお兄様。
今日。鞠亞と翼は結婚する。
お兄様が、本当にわたくしだけのものになって下さる。
「おめでとう鞠亞さん。とっても綺麗だよ」
とろりと、見ているこっちがとろけてしまいそうなくらい甘い笑みを翼は鞠亞に向けてきた。
この笑みさえも、今日からは鞠亞のものなのだ。そう思うと天にも上る心地になる。
翼は持っていた真紅の薔薇を鞠亞の髪に挿した。
紅色の薔薇の花言葉は、死ぬほど恋焦がれています。知らないはずの知識がどこからか湧いてきて、その言葉に泣きそうになった。鞠亞が翼を死ぬほど恋焦がれていたのと同じように、翼も鞠亞に恋焦がれていたのだ。
「あの、わたくし、すごく幸せですっ」
「うん。今の鞠亞さんすごく幸せそうで僕も嬉しいよ」
「お兄様も幸せですか?」
「そうだね、でも・・・・・・」
そこまで言い、翼は悲しげな表情を浮かべた。
「でも、寂しくもあるかな。今まで可愛がってたイモウトが巣立って行っちゃうからね」
「? 何をおっしゃっていますの? 今日はお兄様の特別な日なのですよ?」
「確かに特別だね。でもやっぱり寂しいな」
なぜ翼が寂しがるのか、鞠亞にはさっぱりわからない。ついでに鞠亞が翼の元を離れるという言葉も理解できない。むしろ近づくのではないだろうか。
「さ、鞠亞さん。そろそろ離れようね」
密着させていた身体を離された。
「いつまでも僕にくっついてると、新郎さん怒っちゃうよ」
「!? 今日はわたくしとお兄様の式ではありませんの!?」
「違うよ。今日は鞠亞さんと・・・さんの式だよ。ほら、行っといで」
くるりと身体を反転させられ、トン、と背を押された。
すると、聖母マリア像の前でソワソワしながらこっちを見ている、太ってて、ヒゲがぽつぽつ剃り残ってて、汗をかいているメガネのオタクっぽい男と目が合う。
「あの人はお兄ちゃんと似てるから、鞠亞さんを任せられると思ってね」
刹那。目が合った男はニヘリと気持ちの悪い笑みを浮かべた。
同じメガネ男子でオタクでも、お兄様のほうが断然いい! 以前に翼とあの男は一寸も似ていない!
「お兄様っ! わたくしあんな薄汚い下劣な生き物と結ばれるなんて嫌ですわっ!!」
逃げるように振り向くと、お互い一歩も動いていないはずなのに翼の姿がやけに遠くにあった。
追いかけようにも、ももから下が別人になったかのように動かない。
「おにぃーーさまぁーーー!!!」
必死にお兄様コールを繰り返していると、やっと気づいたのか、翼が「幸せになれよー」と片手を振っている。
そして一言。
「僕、胸は大きい人のほうが好みだなー」
◆◇◆
「つるぺったんはお嫌いですかーっ!!」
「ぅわっ」
意味不明な言葉を口走りながら鞠亞はベッドから跳ね起きた。
いきなりの絶叫に相当驚いたのか、隣にいた翼も身体を跳ねさせた。
目の前には真っ白なシーツと、薄桃色の羽毛布団。ベビーピンクの枕。さっきのアレは夢。ここは自分の部屋のベッド。隣にいるのは、本物の翼。
叫んだおかげすっかり目が覚め、今自分がどういう状況に置かれているのか瞬時に理解することができた。
「おにいさま」
うまくろれつの回らない舌で翼を呼ぶ。
「おはよう鞠亞さん。よく眠れた?」
爽やかで。澄み切っていて。夢の中よりかっこいい翼の笑顔を見た瞬間、鞠亞はベッドのスプリングを利用した勢いのあるジャンプで白いシャツを着た翼に飛びついた。
逃がしてたまるか、と渾身の力を込めた腕を翼の身体に巻きつける。
「おはようございますお兄様っ。素敵な朝ですねっ」
「ん。そうだね。天気がいいから布団を干したくなるね」
「朝の神々しい光に包まれたお兄様を拝見できるなんて、夢のようですわ」
「あはは。僕も朝日に照らされた可愛いイモウトの可愛い笑顔が見れて幸せだったよ」
最愛の兄にかわいいと言われて嬉しくないはずがない。
朝から舞い上がっていると、コンコン、と部屋のドアがノックされた。カチャリとそれが開き、でっかい胸・・・姉の楓煉が顔を覗かせた。
「あら、朝から翼さんは大忙しね。二人ともおはよう」
「おはようございます。お姉様」
「おはようございます。楓煉さん」
「ふふ、翼さんのおかげかしら、りりの寝起きがいい」
りり、鞠亞のあだ名だ。まりあのりを二回続けて、りり。
「さぁ、お目覚めのハーブティーはいかが? ミントの香りが刺激的ですよ」
白地に淡い色の花が咲いている、丸みを帯びた陶器製のティーポッと、同じデザインでふちが外側に向かって花開くような形のティーカップが3つ、銀の細かな装飾が施されたトレーの上に載っている。
その豊かな香りにつられそちらに顔を伸ばすが、身体は翼に引っ付いたままだ。動かない理由は翼に抱かれている今のこの状態がとても心地よいから。
そんな鞠亞の気持ちを悟ったのか、翼がコアラのように鞠亞を抱えたままベッドのはしまで移動し、その脚の間に座らせてくれた。
鞠亞は翼の背にもたれかかりながら、楓煉からカップをもらう。
薄い陶器製のそれは程よく温まっており、口をつけるとミント独特の香りが鼻腔いっぱいに広がる。
楓煉の淹れるお茶は、味も温度も香りも全て自分好みでとてもおいしい。
そしてその大好きなお茶を大好きな翼の腕の中で飲んでいるということが、おいしさに輪をかける。
「楽しそうねりりちゃん。翼さんに泊まっていただけて幸せね」
「お兄様にきていただいて、楽しくないはずありませんわ」
昨日、土曜の部活があった翼の通う高校に出向き、活動を終えた翼にうちに泊まりに来て欲しいとねだった。
なんとか了承してもらい、昨夜は客間で寝ると言った彼をむりやり自室に連れ込み、猫のようにじゃれついていつのまにか寝た。
少々強引かと思ったが、この気持ちは止められない。
「りり、翼さんに無理を言って困らせていませんね?」
「いえ、そんなことありませんよ。久しぶりにカゾクと過ごせて、あげく泊めさせて頂いて、僕のほうが迷惑をかけてしまったくらいです」
「いいえ、私たちが無理を言って泊まっていただいたんですもの、それに昨夜は翼さんに夕食を作っていただいて、迷惑なんて思っていませんよ。むしろ大歓迎ですよね、りりさん」
「お兄様の手料理、とてもおいしゅうございました」
「そう? よかった」
きれいな手で頭を撫でられる。
昨日学園から鞠亞たちが住むマンションに向かう途中、デリによってもらいいくつか食材を購入した。
大きめの紙袋を抱えた二人は周囲の注目を一身に集めていた。二人のずばぬけた容姿と、鞠亞がべったりと翼にくっついていたことから恋人同士だと勘違いしてくれたのだろう。
鞠亞は翼の恋人だと一般人は認識している。
実際は誤認なのだが、そんなこと鞠亞たちが口に出さなければ気づくものはいない。ただただ幸せだった。
そして料理も格別だった。
カマンベールとチェダーチーズのマカロニグラタン。生ハム多めのシーザーサラダ、ドレッシングも手作り。魚介類がふんだんに使われたシーフードスープ。タラの片栗粉焼き。季節のフルーツ盛り合わせ……。
どれもこれも絶品で舌鼓を打った。下手なレストランに行くよりも翼の料理のほうが格段上だ。『滅多に食べられないお兄様の手料理』だから舌が敏感になっているようだった。
「翼さん、寝汗をかいていますよ」
「あ、本当ですね」
楓煉に指摘され、翼はカップをソーサーに戻し、鎖骨の辺りに手をやった。
「風邪をひいてしまいますよ。シャワーを浴びてきてくださいな」
「いえ、大丈夫です。拭けば何とかなりますし――――」
「いけませんっ! 翼さんがお風邪を召されてしまったら、わたし、生きていけませんっ!」
ぶわっと目に涙を浮かべ、楓煉は翼の肩をつかみ、大仰に揺さぶり始めた。
言葉の途中で自分の感情を爆発させ、感極まってしまう楓煉を見るのは初めてではない。
鞠亞は、楓煉が誰に対してもこういう態度を取っているのだと思っている。
ガチッという音と供に「痛っ」と言う声が頭上から聞こえた。どうやら翼が揺さぶられた拍子に舌を噛んだらしい。
「は、入りますからやめれくらさい……」
「まぁ本当!? ささ、タオルとメガネケースをどうぞ」
どこからか取り出したものを楓煉は翼に差し出した。翼はそれを受け取るとベッドから降り、手櫛で髪を整えている。
・・・・・・!
そうだ。
「お兄様、一緒に入ってもよろしいですか?」
「え、鞠亞さんは駄目だよ」
向こうを向いたままあっさりと返答された。
しかもそのまま部屋を出て行ってしまった。
ベッドの上で、一人固まる。
自分の分のカップに紅茶を注ぎながら楓煉がクスクス笑っている。
「りり、翼さんのこと大好きなのね」
当たり前じゃん。大好きだもん。愛してるもん。
想いを寄せている翼からの拒絶で泣き出しそうな心が、先ほどの言葉をリピートする。
―――え、鞠亞さんは駄目だよ。
・・・・・・ん?
―――鞠亞さんは駄目だよ。
―――は駄目だよ。
―――は
“は”?
“は”というのは、コレはダメだけどアレはいいよ、とかの“は”だ。
・・・・・・鞠亞がダメなら誰ならいいんだ? ここにいるのは、鞠亞のほかに楓煉だけだ。
―――僕、胸は大きい人のほうが好みだなー。
唐突に翼が夢の中で言っていた言葉を思い出した。
バッと楓煉の胸を見る。楓煉はティーセットの片づけをするため前屈みになっており、少し動くだけで豊満な胸が盛大に揺れる。
確か、Fカップだっけ?
ペタリと自分の胸元に手を当ててみるが、まな板と呼ぶのにふさわしい感触しか伝わってこなかった。
『鞠亞さんみたいな貧乳はお断りだけど、楓煉さんみたいな巨乳ならOKだよ』
つまりはそういうことなのだろう。
何の根拠もないそんな憶測が正解に思えてきて、体積のない自分の胸が惨めに感じる。
胸に手を当て、楓煉に焦点をあわせたまま固まっている鞠亞をさすがに不審に思ったのか、楓煉が片付ける手を止めた。
「りりちゃん? わたしの顔に何か付いて・・・・・・きゃっ」
その言葉が終わるのを待たず、鞠亞は猫のように楓煉に向かって大きく跳びはね、自己主張の激しい胸を鷲づかみにした。
実際に触ってみると、大きさも柔らかさも想像以上のものだった。
思わず自分のものと比べてしまい、敗北感にうりゅ~っと涙がにじむ。
「ど・・・どうしたの?」
いきなりの出来事に驚いた楓煉が当たり前の疑問を口にする。
「―――様の・・・・・・」
消え入りそうな声で呟くと、もう一回と言われ、きっと眦を吊り上げて楓煉を見据えた。
「ボインなお姉さま$Ωλ∑♯∬!!」
舌がもつれ、最後のほうは日本語になっていなかったが、言いたいことは言った。
楓煉から身体を離し、ダッシュで部屋のドアを開け、現れた廊下を全速力で走る。
目指すのは、シャワー室。
「おにいさまぁぁぁぁ!!!」
バンッと脱衣所のドアを開けると、「ぅわっ!」っと叫んで翼は脱ぎかけていたパンツをずり上げた。
「危ないよ鞠亞さんっ、一歩間違えたら犯罪だよ! 訴えられたらお兄ちゃん敗訴決定だから刑務所入れられちゃうよ! 今刑務所に入ったらコミケに行けなくなるからすっごく困るんだ。今回のコミケのガロンティアワークスのブースではアニメ『スティレット』の声優をしている略してETTの方々が先着で商品を手渡ししてくれるんだよ。あとSilverCrossっていってね、メガネやクール系やお兄さん系や微薔薇といった萌え要素満載の二組のイケメン双子計四人のサークルが出展するって言うから今から同人誌とグッズ手に入れたくてうずうずしてるんだ。あと『新世界のドヴォルザーク』っていう音楽を中心としたミステリーアニメのコミケ限定グッズ買わないといけな……ってわー!!」
わたわたと後半三分の二が理解できない言い訳をしている翼に近づき、唯一の着衣であるパンツをいつもの癖でぐっとつかんだ。
「お兄様、お話がありますの」
「今じゃないと駄目?」
「だめですわっ」
ぐいっと背伸びをして顔を寄せる。
自然、手は下に行く。
「鞠亞さん! 鞠亞さん! 下げないで下げないで!」
「お兄様になんと言われましても下がる気はありませんわ!」
「分かった分かった! 下がらなくていいから下げないで!」
翼は必死に下着を上げているが、鞠亞は頓着せず下げ続けた。
「聞いてくださりますか?」
「・・・・・・分かった。きちんと聞いたげるよ。でもその前にズボン穿いていいかな?」
鞠亞の行動を後回しにする発言にカッときた。
「そんなこと今関係ありませんわっ!!」
「はい。すみませんでした」
般若の顔を剥き出しにすると翼はビクッと肩を揺らして謝った。
そのままほぼ全裸の兄を正座させ、本題に入った。
「お兄様は、巨乳の女性がお好みですか?」
「・・・・・・ん?」
頭の周りで疑問符を点滅させる兄にもう一度告げる。
「貧乳な女性はお嫌いですか?」
しぱしぱと長い睫の音が聞こえそうなほど瞬きを繰り返した翼が、ふいに細められた。
「息は切らしてるのに、まだ眠いのかな」
正座の体勢のまま翼は腕を伸ばし、頭を撫でられた。
眠いってなんだ眠いって。意味がまったく分からない。頭にある手を下ろそうと腕を伸ばすと、背後のドアが開く気配がした。
「りりちゃんやっぱりここにいた。翼さんと一緒に入るの?」
楓煉はどうやら洗濯したタオルを補充しに来たようで、たくさんのふわふわとしたタオルを抱えている。
「素敵な格好ですね翼さん。もう入りましたか?」
「いえ、これから入ろうかと」
「あら、りりが服を脱ぐのを待っていたの? 優しいのね」
皮肉なんてみじんも感じられない声で楽しそうに楓煉は話す。
「お兄様はわたくしなんかとは入りませんわ」
対照的に鞠亞はぶすくれた声で水を差す。
「お兄様はわたくしみたいなつるぺったんより、お姉様のようなでか乳の女性と入りたいそうです」
「ん? 鞠亞さん、そんなこと誰が言ったの?」
慌てたように翼が待ったをかけた。
「お兄様がっ! けさっ!」
大人二人に囲まれて言葉を発しているうちに視界がどんどんぼやけていく。
顔も熱くなってきた。
「わたくしに向かっておっしゃいました!」
ひっひっと喉がなる。
目の前の男は鞠亞の言っていることが理解できていないようで、立ち上がり、泣き始めた鞠亞の頬をぬぐっている。
「翼さん、りりに本当にそんなことを言ったのですか?」
戸惑いを含んだ声で楓煉が翼に問う。
「いえ、心当たりが全くないんですが・・・・・・。鞠亞さん、僕本当にそんな酷いこと言ったかな?」
身をかがめ、目線を合わせてくる翼に、
「おっしゃ・・・・・・わたくし・・・っに、向かっ・・・・・・おっしゃ・・・・・・」
ひくひくと鳴る喉の音に邪魔されながら懸命に答える。
「どこで?」
「わたくしの・・・ゆっ夢の・・・・・・なっかっで」
「夢?」
繰り返された言葉にコクコクと頷く。
と、同時に張り詰めていた前後の空気が解けていった。
はぁーっと大きく息を吐きながら、翼は鞠亞の後頭部に手をやった。
「そっか、ごめんね、酷いこと言って」
よしよしとあやすように撫でる手はそのままに、翼の視線は鞠亞を通り越して楓煉に注がれる。
本人達はアイコンタクトをとっているだけなのだが、歪みに歪んだ今の鞠亞の思考では、翼が楓煉の胸の大きさを確認しているとしか思えなかった。
鞠亞の胸が大きかったら、翼の気を惹いていられるのに。わなわなと身体が震えはじめ、新たな涙が頬を伝う。
それに気づいた翼が、けぶった視界でも分かるほど目を見開いた。
「どうしたの鞠亞さ―――わっ」
力の入らない腕で、裸の翼の胸を突く。
「おにいさまの、おにいさまのぉぉぉ・・・・・・巨根!!」
「巨根!?」
翼が何か言ったようだが、聞き取れなかった。
転びそうになりながら、脱衣所から飛び出した。
◆◇◆
「ばか。わたくしのばかっ」
部屋を飛び出し、マンションの階段をのぼった先にある屋上庭園のベンチに座り、冷えた頭を抱える。
(お兄様は他人に向かって暴言を吐くようなお方ではありませんのに)
冷静に夢と現実の区別をすれば防げただけに、後悔の念は大きい。
姉の胸を揉んで、パンツ一枚の兄を正座させ、挙句に泣いて、いったい何をしているのだろう。
でも、翼の裸が見れた。ラッキー。
「って、ラッキーですけどラッキーじゃありませんわ!」
つい大声を出すと、近くにいた小鳥達がいっせいに空へ飛び立っていってしまった。
今日は雲ひとつない青空だ。ずっと見ていると吸い込まれそうで、木々の萌えるような緑がそれを引き立てる。まるで翼の瞳のようだ。
天気は快晴なのに、鞠亞の心はどんよりと曇っている。
(お兄様にあわせる顔がありませんわ・・・・・・)
自業自得なのだが妙に悲しくなり、また涙がにじむ。
「いたいた、鞠亞さん見っけ」
いきなり響いた声に盛大に身体が跳ねた。
「やっぱり今日は天気が良いね。布団干すついでにみりん干しでも作ろうか」
階段をのぼったすぐ先にある茂みから翼が登場し、空に向かって伸びをしている。
翼はさくさくと音を立てながら鞠亞の座っているベンチまで歩き、隣に腰を下ろした。シャワーはもう浴びたらしく、今朝の白いシャツからジーンズに灰色のシャツというラフな格好になっている。
今更だが泣き顔を見せるのが恥ずかしくなった。手の甲で目を擦ろうとすると、「擦らないの」と腕をとられ、代わりに温かいタオルを目に当てられた。
わざわざ作ってきたのだろうか。
「お兄様は、怒ってはいませんの?」
おそるおそる聞くと、「何を?」と実にとぼけた声で返された。
「さきほどの、その・・・、脱衣所での・・・・・・」
「あぁ、貧乳がどうのこうのってこと?」
なんとなく恥ずかしくて返事をできずにいると、怒ってないよ、と笑った声で言われた。
「でも、わたくしお兄様にひどいこと言ってしまって、傷をつけてしまったと思って」
「お? 反省してるだけでも偉い偉い。それにあんなことで傷が付くほどお兄ちゃんも柔じゃないよ」
「・・・・・・ほんとうですか?」
「本当本当」
タオルが載せられているせいで表情は見えないが、声と顔は比例するものだ。怒っている素振りもなく、本当に気にしていないことが分かる。
けど、言わないと。
「・・・・・・ごめんなさい」
小さな声での謝罪を翼は聞き取ってくれたらしく、よくできましたと頭を撫でてくれた。
翼はよく鞠亞の頭を撫でてくれる。長い指を髪の間にもぐらせ、頭皮を軽くもむような兄のそれが大好きだった。
今の冷静な頭なら、もう一度質問してもいいかもしれない。
「お兄様は、貧乳の女性と豊乳の女性どちらがお好みですか?」
頭を撫でる手が一瞬止まったが、すぐに再開された。
「ん、僕は胸で女性の好き嫌いを判断しているわけじゃないから、分からないな」
「では、貧乳のよさを教えてくださりませんか?」
今度は確実に翼の手が止まった。
敬愛している兄にコンプレックスを褒めてもらえれば、逆に自信がつくかと思ったのだが、無理だったようだ。
固まるのも無理はない、巨乳のいいところならまだしも、貧乳のいいところなんて自分だってわからな―――
「セパレートの水着がよく似合う」
え?
タオルを退けて翼の顔を見ると、そこには息を呑むほど真剣な顔があった。その瞳の中では炎が舞い踊っている。
「セパレートの水着が、とても良く似合う」
もう一度、噛みしめるように翼が言った。
「セパレート型の水着ってフリルが使われているものが多くて可愛い。ビキニにもフリルはあるけど、僕はセパレートの方が好きだな。あとセパレートってあの独特の形で胸の大きい人がつけると個人的に変な感じがするんだよね。そういう点でも似合う人が限られてくるから、特別って感じがして僕は好きだな」
宙の一点を見つめ、熱のこもった声で語っている。
「ビキニよりセパレートの方がお好みですか?」
「お好みです」
「セパレートの水着が似合う女性のこと、どう思われますか?」
「素晴らしいと思われます」
間髪いれずにきっぱりと答えた兄の言葉に、思わず口に手を当て、目を丸くした。
驚きからではなく、喜びから。
翼の中では貧乳=セパレート型の水着が似合う=素晴らしい女性という方程式が成り立っているのだ。
この貧乳の部分を鞠亞に置き換えると、鞠亞=セパレート型の水着が似合う=素晴らしい女性、つまり鞠亞=素晴らしい女性となる。
つぼみが開き、美しい花を魅せるように、鞠亞の顔がみるみる綻び、一輪の花を咲かせた。
都合のいい解釈だと分かっている。でも嬉しい。
すごく嬉しい。
「お兄様、わたくし、すっごく幸せです」
「うん。今の鞠亞さんすごく幸せそうで僕も嬉しいよ」
「お兄様も幸せですか?」
「うん。でも少し寂しいな」
「なぜですか!?」
まさか「鞠亞が巣立って行っちゃうから」なんて言い出すのだろうか。
ドギマギしながら待っていると、発せられた言葉は構えていたものと全く違うものだった。
「いやいや、可愛がってたイモウトに『巨根!』なんて言われちゃったんだよ? 鞠亞さんも大人になったんだなって実感して少し寂しくなっちゃった」
そのセリフに全身が真っ赤になった。
巨根のどこが大人なのだろうか。しかし寂しいのは本当のようで、翼は明後日の方向を見つめている。
……それよりもだ。
「お兄様、今年、江ノ島に泳ぎに行きませんか?」
鞠亞の提案に翼は一瞬驚き、笑顔で了承してくれた。
驚きの理由は知っている。鞠亞はプールや海など貧乳を露骨にさらす場所にいくのがすこぶる嫌だったのだ。
しかし今は違う。そんな考えどこかへ吹き飛んだ。
翼がコンプレックスを褒めてくれ、さらに素晴らしいとまで言ってくれたからだ。
暗い闇から、明るい光の地へと連れて来てもらったからだ。
たった一人の人間の、たった一言で、こんなに価値観が変わるとは思ってもみなかった。これが恋の成せるわざだ。
今度、楓煉とフリルがたっぷりついたセパレート型の水着を見に行こう。
その中で気に入ったものを身に着けて、三人で海に行こう。
そして、翼に褒めてもらおう。
真夏の太陽の下で輝く笑顔をたくさん見よう。
さっきとは違い、心と比例するすがすがしい空の下、今から浮き足立つ心をそのままに、大好きな人の胸へと飛び込んだ。
◆END◆
ここまで読んでくださりありがとうございます。沖田リオです。
この小説は、私が別の場所で連載させていただいている連載小説の番外編を改稿したものです。いかがだったでしょうか?
これを読んでいただくて、前作の『フェイクに駆け引きエイプリル』がより分かりやすくなればいいなと思いながら投稿しました。
鞠亞ちゃん。とことんお兄ちゃんラブです。翼は意外とさっぱりしてます。
最後の最後までお目通しいただき、本当にありがとうございました。
またあなたさまのお目にかかれることを祈って。沖田。