光るだけの没落令嬢を笑った俺が、ダンジョンで命を救われた話 ~なお、魔物を斬ったのは執事の方だった気がする~
冒険者ギルドの朝は、酒と汗と、安い煙草の匂いがする。
俺――ヨハンは、掲示板の前で依頼書をにらんでいた。
「一階の鼠退治、三匹で銅貨六枚。……やってらんねえな」
「文句言わないの。先月それで三日食べたでしょ」
隣で弓を背負ったリッタが、ため息まじりに言った。同じ村から出てきた幼なじみで、組んでもう一年になる。一年やって、俺たちはまだ一階と二階を行き来しているだけだ。
村を出るとき、俺は言った。一年で名前を売って帰ってくる、と。
一年経った今、売れたのは剣の刃こぼれと、ブーツの底くらいだった。
「三階の依頼、ないのかよ」
「あるけど、あたしたちには早いって。受付の人にも言われたでしょ」
分かってる。分かってるけど、分かりたくない。
そのときだった。ギルドの扉が開いて、空気が少しだけ変わった。
入ってきたのは、二人。
ひとりは、俺と同じくらいの年の女の子だった。背筋がまっすぐで、歩き方がやけに綺麗だ。けれど着ている服は、袖にも裾にも、色の違う布で丁寧な継ぎが当ててある。手には、古びた杖。
もうひとりは、黒い燕尾服の男。執事、というやつだろう。腰に剣を一本さげて、女の子の半歩後ろを歩いている。穏やかな顔をしていて、強そうには見えない。
「お、来た来た。光るだけのお嬢様だ」
奥の卓から、誰かが言った。何人かが笑う。
「今日も光りに来たのかい、お嬢様。ダンジョンが明るくなって助かるぜ」
笑い声が広がる。俺も、知っていた。最近ギルドに出入りしている、没落した貴族の娘。魔法使いを名乗っているが、使える魔法は「光るだけ」。燃やすことも、凍らせることも、傷を治すこともできない。ただ、光る。
どうしてだろう。そのとき俺は、笑い声に混ざりたくなった。
たぶん、自分より下がいると思いたかったんだと思う。
「光るだけなら、ランタン買えばいいんじゃねえの」
俺の声は、思ったより大きく響いた。笑い声が、もう一段大きくなる。
「ちょっと、ヨハン」
リッタが袖を引いた。
女の子が、こちらを見た。
怒るかと思った。泣くかと思った。どちらでもなかった。
「はい。今は、光るだけです」
はっきりした声だった。
「ですから、光る以外のこともできるようになりたくて、ここに来ています。失礼します」
それだけ言って、彼女は受付へ歩いていった。後ろの執事が、俺に向かって軽く頭を下げる。笑ったままの顔で。
笑い声は、なんとなく尻すぼみになった。
俺は、なぜか負けた気がした。
「……最低」
リッタが小声で言った。
「うるせえ」
俺は掲示板に向き直って、一枚の依頼書をはがした。
三階。牙狼の毛皮、二枚。銀貨三枚。
「ヨハン、それ」
「行くぞ。光るだけのお嬢様に負けてられるか」
負けるも何もない。分かってる。
分かってるけど、分かりたくなかった。
*
三階は、二階とは匂いが違った。
湿った土の匂いに、獣の匂いが混ざっている。壁に生えた光苔の明かりが、二階より少しだけ暗い。
「ねえ、やっぱり戻ろうよ」
「一体だけだ。一体狩ったら戻る」
言いながら、俺は自分の声が小さくなっているのに気づいていた。
牙狼は、すぐに見つかった。
通路の先で、一体が骨をかじっている。思っていたより大きくない。犬より少し大きいくらいだ。
いける、と思った。
リッタの矢が肩に刺さり、跳びかかってきたところを俺の剣が受ける。重い。腕がしびれる。けれど、二度、三度と斬りつけるうちに、牙狼は動かなくなった。
「……やった」
「やった、じゃない。手、震えてるよ」
「お前もな」
二人で笑った。笑えるくらいには、まだ余裕があった。
皮を剥ぎ終えたころ、ふいに、息が苦しくなった。
走ったわけでもないのに、胸が重い。空気そのものが、肩にのしかかってくるような感じ。
「ヨハン……なんか、変」
リッタの顔が青い。
ギルドで聞いたことがあった。強い魔物や、強い魔力を持つものの近くでは、空気が重くなる。耐えられないなら、そこはまだお前の来る場所じゃない、と。
聞いたときは、年寄りの脅し文句だと思っていた。
通路の奥で、何かが動いた。
牙狼だった。さっきと同じ、灰色の毛並み。
ただ、大きさが違った。
馬ほどもある。背中の毛が逆立ち、口の端から垂れた涎が、床の石を焦がしている。目が、赤い。
「……三階に、あんなのいるのかよ」
「いない。いないって、図鑑には」
逃げろ、と頭では分かっていた。けれど足が動かなかった。重い空気が、膝を床に縫いつけている。
巨大な牙狼が、こちらを向いた。
次の瞬間、リッタの体が横に吹き飛んだ。
「リッタ!」
壁に叩きつけられた彼女の腕から、血が流れている。弓が、二つに折れて転がっていた。
俺は剣を構えた。構えたつもりだった。切っ先が、みっともないくらい震えている。
一年。一年やって、俺は何をしてきたんだろう。
牙狼が、低く唸った。
ああ、死ぬんだな、と思った。
村を出るとき、母さんは泣かなかった。泣かないで、黙ってパンを焼いて持たせてくれた。あのパンの味を、なぜか今思い出した。
「――下がって!」
声がした。
背後から、光が差した。
ランタンの明かりとは違う。もっと白くて、もっと柔らかい光。それが通路いっぱいに広がって、牙狼の赤い目を照らした。
牙狼が、止まった。
ほんの一瞬。振り上げた前脚が、宙で迷うように揺れた。赤い目から、何かが抜け落ちたように見えた。
振り返ると、継ぎはぎの服の女の子が、杖を突き出して立っていた。
光るだけのお嬢様。
その後ろで、執事が言った。
「お嬢様、お下がりください」
「いや」
彼女は、震えていた。杖を握る手が、白くなるほど力んでいる。額には汗が浮いて、息が荒い。きっと、この重い空気の中に立っているだけで精一杯なのだ。
それでも、一歩も下がらなかった。
「目の前で、人が倒れてるの。下がる理由なんて、どこにもない」
「……かしこまりました」
執事は、なぜか少しだけ笑ったように見えた。
「では、もう少しだけ照らしていてください」
光が強くなった。
牙狼が、苦しそうに首を振る。止まっている、というより、何かを思い出しかけて戸惑っているような、不思議な動きだった。
そして――光が、ふっと消えた。
女の子の膝が、崩れた。杖が床に落ちて、乾いた音を立てる。
牙狼の目に、赤が戻る。
まずい、と思った。
その瞬間、俺の横を、黒いものが通り過ぎた。
風、だったと思う。
足音は聞こえなかった。剣を抜く音も聞こえなかった。
俺の耳に届いたのは、ただひとつ。
かちん、という、刃が鞘に収まる小さな音だけだった。
巨大な牙狼が、こちらに向かって一歩踏み出した。二歩目は、なかった。
首が、ずれた。
ずれて、落ちて、それから胴体が、思い出したように横倒しになった。
重かった空気が、嘘みたいに軽くなる。
牙狼の向こうに、執事が立っていた。息ひとつ乱れていない。燕尾服の裾が、ゆっくりと元の位置に戻っていくところだった。
俺は、何が起きたのか分からなかった。
分からなかったけれど、ひとつだけ分かったことがある。
あれは、たまたま入った一撃なんかじゃない。
*
「お嬢様。お嬢様、聞こえますか」
執事が、倒れた女の子を抱き起こしていた。さっきまでの風みたいな動きが嘘のように、手つきはひどく丁寧だった。
女の子が、うっすらと目を開ける。
「……カイト。魔物は」
「倒れました」
「倒せ、たの……?」
「はい。お嬢様の光で、魔物の目が眩んだようです。その隙に斬りつけたら、運良く首に入りました」
俺は、耳を疑った。
運良く?
あれが?
「……本当に?」
女の子が、じっと執事の顔を見た。まっすぐな目だった。ギルドで俺を見たときと、同じ目。
執事は、少しも表情を変えなかった。
「本当です。借り物の剣ですから、まぐれでも当たってくれて助かりました」
「…………そう」
女の子は、何か言いたそうに唇を動かして、それから小さく息を吐いた。
「……前にも、同じ顔をしてた」
「そうでしたか」
「……分かった。それより、あちらの方を」
彼女の視線が、俺と、壁際のリッタに向く。
俺は慌ててリッタに駆け寄った。腕の傷は深いけれど、意識はある。歯を食いしばって、「生きてる」と言った。
ふらふらと、女の子がこちらへ来た。執事に支えられながら、リッタの横に膝をつく。
「ごめんなさい。わたくしの光は、傷を治せないんです」
本当に申し訳なさそうな顔で、彼女は言った。それから自分の服の袖を――継ぎの当たった袖の端を、ためらいなく引き裂いた。
「おい、それ」
「布なら、また継げばいいんです。慣れていますから」
彼女はリッタの腕を縛った。手つきは不器用で、結び目は少し曲がっていた。それでも、血は止まった。
俺は、黙ってそれを見ていた。
何か言わなきゃいけなかった。言わなきゃいけないことは、分かっていた。
「……なんで、助けた」
口から出たのは、それだった。
「俺、あんたを笑っただろ。ランタン買えって。なのに、なんで」
女の子は、きょとんとした顔で俺を見た。
それから、少し考えて、言った。
「笑われたことと、あなたが死んでいいことは、関係ありません」
当たり前のことを言うみたいな口調だった。
俺は、何も言い返せなかった。
「それに」
彼女は、自分の手のひらを見つめた。まだ少し震えている手を。
「光るだけでも、今日は、少しだけ役に立てた気がします。……だから、わたくしのほうこそ、お礼を言いたいくらいです」
そう言って、ほんの少しだけ笑った。
疲れきった顔で、それでも、うれしそうに。
そのとき俺は、ギルドで彼女を笑った自分を、殴りたくなった。
*
帰り道、女の子は執事の背中で眠ってしまった。
魔法の反動というやつらしい。力を使い切ると、しばらく立てなくなるのだと、執事は穏やかに説明した。
俺はリッタに肩を貸しながら、二人の後ろを歩いた。
二階への階段の手前で、俺は口を開いた。
「なあ」
「はい」
「あんた、何者だ」
執事は振り返らなかった。背中の女の子を、少しだけ背負い直す。
「フォンブルク家の執事です。それ以上でも、以下でもありません」
「嘘つけ。あれが、まぐれなもんか」
足音だけが、しばらく響いた。
「――見えましたか」
執事の声は、さっきまでと同じように穏やかだった。けれど、ほんの少しだけ、温度が違った。
「見えなかった。見えなかったから、言ってんだよ」
「そうですか」
執事は、小さく笑った。
「では、見えなかったことにしておいていただけますか。お嬢様には、内緒で」
「……なんでだよ。あんたが倒したって言えば、あの子だって」
「お嬢様は、ご自分の力で前に進もうとしておられます」
執事は、前を向いたまま言った。
「俺の剣があれば大丈夫だ、と思わせてしまったら、あの方はきっと、どこかで足を止めてしまう。それは、あの方の望みではありませんので」
背中の女の子が、むにゃ、と小さく寝言を言った。
「お母様……」
執事の歩みが、ほんの一拍だけ遅れた。
執事は、何も言わなかった。
俺も、聞かなかった。聞いちゃいけない気がした。
「……でも、それって嘘だろ」
俺は言った。
「あの子、あんたの顔、じっと見てたぞ。たぶん、気づいてる。気づいてて、信じようとしてる。そういう顔だった」
執事は、しばらく黙っていた。
「ええ」
やがて、ぽつりと言った。
「嘘をつかれる方は、たまったものではないでしょうね」
その声が、少しだけ寂しそうに聞こえたのは、俺の気のせいだったのかもしれない。
そのとき、背中の女の子が、また寝言を言った。
「カイト……嘘ついたら……許さないから……」
執事は、何も答えなかった。
ただ、彼女がずり落ちないように、そっと背負い直しただけだった。
隣で、リッタが小さく吹き出した。
「……あんたたち、変な主従ね」
「よく言われます」
執事は、今度こそいつもの顔で笑った。
*
三日後。
腕に包帯を巻いたリッタと一緒に、俺はギルドにいた。
掲示板の前には、相変わらず一階と二階の依頼書が並んでいる。俺は鼠退治の紙をはがした。三匹で銅貨六枚。
「三階、行かないの?」
「まだ早い。……受付の人にも言われたしな」
リッタが、驚いたような顔で俺を見て、それから笑った。
奥の卓から、聞き慣れた声がした。
「おい、聞いたか。光るだけのお嬢様、三階で倒れて執事に担がれて帰ってきたんだと」
「ははっ、だろうな。光るだけで三階なんて――」
「あの光がなかったら、俺は死んでた」
気づいたら、口に出していた。
卓の連中が、ぽかんとして俺を見る。三日前、一緒になって笑っていた連中だ。
「……は? ヨハン、お前何言って」
「三階に、馬みたいな牙狼が出た。空気が重くて、足が動かなかった。あの子の光が、そいつを止めたんだ。俺とリッタは、それで生きてる」
嘘は、言っていない。
全部は、言っていないだけだ。
卓の連中は顔を見合わせて、それから、なんとなく黙った。
受付の奥で、白髪まじりの年配の職員が、こちらを見ていた。目が合うと、ほんの少しだけ口の端を上げて、また書類に目を落とした。
「……あの子たち、今日は来てないのか」
受付で鼠退治の手続きをしながら、俺は聞いた。
「フォンブルク様なら、しばらくダンジョンには来られないそうですよ」
若い受付嬢が、帳面をめくりながら言った。
「魔法学院の入学試験を受けられるんですって。それまでは、魔法の修行に専念されるとか」
「学院……」
魔法使いの卵が集まる場所だ。貴族の子どもや、才能のある連中がうようよいるという。
光るだけで、そんなところへ行くのか。
前の俺なら、きっと笑っていた。
今は、笑えなかった。
あの子は、きっとまた笑われる。継ぎはぎの服で、光るだけの魔法で、貴族の子どもたちに囲まれて。
それでも、あの子は下がらないんだろう。
目の前で誰かが倒れていたら、震える手で杖を握って、「下がる理由なんて、どこにもない」と言うんだろう。
そしてその後ろには、たぶんあの執事がいる。
鞘に収まる音しか聞かせない剣を、腰にさげて。
「ヨハン、行くよー」
リッタが入口で手を振っている。
「おう」
ギルドを出ると、空がやけに高かった。
あの二人がどこまで行くのか、俺は少しだけ、見てみたくなった。
お読みいただき、ありがとうございました!
番外編として短編を書きました。
(本編とは、一部の設定や時期が異なる「もう一つのお話」としてお楽しみください)
光るだけの没落令嬢エリアナと、力を隠した執事カイトの物語は、連載版『「光るだけ」と笑われた没落令嬢、ツギハギのローブで魔法学院に挑む ~なけなしの金で買った奴隷執事は、なぜかわたくしより強いらしい~』で続いています。
エリアナが魔法学院を目指す修行の日々、入学試験で出会うライバル、そしてカイトが隠しているもの――。
二人の歩みを見届けていただけたら嬉しいです。
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