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夜になると、猫だった

掲載日:2026/01/26

 ある週末のことだった。


「はじめまして。隣に越してきた、高柳と申します。よろしくお願いします」


 僕の部屋の隣、空き部屋となっていたところに一組の夫婦が引っ越してきた。

 奥さんは穏やかそうな女性。

 旦那さんは、背が高くて逞しそうだ。

 新婚さんのような雰囲気で、二人の姿が眩しく映る。


「よろしくお願いします。町田です」


 タオルの入った紙袋をいただき、扉を閉めた。

 このマンションは若い夫婦が多く入居してくる。目の前に公園があって、治安も良い場所だ。

 ある程度経てばマイホームに引っ越すのか、出ていく人が多い。そんな流れで、今回もまた夫婦がやって来た。


「……結婚か」


 そういえば、親が言っていた――いつになれば結婚するのかと。

 まだ三十代、けれどもう三十代。

 仕事もそこそこのポジションに着いてこれからだというのに、恋愛や結婚なんて考える余裕もない。


「いいや、自分のペースでいこう」


 それなのに、最近は夜になるとどこか寂しさを感じる。

 帰っても一人。何をしても一人。

 自分で選んだことなのに――


 ◇


 その夜、ベランダの向こうから音がした。

 カーテンを開けるが、何もない。


「気のせいか」


 だが、翌日の夜も同じような音がした。

 どこか、こちらの反応を伺うようにそっと触れる。


「……何だろう」


 そして三日目の夜、カーテンを開けた時だった。

 

 一匹の猫が迷いなく、隣の部屋の方角から跳んできた。


「……あれ?」


 僕は思わず窓を開けた。

 猫は僕の部屋に入ると、まるで〝帰ってきた〟みたいな顔をする。

 それは薄い灰色の短毛で、夜に紛れるような猫だった。目だけが、やけに人のものに近い。


 猫は一度だけ、僕の顔を見つめる。


 鳴きもせず、警戒もせず、ただ当然のように部屋の中へ足を踏み入れる。

 その仕草がどうにも自然すぎて、僕は声を出すのを忘れていた。


「……迷ったのか?」


 問いかけても返事はない。

 猫はソファの足元まで行き、くるりと丸くなった。

 追い返した方がいい――そう思ったのに、身体が動かなかった。

 むしろ、少しほっとした自分に驚く。


 夜の部屋は静かで、エアコンの低い音だけが流れている。

 その中で、猫の呼吸が微かに混じる。


 試しに近づき、そっと手を伸ばす。

 逃げる気配はなかった。


 指先が触れた瞬間、猫は目を細める。

 だが、喉は鳴らさない。


「……変な猫だな」


 嫌がってはいないけれど、甘えきる様子もない。

 ここからどうするのか、僕の出方を待っているみたいだった。


 指の腹で触れながら背中を撫でる。

 それだけで、僕まで心地よくなってきそうだ。

 何だろう……ずっとこうしていたいと思うぐらい癒される。


 しばらく撫でていると、猫はゆっくりと体の向きを変え、僕に背中を預けた。

 その体温が、思ったよりも低い。


「……寒いのか?」


 そう言ってブランケットをかけると、猫は一瞬だけ身じろぎし、それから静かになった。


 その夜、猫は何もせず、何も求めず、ただそこにいた。

 夜が更けて眠気が差し込んできた頃、気づけば僕もソファでうたた寝をしていた。


 ◇


 翌朝、目を覚ますと、猫の姿はなかった。

 ブランケットだけが床に落ちていて、そこに薄い灰色の毛が一本残っている。


「……夢じゃないよな」


 指でつまんで確かめてから、苦笑した。

 奇妙な猫だったけれど、いつも夜に感じる孤独は薄れていた。

 何もされなくても、ただ隣にいてくれるだけで落ち着くなんて。


 それからというもの、猫は毎晩同じ時間に現れるようになった。決まって隣の部屋の方角から、迷いなく僕の部屋へ。


「こんばんは」


 猫は、少し間を置いてから「……ナー」と小さく鳴いた。

 来て、僕の隣に丸まって、眠るだけ。


「君は、どこから来ているのかな」


 一瞬だが、猫の表情が固まったような気がした。

 僕には秘密にしておきたいのだろうか。


「ずっと……いてくれてもいいのにな」


 猫の背中に触れながら、ぽつりと呟いた。

 こう言っても、翌朝になればいなくなっているのだが。


 ◇


 猫が来るようになってから、生活が劇的に変わったわけではない。

 朝は同じ時間に起き、満員電車に揺られ、同じオフィスで同じ仕事をする。


 企画は順調で、上司からの評価も悪くない。

 部下から相談を受けることも増え、気づけば「頼りになる人」の役回りが定着していた。


 悪くない人生だと思う。

 少なくとも、困ってはいない。


 昼休み、同僚たちが結婚や子どもの話をしているのを、コーヒーを飲みながら聞いていた。

 混ざろうと思えば混ざることができる。

 けれど、無理に話題を探す気にもならず、曖昧に笑ってやり過ごす。


「町田さんは、そういうの興味なさそうですよね」


 冗談めかして言われ、反応に困って視線を逸らした。

 興味がないわけじゃない。ただ、優先順位が後ろに回っているだけだ。


 ――そう、思っていた。


 帰り道、スーパーで惣菜を買う。

 一人分の量は、もう自然に手が伸びるようになった。

 誰かと食べる前提で献立を考えることも、この先きっとないのだろう。

 わかっていたことなのに、そう思うだけで息が詰まる。誰かを思い浮かべたわけではない、ないはずだ。


 スーパーを出て自宅まで帰る。

 マンションのエントランスで、隣の部屋の旦那さんとすれ違った。


「こんばんは」


 低くて落ち着いた声。

 軽く会釈を交わすだけの関係なのに、不思議と印象に残る。


 背が高くて、無駄な動きがない。

 仕事帰りなのだろう。疲れているはずなのに、どこか余裕があった。


 ――いい夫なんだろうな。


 そう思うと同時に、なぜか身体の奥が少しだけざわついた。

 羨ましいとか、妬ましいとか、そういう感情ではない。

 ただ自分とは違う世界に生きている人、という距離感。


 ああいうのを世間では「理想の人生」というのだろう。

 僕にはないたくましさや包容力。

 一人の女性に愛され、和やかな生活を送っている――そんな匂いさえしてくる。

 

 彼を見習いたいというよりは――近づいてみたい。

 そう思うのに時間はかからなかった。


 部屋に戻り、電気をつける。

 静かな室内は、昼間の人の多さが嘘みたいだった。


 ソファに腰を下ろし、スマホを手に取るが、特に見るものもない。

 画面を閉じ、天井を見上げる。


 この生活を選んだのは、自分だ。

 誰にも邪魔されず、気を遣わず、自由だ。


 それなのに――

 夜になると、誰かの気配だけが恋しくなる。


 名前を呼ばれたいわけでも、触れられたいわけでもない。

 ただ、同じ空間に呼吸がもう一つあるだけでいい。


 ◇


 その夜、猫はいつもより遅くにやって来た。

 ベランダに降り立つ音がしても、すぐには入ってこない。

 僕がカーテンを開けると、薄い灰色の影がためらうように立っていた。


「……どうしたの」


 呼びかけると、猫は一歩だけ近づく。

 それから、思い切ったみたいに部屋へ跳び込んできた。


 いつもはソファに向かうのに、その夜は違った。

 まっすぐ、僕のところへ来る。

 足元に擦り寄る――のではなく、

 前脚を伸ばして、胸元に体を預けてきた。


「……っ」


 反射的に、腕が動く。

 抱き上げるつもりはなかったのに、抱きとめる形になった。

 猫の体は細くて、温度が低い。

 それなのに、胸の奥にじんわりと熱が広がる。


 猫は抵抗しなかった。

 むしろ、僕の腕の中で呼吸を合わせるみたいに静かになる。


 ――恋人みたいだ、と思ってしまった。


 言葉にしたら壊れる気がして、何も言えない。

 ただ、指先で背中をなぞる。


 猫は小さく身じろぎし、それから僕の胸に額を押しつけた。

 喉は鳴らさないが、確かに甘えている。


「……ここに、いて」


 独り言みたいに呟くと、猫の尾がゆっくり一度だけ揺れた。


 しばらく、そうしていた。

 抱き合うというより、支え合うみたいに。

 夜が深まり、外の音が消えていく。

 

 猫は僕の腕の中で、目を閉じる。

 その寝顔が、あまりにも無防備で――口元に触れたくなってしまった。

 だが、それを必死で抑える。

 相手は猫なんだから……でも欲しくなる。


 疼く身体に気を取られていたら、猫はそっと腕を抜け出した。

 もう夜明け前だった。


 去り際に一度だけ、人みたいな目でこちらを見る。


 ――ありがとう、と言われた気がした。


 ◇


 ある日のゴミ出しの帰り、隣の部屋の旦那さんと鉢合わせた。


「こんにちは」

「あ、こんにちは」


 軽く会釈を交わす。

 それだけのやり取りだったはずなのに、なぜか足が一瞬止まった。


 瞬きをする癖。

 視線を外すタイミング。

 そして、静かな佇まい。


 どこかで見た気がする。

 ――そんな感覚だけが、後を引く。


「……」


 考えすぎだ。

 それでも違和感は、薄く残ったままだった。



 ――その日の夜。

 猫が来た時、僕は思わず口にしてしまった。


「……あなたは、もしかして隣の人?」


 猫は、逃げなかった。

 ただ一度、尻尾を揺らしてこちらを見た。

 鳴き声は、小さくて情けない音だった。


 否定も肯定もしなかったけれど、それで十分だった。

 僕はそれ以上、何も聞かなかった。

 猫もそれ以上、何か反応するわけではない。


 それでも夜が深まるほど、猫は少しずつ距離を詰めてくる。

 膝に乗り、離れず、抱き寄せると必ずこちらを見る。


 ――ここにいてもいいか、と。


 そんな問いが、言葉にならずに滲んでいた。

 僕はただただ、猫の背中を撫でながら目を閉じて、ぬくもりを感じていた。


 

 ◇◇◇


 

 ――妻とマンションに越して来た日。

 隣の部屋に挨拶に行った。


 ゆっくりとドアを開けた町田さんを一目見て、なぜか惹き込まれた。

 この人であれば、俺の弱さを受け入れてくれるのではないか……と思える。


 ――決めた。


 そう思った時だった。

 夜になると、体が軽くなった。


 正確には――軽くならなければ、息ができなくなる。


 妻の前では、弱さを見せてはいけないと思っていた。

 優しい人だからこそ、甘えてはいけない気がしていた。


 そう。昼の俺は、夫だ。

 穏やかな妻がいて、平凡で、問題のない生活がある。

 それを壊したいと思ったことは、一度もない。

 仕事も多くを任せられ、周りから頼りにされている。


 けれど夜になると、胸の底に溜まったものが形を変える。


 言えなかった言葉、欲しかった温度。

 弱みを見せられないというプレッシャー。

 誰にも向けてはいけないはずの、寂しさ。

 

 それらが、猫になる。


 人のままでは、あの部屋には行けなかった。

 もし男として立ったら、きっと越えてしまう。

 触れたら、彼の人生だって壊してしまいかねない。

 

 だから、猫だった。


 ――最初に彼の部屋に入った夜のことを、よく覚えている。


 薄暗い部屋、静かな空気。

 それから、驚いたようにこちらを見る目。


 ――拒まれなかった。


 撫でる手は慎重で、触り方は優しくて、まるで「ここにいていいか」を確かめるみたいだった。

 触れられているのに、欲が静まっていくのが不思議だった。


 俺は背中を預けた。

 あの瞬間、初めて息ができた気がした。


 ◇


 朝は妻と同じ時間に起き、短い会話を交わして家を出る。

 仕事は忙しいが、責任ある立場を任され、部下もいる。

 評価も悪くない。


 毎日は、滞りなく続いている。

 困ることは、特にない。


 妻は必要以上に踏み込まず、干渉もせず、俺を信頼してくれている。

 その優しさの前で、弱音の置き場だけが見つからなかった。


 ある日の仕事帰り、マンションのエントランスで隣の部屋の町田さんとすれ違った。


「こんばんは」


 それだけのやり取り。

 けれどなぜかその声が、耳の奥に残った。


 静かな人だと思った。

 無理に愛想を振りまかず、必要以上に近づいてこない。

 それでいて、線を引かない。


 ああいう距離感の人は、久しぶりだった。

 だからこそ、もっと彼のことを知りたくなってしまう。


 部屋に戻ると、妻は先に夕食を済ませていた。

 温め直した料理を食べながら、今日あったことを少しだけ話す。


 何も問題はない。

 喧嘩も、不満も、秘密もない。


 それなのに夜が深まるにつれて、背中がずしりと重くなっていく。


 誰かに触れたいわけじゃない。

 欲をぶつけたいわけでもない。


 ただ――

 俺自身のことを、弱さごと見てくれないか。

 ただ隣にいて、同じような呼吸をしたいだけだ。


 そんな都合のいい願いを、人のままでは叶えられないことぐらい分かっていた。


 ベランダに出る。

 夜風が、火照った頭を冷やす。


 隣の部屋の灯りは、まだ点いている。

 カーテン越しに、気配だけが伝わってくる。


 ――あの部屋なら。


 なぜ、そう思ったのかは分からない。

 理由をつけるとしたら、俺自身を否定されない気がした、ただそれだけだ。


 静かな場所が、ひとつ疼く。

 このままでは、息ができなくなる。


 だから夜になると、俺は猫になる。

 あの人のもとへ、今日も行く。


 ◇


 その日は、床を歩いて彼の足元へ向かった。

 いつもなら、そこで丸くなる。

 けれど、その夜は違った。


 一歩、距離を詰める。

 もう一歩。


 伸ばした前脚が、彼の服に触れた。

 一瞬迷ったが――やっぱり身体ごと委ねたい。


 抱きとめられるまでの時間は、ほんのわずかだった。

 けれど、その間にいくつもの言葉を飲み込んだ気がする。


 ――ここまで。

 ――これ以上は、行かない。


 そう決めたところで、彼の腕が回ってきた。


 包まれる感触は、思っていたよりも温かかった。

 彼の身体に額を押しつけたとき、このまま人に戻りたいと思ってしまった。

 人になって、肌の境目さえなくなるぐらいに、一緒になりたいと。


 ――駄目だ。


 それだけは、してはいけない。


 それでも、このぬくもりと匂いをしっかりと身に染み込ませておきたくて、夜明け前のぎりぎりまで彼にしがみついていた。


 離れる時は振り返らずに、そっと。


 ◇


 彼に問われた夜。


「……あなたは、もしかして隣の人?」


 どうしてわかってしまったのだろうか。

 

 俺は逃げることも、否定することもできなかった。

 尻尾を揺らしたのは、肯定だ。

 情けない声を出したのは、謝罪だった。


 それでも彼は、それ以上何も聞かなかった。


 ――優しい人だ。


 だからこそ、これ以上は行けない。

 でも猫であれば、もう少しだけ、あと少しだけこのままでいさせてくれないだろうか。


 そう思いながら、少しずつ彼に近づく。

 背中を支えられ、思わず声を出しそうになる。


 あたたかい――

 時が止まってくれるのなら、今がいい。


 ◇


 そして次の夜、猫になれなかった。


 ベランダに立っても、体が変わらなかった。

 人のまま、ただ立ち尽くすしかなかった。

 夜風が冷たく頬を撫でる――もう彼のことは忘れろ、と言うように。

 

 ベランダの手すりに手を置き、何度か息を整えた。

 行けば終わる。行かなければ、夜が続く。

 

 それでも――

 俺は覚悟を決めて、部屋から出た。


 隣の部屋。

 インターホンを押したとき、手が少しだけ震えていた。


「……こんばんは。急に、すみません」


 彼は不思議そうな表情だったが、部屋に入れてくれた。

 ソファに座るよう促される。

 

 隣にいるだけで、何かがじわりと込み上げてくる。

 猫でいた時に見たあたたかさは、そのままだった。

 それが余計に、俺の心を苦しく疼かせる。

 

 俺は、全部話した。

 猫だったこと、触れたかったこと。

 でも……越えたくなかったこと。


「あなたの部屋でだけ、俺は……役割を脱げた」


 彼はこんな自分のことを、何も否定しなかった。

 そして、俺の手をそっと握って言う。


「……僕もです」


 その一言で、救われてしまった。

 もっと愛されたいと――願ってしまった。

 でも。


「もう、行きません」


 それは、別れの言葉だった。嘘ではない。

 彼が俺の手を、さらにぎゅっと握る。


「……猫のあなたが、好きでした」


 そう言って俺の胸に飛び込んで来た。

 彼の背中に手をやり、ゆっくりと撫でた。

 俺が夜に撫でてもらったように、そっと。優しく。


 今なら越えられる。

 だが、戻れなくなる。

 それでも。


「俺も……好きだった」

 

 顔を上げた彼の額に、唇を落とした。

 彼は耳まで赤くして、瞬きをする。

 もう一度、強く抱きしめて――これ以上は進めなかった。


 互いに何も奪わず、それでも確かに、心だけが触れていた。

 あの夜々は、確かに恋だった。


 ◇


 夜になる。

 

 体は、もう猫にならない。

 それでいい。


 隣の部屋に灯りがついているのを見るたびに思う。

 あそこに、俺が猫でいられた場所があったことを。


 夜は、逃げたくなる時間だった。

 けれどもう、誰かのところへ逃げなくてもいい。


 彼のいた夜は、これからもここに残っている。



『夜になると、猫だった』 完



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