壁の向こう
主人公(20代女性・在宅仕事)、隣室に40代前半の物腰柔らかな男性が越してくる
第一場面「引っ越しの挨拶と第一印象」
その人と初めて会ったのは、うちのマンションのエレベーターホールだった。
午後の中途半端な時間。引っ越し業者が台車を押し、エレベーターのドアを抑えている横で、スーツ姿の男性が茶色い段ボールを二つ抱えて立っていた。年は四十代前半くらい。背は一七五センチ前後で、痩せても太ってもいない中肉中背。ドラマでいうところの「優秀だけど地味な中間管理職」役にぴったりの外見だ。
けれど、妙に目が笑っていない。口元はやわらかく上がっているのに、黒目の奥だけ温度が二度くらい低い感じ。笑顔と目の温度差って、物理法則で説明できるの? 誰か論文書いて?
段ボールの側面に貼られた送り状が、ちらっと目に入った。差出人は都内の雑貨商社。品名欄は「布地・詰め綿」。……ぬいぐるみ工場でも開くのだろうか。それとも布団屋? いや、布団屋は引っ越しでスーツ着ないよな、と脳内で勝手に脳内職業当てクイズを始める。
その数時間後、チャイムが鳴った。
「お隣に越してきました。これ、よかったら」
ドアの向こうには、さっきの男性。スーツの上着を脱ぎ、白いワイシャツ姿で紙袋を差し出している。
袋の中には、金色のリボンで留められた高級そうな焼き菓子。パッケージには見たこともない横文字が並び、庶民の私が一生自分の意志では買わない部類のやつだ。
「わざわざありがとうございます」
と口では言いながら、心の中では別のことを考えていた。
——甘い。いや、甘すぎる。
紙袋から漂ってくるのは、バニラ……に似ているけど、もっと人工的で、鼻の奥にへばりつく甘ったるさ。カフェラテのシロップを直接鼻に流し込まれたような濃度だ。
これ、香水? 芳香剤? それとも焼き菓子自体がこういう匂いなのか? いや、菓子からこんなに香るわけがない。
玄関の奥にちらっと見えたのは、白い壁と観葉植物の影。きれいに整っているけれど、どこかホテルの一室みたいに生活感がない。
「これからよろしくお願いします」
軽く会釈した彼は、足音ひとつ立てずに自分の部屋へ戻っていった。スリッパなのか靴なのかすら判別できない柔らかい足音。忍者かよ。
ドアを閉めてから、私は袋をキッチンに置き、慌てて窓を開けた。
(いやいや、初対面でここまで香り強い人っている? 芳香剤会社の回し者? もしくは匂いフェチの研究者?)
頭の中でツッコミを連発しながら、もらった菓子をテーブルに置く。包装紙の横文字を読もうとしたが、甘ったるい香りで集中できない。
このときの私はまだ知らなかった。
この隣人が、数日後に私の生活を、ちょっとだけホラーに、そしてちょっとだけコメディに変えてしまう存在になることを——。
第二場面「夜の異音」
その夜、私は原稿の締め切りに追われて、日付が変わってもノートパソコンにかじりついていた。
午前二時を少し回ったころだ。コーヒーのおかわりを淹れようと椅子を引いた、その瞬間——。
壁の向こうから、「ガリ……ギュッ……」という音がした。
一定のリズム。数秒間隔で、金属が何かを削るような、押しつけるような音。
最初はマンションの設備点検かと思ったが、この時間にそんなわけがない。
(うん、きっとDIYだよ。最近は夜型の人も多いし)
自分に言い聞かせるように、マグカップを握り直す。
……しかし、その音は途切れない。
「ガリ……ギュッ……」
数分おきに、「カツン」という硬い物が床に落ちる音も混ざる。
工具を扱うならもっと「カチャカチャ」とか「ガンガン」とか、工事っぽい音になるはずじゃない? この音はもっと……解体寄り? いや、考えたら眠れなくなるやつ。 私はイヤホンで音楽をかけ、意識をそらそうとした。
しかしサビに差しかかる頃、あちらの壁越しから「ギュッ……ガリ……」と逆順の音が返ってくる。タイミング完璧。なんだこのコラボ。
耐えきれずパソコンを閉じ、ベッドに潜り込んだ。眠れるはずもなく、薄い夢の中で何度もあの音が響いた。
翌朝。
ごみ捨て場に行くと、隣の人が出したらしい段ボールの山があった。
全て細かく切り刻まれ、ガムテープで十字に留められている。
(いやいや、こんなに細かくしなくても……回収のおじさん優しいから大きめでも持ってってくれるよ?)
それにしても、切り口がやたらと真っ直ぐだ。新品のカッターを一回も曲げずに使ったみたいな切れ味。こういうの、日曜大工の領域を軽く超えてない?
部屋に戻って、スマホを手に取る。
深夜の出来事を友人のミカにメッセージで送った。
【隣の人、深夜二時に“ガリ……ギュッ……”ってずっとやってたんだけど】
すぐ既読がつき、返信が来る。
【それDIYじゃなくて事件案件でしょ】
【いやいや、そんなわけ……】
【いやいやいや、ニュースで見るやつ】
ミカは昔からホラー耐性ゼロだ。肝試しで鳥居をくぐった瞬間に泣いて帰った女である。そんな彼女が事件案件と言うと、逆に現実味がなくて助かる……と思いたい。
私はスマホを机に置き、インスタントコーヒーをすすった。
甘ったるい匂いが、どこからともなく漂ってくる。玄関のほうだ。
——あの芳香剤。昨夜も、この匂いを感じながら眠った気がする。
(……いやいや、やめやめ。考えると寝不足になるやつ)
わざとらしく背伸びをして、カーテンを開けた。
朝日が部屋に差し込み、隣のベランダの物干し竿が、無言でそこにあった。何も干されていないのに、なぜか存在感だけはやたらと強かった。
第三場面「買い物袋の中身」
その日、私は郵便物を取りに一階へ降り、ポストを開けてチラシと請求書を回収した。
帰りのエレベーターに乗り込んで、閉まる直前に外側のボタンが押される。
再びドアが開き、買い物袋を提げたお隣さんが乗り込んできた。
「あ、どうも」
スーツではなく、薄いベージュのシャツに紺のチノパン。休日っぽい装いだが、全体的にシワひとつない。まるで雑誌の着こなし見本のページから抜け出してきたみたいだ。
彼の足元には、スーパーのロゴ入りの大きな買い物袋が二つ。片手で持ち上げられているが、形が妙に角ばっている。
何気なく目をやった私は、思わず二度見した。
——工具セット、漂白剤、強力消臭スプレー。
普通のスーパーでこの三点を同時に買う人、推理小説の登場人物以外で見たことがない。
(え、これ完全に“消す”方向のラインナップじゃん。消す対象は……いやいやいや)
視線に気づいたのか、彼はにこやかに言った。
「DIYやってて」
……あ、そうなんですね、と口では返すけど、心の中はツッコミ祭り。
(DIYって、Do It Yourself の略でしょ? でもこの買い物内容だと Do It Your Victim に見えるんだけど)
さらに会話は続く。
「さしすせそ、の順番でやると仕上がりがきれいなんですよ」
唐突な調理番組のような発言に一瞬戸惑う。だがそれよりも、彼の口から出る「さしすせそ」がやたら滑舌よく、刃物の刃先で空気を切るみたいにスパッと耳に入ってくる。
(なんでそこだけ滑舌強化モードなんだろう……)
エレベーターは6階に着き、ドアが開いた。
外の光が差し込む中、彼は袋を持ち直して颯爽と歩き出す。足音はやっぱり、やたら静かだ。忍者スキルでも持っているのか。
自分の部屋の鍵を取り出し、玄関前で立ち止まる。さっきの光景を脳内リプレイする。工具、漂白剤、消臭スプレー——どれも使い道はある。あるけど、三つ同時はやっぱり怪しい。
鍵穴に差し込む寸前、思わず口の中でつぶやいてしまった。
「……棺桶でも作るんですか?」
ハッとして辺りを見回す。幸い、誰にも聞かれていない。
(危ない危ない。直接言ったら関係が一気にホラーに進化するところだった)
部屋に戻り、買ってきた郵便物を机に置く。甘ったるい芳香剤の匂いが、ほんのり廊下から漂ってくる。
頭の中で、工具の音と、昨夜の「ガリ……ギュッ……」が重なった。
私は深呼吸し、椅子に腰を下ろした。
(うん……きっと、ほんとにDIYなんだよ。……たぶん)
第四場面「聞き込みシーン」
昼過ぎ、原稿作業の手が止まった瞬間、私はスマホを手に取っていた。
あの工具・漂白剤・消臭スプレーの三点セットが、脳裏にべったり貼りついて離れない。
(確認だけ、ね。ちょっと確認するだけだから)
そう自分に言い訳しながら、マンションの管理会社に電話をかける。
「はい、桜栄コミュニティサービスです」
「あの……私、606号室の者なんですが」
給湯器の調子が悪いような軽い前置きをしてから、本題へ。
「それで……最近お隣に引っ越してきた方、いらっしゃいますよね?」
「ええ……まあ……」
「どういうお仕事されてる方なんですか?」
「えーっと……個人情報になりますので……」
まあ、そうだよね。と納得しかけたところで、相手がなぜか言い淀む。
通話口からは、紙をめくるような小さな音と、遠くで誰かに話しかける気配。
「……まあ、夜間に在宅されてることが多いみたいなんで……たぶん在宅ワーク……じゃないですかね」
(“たぶん”って何。根拠の薄さ、天気予報の降水確率レベルなんだけど)
しかも、「在宅ワーク」という言葉の後に二秒ほどの空白。絶対なんか引っかかってる。
この時点で、私は「たぶん」という言葉に対する信頼を一段階下げた。
お礼を言って電話を切ったが、かえって疑念が深まる結果になった。
数日後。
チャイムが鳴り、ドアを開けると制服姿の警察官が立っていた。
濃紺の詰襟シャツに金ボタン、胸には名札と無線機。背は私より少し高いくらいで、腕周りがしっかりしている。黒い制帽を目深にかぶり、顎のあたりに薄い無精ひげがある。
靴はややくたびれ気味で、かかと部分の革が少し白く擦れていた。細部に妙な生活感が漂う。
「地域の巡回連絡で伺いました」
声は低く落ち着いていて、どこか営業マンめいた柔らかさもある。
私は玄関に立ったまま、防犯連絡票とボールペンを受け取る。
記入している間、彼の視線は私ではなく、部屋の奥や廊下の向こうへと落ち着きなく泳いでいた。
(……やけに落ち着かないな。ウチ、そんなに珍しい間取りでもないのに)
連絡票を返すとき、私はさらっと質問を滑り込ませた。
「お隣の方って、どんな方なんですか?」
「えっ……あー……」
わずかな間。
「特にトラブルは……あったかな……なかったかな……」
(いや、その言い方、カレーのCMか)
言葉を探す沈黙の中で、廊下の奥から足音が響いた。
柔らかく、吸い込まれるような足音。近づくにつれて、例の甘ったるい香りが空気を満たしていく。
お隣さんだ。薄いグレーのシャツにエコバッグを提げ、表情は変わらぬにこやかさ。
次の瞬間——。
「あ、ではまた!」
警察官が急に腰を折り、連絡票の控えも渡さず、制帽を押さえながら廊下を小走りに去っていった。
——早い。早すぎる。
あの去り方、居酒屋で割り勘逃げする大学生並みだ。
私は名刺だけが残された玄関先に立ち尽くし、廊下の角を曲がっていく背中を見送った。
お隣さんは私に軽く会釈し、足音を消すように自分の部屋へ。
ドアを閉めると、心臓が少しだけ速く打っていた。
管理会社の言い淀み、警察官の落ち着かなさ、そしてあの不自然な退散。
(偶然……だよね? ……たぶん)
でも、その「たぶん」が一番安心できないんだよな。
第五場面
夜。
さっきの巡回警察官のことが、まだ頭の片隅でくすぶっている。
管理会社の言い淀み、不自然に腰を折って退散した警察官、そして隣人のあの甘ったるい匂い。
それらが一本の糸でつながっているような気がしてならない。
私はベッドの上に腰を下ろし、スマホを手に取った。
(いや、調べたって何も出ないかもしれないし……出ないほうが安心だし)
自分にそう言い聞かせながらも、親指は検索窓を開いている。
マンションの正式名称を入力。さらに「事件」「事故」「ニュース」と続ける。
指が一瞬ためらったのは、クリックした後の自分を想像したからだ。
——検索。
画面に並ぶのは、見慣れた外観写真が添えられたニュース記事。
日付は五年前。見出しの横には「※閲覧注意」の小さな赤文字。
私は心臓の鼓動を一つ飲み込み、記事を開いた。
被害者は三十代男性。加害者は同居していた女性。
発覚のきっかけは、廊下に漂っていた異臭だったという。
『浴室で遺体を切断』『部屋には強い芳香剤の匂い』
……芳香剤。あの、鼻にまとわりつく甘ったるい香りだ。
スマホを持つ手の指先がじんわりと冷たくなった。
さらに下へ。
犯行後、加害者は数日間、普通に生活を続けていた。
廊下ですれ違った住人の証言——『いつも笑顔だった』。
笑顔。でも目は笑ってなかったんじゃないか。記事の文字が勝手に映像に変換される。
しかし記事には、肝心の部屋番号は書かれていない。
私は一度ページを閉じ、別の検索ワードを打ち込んだ。
「物件事故情報」「サイト」。
いくつか出てきた中で、「黒星マップ」という妙にインパクトのある名前のサイトを開く。
地図画面に日本列島が表示され、各地に赤い炎のアイコンが散らばっている。
指で地図を広げ、自分の住む街を探す。
……あった。駅前から少し離れた場所に、小さな赤い炎マーク。
タップすると、画面の吹き出しに事件の概要が表示される。
『○○市○○マンション 6階の一室にて損壊事件』
詳細欄には「浴室にて解体、芳香剤強め」という物騒な一文。
事件の日付は——ニュース記事と一致していた。
さらに吹き出しには「Googleマップで見る」の青いリンク。
私はためらいながらも押した。
地図アプリが立ち上がり、見慣れたマンションの外観が表示される。
ストリートビューでぐるりと建物を回し、視点を上げる。
ベランダの形、物干し竿の位置……そして、部屋番号を示す小さなプレート。
——私の隣だ。
背中に冷たいものがスッと走った。
壁一枚隔てた向こうで、五年前に……。
呼吸が浅くなり、スクロールの速度が落ちる。
もう少し調べれば、もっと詳細が分かるだろう。
でも、これ以上は——。
スマホを伏せ、布団にもぐりこむ。
頭までかぶった布団の中は、自分の息とわずかな甘い匂いで満たされている。
目を閉じても、あの芳香剤の香りが鼻の奥にこびりついて離れない。
(……あれ、やっぱり菓子の匂いじゃなかったんじゃ……)
思考がその先に踏み込もうとするのを、布団の中で必死に止めた。
第六場面「ぬいぐるみ」
その日、夕方。
洗濯物を取り込もうとベランダに出た私は、隣の光景に息を呑んだ。
——ブルーシート。
しかもでかい。物干し竿から垂れ下がり、下半分がベランダの柵に覆いかぶさっている。中には何か包まれていて、妙に膨らんでいる。
形は……人? いやいやいや、考えるな。そういうのはサスペンスドラマの主人公に任せろ。
(え、何これ。遺品のソファ? それとも“生きてる方の”ソファ?)
しばらく凝視してしまったせいで、隣室のガラス戸のカーテンがわずかに揺れた。
私は慌てて自分の部屋に引っ込み、窓を閉めた。
その瞬間、壁の向こうから「ズズッ……コンッ……」という音が響く。
重い物を引きずって、最後に何かを落としたような音。
やめて。音響効果、リアルすぎる。
翌朝。
恐る恐るベランダを覗くと、ブルーシートは跡形もなく消えていた。
……代わりに、物干し竿に干されていたのは——バラバラの巨大ぬいぐるみの手足。
しかも中綿が風に乗って、ふわふわと空を舞っている。
遠くのベランダにひらひら舞い降りていく様子は、ホラーよりホラー。
(せめて組み立ててから干せよ! いや、干すっていう選択肢がまずおかしいから!)
(ていうか、風で中綿が飛んでって、隣近所が白い毛玉まみれになる未来が見える)
見なかったことにしようと決意しかけたそのとき、ガラス戸が開いた。
「おはようございます」
隣人が、エプロン姿で顔を出した。
その手には、頭部らしきパーツ——耳のついた巨大な丸い布の塊。
「趣味で作ってまして。巨大テディベアなんです」
にこやかにそう言う。
耳の位置がちょっと左右非対称なのはご愛嬌だろうか。
「……干し方がホラーなんですけど」
思わず口に出してしまった。
だが隣人は、まるで褒め言葉を言われたかのように口角を上げる。目は……やっぱり笑っていない。
「中まで乾かさないと、カビちゃいますからね」
そう言って、頭部パーツを竿に掛けた。
風に揺れるそれは、首なしの胴体パーツとセットで、完全に事件現場の再現ジオラマみたいになっている。
(ダメだ……もうこれ、ぬいぐるみ界の未解決事件。風に舞う中綿が証拠品に見えてくる)
部屋に戻ると、窓の外では相変わらず中綿が空を漂っていた。
私はコーヒーをすすりながら、心の中で呟く。
——DIYって、“ドン引き・やめて・いますぐ”の略だと思う。
第七場面「第二のオチ」
昼下がり。
洗濯物を干し終えた私は、そのままベランダの椅子に腰かけ、スマホをいじっていた。
青空に白い雲が流れ、まだ空中には、隣のぬいぐるみから飛んだらしい中綿が一つ、ふわふわと漂っている。
平和そのもの——のはずだった。
そのとき、画面の上に赤い帯が走った。ニュース速報だ。
『近隣マンションで、巡回を装った偽警察官が強盗・強姦未遂で逮捕』
思わず画面をスクロールする。
事件現場は、地名も住所も私の住むエリアだった。
記事には防犯カメラの静止画が添えられている。制帽をかぶり、笑顔を浮かべた男——。
……見覚えがある。
胸の奥がじわりと冷える。
そうだ、先日うちに巡回連絡に来たあの警察官と、顔の輪郭も目元も、まるでコピーのように同じだ。
私は、あの時の光景を思い出す。
玄関先で世間話をしていた最中、廊下の奥から隣人が帰ってきた。
柔らかい足音、甘ったるい芳香剤の香り——。
それを感じ取った途端、あの警察官は「あ、ではまた!」と慌てて名刺を置き、ほとんど駆け足で廊下の角を曲がっていった。
その意味が、今になって分かる。
彼は巡回なんかじゃなかった。ただの侵入者で、隣人の登場が邪魔だっただけだ。
スマホを伏せ、私はゆっくり立ち上がった。
さっきまで笑っていたはずなのに、口元が急に乾いて、喉の奥がひりついた。 背筋を伝う冷たいものが、冗談を全部押し流していく。 ——もう、笑えない。
玄関に向かい、ドアチェーンを一つ、二つと掛ける。
金属音がカチリと鳴るたびに、背筋の冷たさが深まっていく。




