夜になると、猫だった
ある週末のことだった。
「はじめまして。隣に越してきた、高柳と申します。よろしくお願いします」
僕の部屋の隣、空き部屋となっていたところに一組の夫婦が引っ越してきた。
奥さんは穏やかそうな女性。
旦那さんは、背が高くて逞しそうだ。
新婚さんのような雰囲気で、二人の姿が眩しく映る。
「よろしくお願いします。町田です」
タオルの入った紙袋をいただき、扉を閉めた。
このマンションは若い夫婦が多く入居してくる。目の前に公園があって、治安も良い場所だ。
ある程度経てばマイホームに引っ越すのか、出ていく人が多い。そんな流れで、今回もまた夫婦がやって来た。
「……結婚か」
そういえば、親が言っていた――いつになれば結婚するのかと。
まだ三十代、けれどもう三十代。
仕事もそこそこのポジションに着いてこれからだというのに、恋愛や結婚なんて考える余裕もない。
「いいや、自分のペースでいこう」
それなのに、最近は夜になるとどこか寂しさを感じる。
帰っても一人。何をしても一人。
自分で選んだことなのに――
◇
その夜、ベランダの向こうから音がした。
カーテンを開けるが、何もない。
「気のせいか」
だが、翌日の夜も同じような音がした。
どこか、こちらの反応を伺うようにそっと触れる。
「……何だろう」
そして三日目の夜、カーテンを開けた時だった。
一匹の猫が迷いなく、隣の部屋の方角から跳んできた。
「……あれ?」
僕は思わず窓を開けた。
猫は僕の部屋に入ると、まるで〝帰ってきた〟みたいな顔をする。
それは薄い灰色の短毛で、夜に紛れるような猫だった。目だけが、やけに人のものに近い。
猫は一度だけ、僕の顔を見つめる。
鳴きもせず、警戒もせず、ただ当然のように部屋の中へ足を踏み入れる。
その仕草がどうにも自然すぎて、僕は声を出すのを忘れていた。
「……迷ったのか?」
問いかけても返事はない。
猫はソファの足元まで行き、くるりと丸くなった。
追い返した方がいい――そう思ったのに、身体が動かなかった。
むしろ、少しほっとした自分に驚く。
夜の部屋は静かで、エアコンの低い音だけが流れている。
その中で、猫の呼吸が微かに混じる。
試しに近づき、そっと手を伸ばす。
逃げる気配はなかった。
指先が触れた瞬間、猫は目を細める。
だが、喉は鳴らさない。
「……変な猫だな」
嫌がってはいないけれど、甘えきる様子もない。
ここからどうするのか、僕の出方を待っているみたいだった。
指の腹で触れながら背中を撫でる。
それだけで、僕まで心地よくなってきそうだ。
何だろう……ずっとこうしていたいと思うぐらい癒される。
しばらく撫でていると、猫はゆっくりと体の向きを変え、僕に背中を預けた。
その体温が、思ったよりも低い。
「……寒いのか?」
そう言ってブランケットをかけると、猫は一瞬だけ身じろぎし、それから静かになった。
その夜、猫は何もせず、何も求めず、ただそこにいた。
夜が更けて眠気が差し込んできた頃、気づけば僕もソファでうたた寝をしていた。
◇
翌朝、目を覚ますと、猫の姿はなかった。
ブランケットだけが床に落ちていて、そこに薄い灰色の毛が一本残っている。
「……夢じゃないよな」
指でつまんで確かめてから、苦笑した。
奇妙な猫だったけれど、いつも夜に感じる孤独は薄れていた。
何もされなくても、ただ隣にいてくれるだけで落ち着くなんて。
それからというもの、猫は毎晩同じ時間に現れるようになった。決まって隣の部屋の方角から、迷いなく僕の部屋へ。
「こんばんは」
猫は、少し間を置いてから「……ナー」と小さく鳴いた。
来て、僕の隣に丸まって、眠るだけ。
「君は、どこから来ているのかな」
一瞬だが、猫の表情が固まったような気がした。
僕には秘密にしておきたいのだろうか。
「ずっと……いてくれてもいいのにな」
猫の背中に触れながら、ぽつりと呟いた。
こう言っても、翌朝になればいなくなっているのだが。
◇
猫が来るようになってから、生活が劇的に変わったわけではない。
朝は同じ時間に起き、満員電車に揺られ、同じオフィスで同じ仕事をする。
企画は順調で、上司からの評価も悪くない。
部下から相談を受けることも増え、気づけば「頼りになる人」の役回りが定着していた。
悪くない人生だと思う。
少なくとも、困ってはいない。
昼休み、同僚たちが結婚や子どもの話をしているのを、コーヒーを飲みながら聞いていた。
混ざろうと思えば混ざることができる。
けれど、無理に話題を探す気にもならず、曖昧に笑ってやり過ごす。
「町田さんは、そういうの興味なさそうですよね」
冗談めかして言われ、反応に困って視線を逸らした。
興味がないわけじゃない。ただ、優先順位が後ろに回っているだけだ。
――そう、思っていた。
帰り道、スーパーで惣菜を買う。
一人分の量は、もう自然に手が伸びるようになった。
誰かと食べる前提で献立を考えることも、この先きっとないのだろう。
わかっていたことなのに、そう思うだけで息が詰まる。誰かを思い浮かべたわけではない、ないはずだ。
スーパーを出て自宅まで帰る。
マンションのエントランスで、隣の部屋の旦那さんとすれ違った。
「こんばんは」
低くて落ち着いた声。
軽く会釈を交わすだけの関係なのに、不思議と印象に残る。
背が高くて、無駄な動きがない。
仕事帰りなのだろう。疲れているはずなのに、どこか余裕があった。
――いい夫なんだろうな。
そう思うと同時に、なぜか身体の奥が少しだけざわついた。
羨ましいとか、妬ましいとか、そういう感情ではない。
ただ自分とは違う世界に生きている人、という距離感。
ああいうのを世間では「理想の人生」というのだろう。
僕にはないたくましさや包容力。
一人の女性に愛され、和やかな生活を送っている――そんな匂いさえしてくる。
彼を見習いたいというよりは――近づいてみたい。
そう思うのに時間はかからなかった。
部屋に戻り、電気をつける。
静かな室内は、昼間の人の多さが嘘みたいだった。
ソファに腰を下ろし、スマホを手に取るが、特に見るものもない。
画面を閉じ、天井を見上げる。
この生活を選んだのは、自分だ。
誰にも邪魔されず、気を遣わず、自由だ。
それなのに――
夜になると、誰かの気配だけが恋しくなる。
名前を呼ばれたいわけでも、触れられたいわけでもない。
ただ、同じ空間に呼吸がもう一つあるだけでいい。
◇
その夜、猫はいつもより遅くにやって来た。
ベランダに降り立つ音がしても、すぐには入ってこない。
僕がカーテンを開けると、薄い灰色の影がためらうように立っていた。
「……どうしたの」
呼びかけると、猫は一歩だけ近づく。
それから、思い切ったみたいに部屋へ跳び込んできた。
いつもはソファに向かうのに、その夜は違った。
まっすぐ、僕のところへ来る。
足元に擦り寄る――のではなく、
前脚を伸ばして、胸元に体を預けてきた。
「……っ」
反射的に、腕が動く。
抱き上げるつもりはなかったのに、抱きとめる形になった。
猫の体は細くて、温度が低い。
それなのに、胸の奥にじんわりと熱が広がる。
猫は抵抗しなかった。
むしろ、僕の腕の中で呼吸を合わせるみたいに静かになる。
――恋人みたいだ、と思ってしまった。
言葉にしたら壊れる気がして、何も言えない。
ただ、指先で背中をなぞる。
猫は小さく身じろぎし、それから僕の胸に額を押しつけた。
喉は鳴らさないが、確かに甘えている。
「……ここに、いて」
独り言みたいに呟くと、猫の尾がゆっくり一度だけ揺れた。
しばらく、そうしていた。
抱き合うというより、支え合うみたいに。
夜が深まり、外の音が消えていく。
猫は僕の腕の中で、目を閉じる。
その寝顔が、あまりにも無防備で――口元に触れたくなってしまった。
だが、それを必死で抑える。
相手は猫なんだから……でも欲しくなる。
疼く身体に気を取られていたら、猫はそっと腕を抜け出した。
もう夜明け前だった。
去り際に一度だけ、人みたいな目でこちらを見る。
――ありがとう、と言われた気がした。
◇
ある日のゴミ出しの帰り、隣の部屋の旦那さんと鉢合わせた。
「こんにちは」
「あ、こんにちは」
軽く会釈を交わす。
それだけのやり取りだったはずなのに、なぜか足が一瞬止まった。
瞬きをする癖。
視線を外すタイミング。
そして、静かな佇まい。
どこかで見た気がする。
――そんな感覚だけが、後を引く。
「……」
考えすぎだ。
それでも違和感は、薄く残ったままだった。
――その日の夜。
猫が来た時、僕は思わず口にしてしまった。
「……あなたは、もしかして隣の人?」
猫は、逃げなかった。
ただ一度、尻尾を揺らしてこちらを見た。
鳴き声は、小さくて情けない音だった。
否定も肯定もしなかったけれど、それで十分だった。
僕はそれ以上、何も聞かなかった。
猫もそれ以上、何か反応するわけではない。
それでも夜が深まるほど、猫は少しずつ距離を詰めてくる。
膝に乗り、離れず、抱き寄せると必ずこちらを見る。
――ここにいてもいいか、と。
そんな問いが、言葉にならずに滲んでいた。
僕はただただ、猫の背中を撫でながら目を閉じて、ぬくもりを感じていた。
◇◇◇
――妻とマンションに越して来た日。
隣の部屋に挨拶に行った。
ゆっくりとドアを開けた町田さんを一目見て、なぜか惹き込まれた。
この人であれば、俺の弱さを受け入れてくれるのではないか……と思える。
――決めた。
そう思った時だった。
夜になると、体が軽くなった。
正確には――軽くならなければ、息ができなくなる。
妻の前では、弱さを見せてはいけないと思っていた。
優しい人だからこそ、甘えてはいけない気がしていた。
そう。昼の俺は、夫だ。
穏やかな妻がいて、平凡で、問題のない生活がある。
それを壊したいと思ったことは、一度もない。
仕事も多くを任せられ、周りから頼りにされている。
けれど夜になると、胸の底に溜まったものが形を変える。
言えなかった言葉、欲しかった温度。
弱みを見せられないというプレッシャー。
誰にも向けてはいけないはずの、寂しさ。
それらが、猫になる。
人のままでは、あの部屋には行けなかった。
もし男として立ったら、きっと越えてしまう。
触れたら、彼の人生だって壊してしまいかねない。
だから、猫だった。
――最初に彼の部屋に入った夜のことを、よく覚えている。
薄暗い部屋、静かな空気。
それから、驚いたようにこちらを見る目。
――拒まれなかった。
撫でる手は慎重で、触り方は優しくて、まるで「ここにいていいか」を確かめるみたいだった。
触れられているのに、欲が静まっていくのが不思議だった。
俺は背中を預けた。
あの瞬間、初めて息ができた気がした。
◇
朝は妻と同じ時間に起き、短い会話を交わして家を出る。
仕事は忙しいが、責任ある立場を任され、部下もいる。
評価も悪くない。
毎日は、滞りなく続いている。
困ることは、特にない。
妻は必要以上に踏み込まず、干渉もせず、俺を信頼してくれている。
その優しさの前で、弱音の置き場だけが見つからなかった。
ある日の仕事帰り、マンションのエントランスで隣の部屋の町田さんとすれ違った。
「こんばんは」
それだけのやり取り。
けれどなぜかその声が、耳の奥に残った。
静かな人だと思った。
無理に愛想を振りまかず、必要以上に近づいてこない。
それでいて、線を引かない。
ああいう距離感の人は、久しぶりだった。
だからこそ、もっと彼のことを知りたくなってしまう。
部屋に戻ると、妻は先に夕食を済ませていた。
温め直した料理を食べながら、今日あったことを少しだけ話す。
何も問題はない。
喧嘩も、不満も、秘密もない。
それなのに夜が深まるにつれて、背中がずしりと重くなっていく。
誰かに触れたいわけじゃない。
欲をぶつけたいわけでもない。
ただ――
俺自身のことを、弱さごと見てくれないか。
ただ隣にいて、同じような呼吸をしたいだけだ。
そんな都合のいい願いを、人のままでは叶えられないことぐらい分かっていた。
ベランダに出る。
夜風が、火照った頭を冷やす。
隣の部屋の灯りは、まだ点いている。
カーテン越しに、気配だけが伝わってくる。
――あの部屋なら。
なぜ、そう思ったのかは分からない。
理由をつけるとしたら、俺自身を否定されない気がした、ただそれだけだ。
静かな場所が、ひとつ疼く。
このままでは、息ができなくなる。
だから夜になると、俺は猫になる。
あの人のもとへ、今日も行く。
◇
その日は、床を歩いて彼の足元へ向かった。
いつもなら、そこで丸くなる。
けれど、その夜は違った。
一歩、距離を詰める。
もう一歩。
伸ばした前脚が、彼の服に触れた。
一瞬迷ったが――やっぱり身体ごと委ねたい。
抱きとめられるまでの時間は、ほんのわずかだった。
けれど、その間にいくつもの言葉を飲み込んだ気がする。
――ここまで。
――これ以上は、行かない。
そう決めたところで、彼の腕が回ってきた。
包まれる感触は、思っていたよりも温かかった。
彼の身体に額を押しつけたとき、このまま人に戻りたいと思ってしまった。
人になって、肌の境目さえなくなるぐらいに、一緒になりたいと。
――駄目だ。
それだけは、してはいけない。
それでも、このぬくもりと匂いをしっかりと身に染み込ませておきたくて、夜明け前のぎりぎりまで彼にしがみついていた。
離れる時は振り返らずに、そっと。
◇
彼に問われた夜。
「……あなたは、もしかして隣の人?」
どうしてわかってしまったのだろうか。
俺は逃げることも、否定することもできなかった。
尻尾を揺らしたのは、肯定だ。
情けない声を出したのは、謝罪だった。
それでも彼は、それ以上何も聞かなかった。
――優しい人だ。
だからこそ、これ以上は行けない。
でも猫であれば、もう少しだけ、あと少しだけこのままでいさせてくれないだろうか。
そう思いながら、少しずつ彼に近づく。
背中を支えられ、思わず声を出しそうになる。
あたたかい――
時が止まってくれるのなら、今がいい。
◇
そして次の夜、猫になれなかった。
ベランダに立っても、体が変わらなかった。
人のまま、ただ立ち尽くすしかなかった。
夜風が冷たく頬を撫でる――もう彼のことは忘れろ、と言うように。
ベランダの手すりに手を置き、何度か息を整えた。
行けば終わる。行かなければ、夜が続く。
それでも――
俺は覚悟を決めて、部屋から出た。
隣の部屋。
インターホンを押したとき、手が少しだけ震えていた。
「……こんばんは。急に、すみません」
彼は不思議そうな表情だったが、部屋に入れてくれた。
ソファに座るよう促される。
隣にいるだけで、何かがじわりと込み上げてくる。
猫でいた時に見たあたたかさは、そのままだった。
それが余計に、俺の心を苦しく疼かせる。
俺は、全部話した。
猫だったこと、触れたかったこと。
でも……越えたくなかったこと。
「あなたの部屋でだけ、俺は……役割を脱げた」
彼はこんな自分のことを、何も否定しなかった。
そして、俺の手をそっと握って言う。
「……僕もです」
その一言で、救われてしまった。
もっと愛されたいと――願ってしまった。
でも。
「もう、行きません」
それは、別れの言葉だった。嘘ではない。
彼が俺の手を、さらにぎゅっと握る。
「……猫のあなたが、好きでした」
そう言って俺の胸に飛び込んで来た。
彼の背中に手をやり、ゆっくりと撫でた。
俺が夜に撫でてもらったように、そっと。優しく。
今なら越えられる。
だが、戻れなくなる。
それでも。
「俺も……好きだった」
顔を上げた彼の額に、唇を落とした。
彼は耳まで赤くして、瞬きをする。
もう一度、強く抱きしめて――これ以上は進めなかった。
互いに何も奪わず、それでも確かに、心だけが触れていた。
あの夜々は、確かに恋だった。
◇
夜になる。
体は、もう猫にならない。
それでいい。
隣の部屋に灯りがついているのを見るたびに思う。
あそこに、俺が猫でいられた場所があったことを。
夜は、逃げたくなる時間だった。
けれどもう、誰かのところへ逃げなくてもいい。
彼のいた夜は、これからもここに残っている。
『夜になると、猫だった』 完




