妹か弟が生まれるはずだった――全てを喰われた少年は、もう、逃げることをやめた
「お母さん、もうすぐ弟か妹が産まれるの?」
「そうよ。性別は……もうすぐしたら分かるかしら? エコーでなかなか見せてもらえなくて、きっと恥ずかしがり屋さんなのね」
母と手を繋いだ帰り道、大きなお腹を見つめて言えば、弾んだ声が返ってきた。
三人家族、そこに新たな家族が一人増える。きっと楽しくて、楽しくて、良いことが待っているだろう。
――だって、お母さんも、お父さんも、とっても嬉しそうだから――……。
◇◆◇◆◇◆◇
それは、それは、紅い月が照らす真っ赤な夜だった。
トイレで目が覚めて、通りかかったリビングから物音がした。その扉がわずかに開いていた。
「お母さん……?」
リビングから漂ってきたのは、鉄棒を練習した後に手から臭う香りと同じもので――、扉の隙間からは赤い光が差し込んでいた。
「――……」
ピチャ、ピチャ、と不自然な水音が響いている。何かを砕く聞いたことの無い、重い音がする。
どくどくと心臓の鼓動がうるさい。伸ばしてしまった手は、リビングの扉をそっと開けた。
「え――……?」
「……あれ、兄さんから来たの? せっかちだなぁ、もう少し待ってよ」
「え……?」
リビングに明かりはついていなかった。窓から月明かりがあるだけだ。リビングの中央で、小さな影が蠢いている。聞いたことのない声がした。
「はぁ――、デザートは後でゆっくりが良かったのになぁ」
部屋に充満する鼻を突く生臭い香り――、そう父が釣った魚を捌く香りに似ている。
ビチャ――と、何かが落ちた音がした。小さな影が手に持ったものを床へと放った音。頭で理解するよりも早く――それは、ずいっと、近づいてきた。
「――っ」
「まぁ、いいや。兄さんも、ボクの糧になってよ?」
「兄さん……? かて……?」
「言葉が難しい? 言語習得は済んだつもりなんだけどなぁ? まぁ、良いか」
自分よりもはるかに小さな手が、ぬっと目の前に伸びてきた。
考えるより先に、手を振り払おうと右腕を出していた。ゴキッと先ほどから聞いていた音とそっくりな音が、右腕から発せられた。
「っ、ああああああ!」
喉からほとばしった絶叫が、家の中で轟いた。けれど、いつもなら駆けつけてくれるはずの母も、父も、現れる様子がない。
「ああ、やっぱり良いなぁ。人の悲鳴は。ねぇ、もっと泣いてよ、兄さん」
「――っ、や。お、母さんっ! お父さん! どこ!?」
右腕が痛い。逃げるように廊下へ後ずさり、家の中を駆け回った。声をあげても、家の中から音がしなかった。
ズキズキと脈打つような熱さと痛みが、右腕からする。バクバクと心臓の鼓動がうるさく、風船のように破裂しそうだ。
――『ゴキッ』
あの砕ける音。リビングに漂っていた臭い。月明かりが照らした赤い床。
知らない子どもの、知らない言葉がぐるぐると頭の中を回っている。
――違う、違う、違う。きっと寝てるだけ。きっと、ちょっとそとに出てるだけ。
家の中に誰もいない。溢れ出す涙を何度も拭って、暗く、ぼやけた視界でもう居ない誰かを探していた。
「お母、さんっ。……お、父さん……っ……」
涙で濡れた声に、返ってくるものは無かった。
――それから、十年――
「リューシュ、ビショップ昇格おめでとう。お前も……もうすぐ、十八か。早いもんだな」
「……ウォフの見た目が変わらないのは、卑怯過ぎない? それ、童顔だからじゃないよね」
昇格祝いを投げて寄越したのは、銀灰色の短髪の若い男――ウォフ。琥珀色の瞳の周りには皺の一つもなく、リューシュが出会った頃から変わらない見た目だ。
『――何が起こったか、君が知りたいなら教えてやる。先ず君に怪我をさせたやつら――その習性、本性から“シノドンティス・ムルティプンクタートゥス”というカッコウナマズから名前を借りて、俺たちは、ムルティプンクタートゥスと呼んでいる』
凄惨な出来事から助けられたリューシュが望み、事実を聞かされた。
『カッコウは知っているか? 托卵する有名な鳥だ。シノドンティス・ムルティプンクタートゥスは魚で、カッコウナマズとも言われる。コイツらは卵を蹴落とすカッコウと違って、卵だけじゃなく稚魚を食らって糧にする。ここでムルティプンクタートゥスと例えて呼ぶやつらは――人を、喰らう』
『カッコウナマズ……、糧……』
あの不気味な声が糧になれと言っていたことを理解すると同時に、今もなお忘れることなど出来なかった。
『母親が妊娠していたんだろう? やつらは人の腹の中に寄生する。胎児を喰らって、母体からの胎児への栄養も奪う。しばらくは家族ごっこをして姿を眩ませるのだが、まれにせっかちなやつがいてな。君が体験したように、十月十日を経ずに体外へと喰い破って出てきて、その一家全員を餌として喰う。今回、助かったのは君だけだ』
『それらに対抗する組織が、俺たちアフラだ。対ムルティプンクタートゥスに特化した武装組織。ま、ムルティプンクタートゥス用の警察みたいなもんだな。実際、殺人とは別だから、ムルティプンクタートゥス案件は譲ってもらっている。君の案件も俺が引き継ぐ』
『……その、警察みたいな組織に……、オレも。……オレは、どうやったらなれますか?』
保護されたあの日、口をついて出た言葉は、現在まで変わることの無い――リューシュとしての行動原理だった。
『ムルティプンクタートゥスは、人間社会に紛れ込んでくる。コードネームは、アフラ側の人間が取って替わって、なりすまされないようにと苦肉の策だ。名前を、存在を隠して、必死に自分という個を守る』
親につけられた名を捨てるように隠し、ウォフによって名付けられたリューシュとして、アフラで活躍し、チェスになぞらえられたビショップの地位まで登りつめた。
「高等部を卒業してしまえば、潜入調査員としての任期は終わる。その後は晴れて、ムルティプンクタートゥスを狩る側に回るわけだな」
「……ようやく、か」
「はぁ……、お前な。調査だけだっつってんのにイレギュラーで散々狩っといて、なに言ってんだ。少しは自重しろ、自重。後見人の俺も始末書を書かされてんだぞ」
懐から封筒を一通取り出すと、呆れた顔をしたウォフは、それをリューシュの漆黒の髪に叩きつける。
苦笑しながらリューシュが受け取ると、アフラの焔を模した組織の封蝋が押されていた。
「あれ、これ依頼書?」
「本部に行ったら、ついでにリューシュの分も預かった。次の転校先だ。いつも通り、生徒として擬態してるムルティプンクタートゥスを見つけてこい。ノロノロしてっと、これが高校最後の依頼になんぞ」
「そんなヘマしない。一体でも多く、オレはやつらを見つけると決めてるんだ」
じっと睨み返したリューシュの瞳が、燃え盛るように紅く煌めいていた。
アフラの教育期間で学業を修め、リューシュの中に宿るのは、もはや復讐心ではなく、一人でも多くの人間を被害から守るために変わっている。
「早く見つけるのは御大層だが、身体を労れ。まだ若いんだからな。ペース配分なんざ、うさぎとかめの間を狙え、馬鹿」
「……子ども扱いすんじゃねぇ」
満足げに頷くウォフが、リューシュの頭を乱暴に撫でた。それにリューシュはジト目で抗議する。
年の離れた兄弟のような身長差だった二人が、今では月明かりに照らされた影を見る限り、同じ高さに変わっていた。
◇◆◇◆◇◆◇
「うわ、ヤバッ! 新歓の準備で、すっかり遅くなったねぇ」
「あ、今日ってさ。皆既月食の日じゃない? ほら、ニュースやってた」
「え、何時から?」
「九時過ぎから始まるって!」
「あと一時間じゃん!」
三人の女子高校生が、校舎から急いで出てきた。帰路につくべく慌ただしい。
「あれ? お~い、結。そんなところでなにしてんの? 校舎閉まるし、早く帰るよ!!」
「月蝕かぁ……。だから、お腹が空くのかな?」
「は……?」
玄関から出てこない一人の少女に、三人が振り返って声をかけた。校舎を閉める時間、残っていては怒られるのに、何を言っているのか。
「三人か。ちょっと半端な人数だけど、この際いっかなぁ……、潮時で引っ越しかな」
頬に手を当て、こてんと首をかしげて結という少女は声を転がす。ギョロリと――その目玉が蠢く。
「――へ? ちょ、結?」
「いただきます」
閉まる寸前の学校ではすでに照明が落ち、月明かり以外が闇に包まれていた。その光でさえ、雲に覆われてしまう。
何が起こったか、三人に理解できることは何もない。
「――いただきます、じゃ、ねぇんだよ。マジで」
鈍い音が響いて、三人の前にリューシュが立ちはだかった。
「また怒られんだろうが。喰うなら一言、オレが報告書上げてからにしろよ」
「……あ、あんた。転入生、の……」
「いや、ちょっ……、あれ、口……」
雲が流れ、月明かりが再び地上を照らす。リューシュが手に持つスクール鞄に、深々と牙が突き刺ささっている。結という少女の面影もないほど、大きな口で鞄に食らいついていた。
「グググゥ……。お前、アフラか!」
「アフラ知ってんだ? そうだよなぁ。オレが来る前に、ここの素行不良生徒、もう四人喰ったろ。何校目だよ。ふざけんなっつうの」
リューシュは鞄を振り上げると同時に、唸り声をあげる結の鳩尾へ蹴りを入れて吹っ飛ばす。
素行不良生徒が行方知れずとなっても、すぐには問題になりにくい。学校を捕食場とするムルティプンクタートゥスの常套手段だった。
「アフラのビショップ、名はダーリューシュ。オレはもう逃げも隠れもしない。喰えるもんなら喰ってみろ、雑魚が」
名付け親のウォフでさえ、即呼びにくいと略したリューシュの正式のコードネーム。
――ウォフ。本当にああ見えて、上から二番目のクイーンって地位なのが、謎。意味不明。
じゃあなぜつけたと言いたいところだが、愛称として略されることに、リューシュはいつの間にか居心地の良さを感じていたのだから、ちょっと悔しい。
「ダー、リューシュ……。ああ! 喰いそこねの残飯か、お前はっ! ははっ、命拾いしたくせに酔狂な。我らの間でも有名だ。わざわざ名乗る馬鹿な餓鬼がいると」
「……ふん。そこまで広まったなら、ちゃんと最後まで伝われよな」
喰い破られた鞄から、折り畳み傘型の仕込みナイフを構え、自らの指を切って血をまとわせる。
「オレは見逃しなんか、しねぇんだよ。見たが最期――散れ」
隙だらけで嘲笑う結の心臓部へと、リューシュは迷わずナイフを突き立てる。
喰われかけたせいなのか、リューシュの身体にはムルティプンクタートゥスの抗体が出来ていた。
耐性がついただけでなく、やつらにとって、リューシュの血は速効性の毒へと変化しているのだ。
「……まだ意識ある子はいる? ごめんな、変なもの見せて、この飴舐めてくれるか? 起きたら夢だって忘れさせてくれるからさ」
リューシュは振り替えると、制服の胸ポケットから小さな飴を三つ取り出すと、あどけない笑顔を浮かべた。
――まぁ、抵抗されても飲ますけど。悪いな、ホント。
誰かに感謝されたいわけじゃない。ただ、そこに在るだけでいい。エゴにも似た想い――それだけが、忘れるなど出来ないとリューシュが選んだことでもあった。
「……あぁ、始末書。オレもまた書くんだよなぁ、不可抗力じゃねぇの……?」
リューシュのボヤキを笑うように、空では皆既月食が始まろうとしていた。
お読みくださりありがとうございます!
もし、この作品を少しでも楽しんでいただけたなら、 ぽちっと応援していただけると、今後の活力になります☆
読んでくださり、ありがとうございました!(*^^*)




