■02
彼女と僕は同じ病院に入院する患者だった。
僕たちの世界は狭い。病室と、日に決められた時間だけ出ることを許される、病院の裏庭。それが僕たちの世界のすべてだ。あとは治るかもわからない病とベッドの上で闘うだけ。
治療の都合で元いた病院から転院してきた僕が、長く苦しいだけの検査を終え、束の間の休息に裏庭で出会ったのが彼女だった。
きっと一目惚れだったと思う。
彼女は一生のほとんどをこの病院で過ごしているのだという。幼少の頃に病が発覚し、それから入院続き。僕も似たようなもので、短くはない時間を病院で過ごしていた。
明日元気に目を覚ませるかわからない毎日だ。精神的に塞ぎこんでしまっても仕方がない中、彼女は会う度いつも笑って前向きだった。そんな彼女が僕には眩しかった。
お昼を済ませて午後になると外に出ることを許される。
彼女の病室は僕の病室の斜め向かいだった。ちらりと様子を見ると開いた扉から看護師の声が聞こえてきて、彼女がまだ部屋にいることが察された。
病院の裏庭に出ると、穏やかな陽だまりの中に座り込む。
裏庭はひとけがない割に綺麗に手入れされていた。一面芝生が広がっていて、まるで小さな草原だ。草原の奥には森が続いている。
今日は、彼女は来るだろうか。もしかしたら来れないかもしれないな、と、木の幹に背を預けながら考える。
その日会えるかは、その時になってみないとわからなかった。お互い健康な体ではない。ベッドから起き上がるのも辛い日だってあるし、気持ちは元気でも医者からストップがかかることもある。
以前は裏庭に出る前に病室を覗いていたこともあったけれど、辛いときは互いに余裕がないし、顔を見せると無理して外に出ようとしたこともあって、以来やめている。
今日は会えるかな。会えるといいな。
風に揺れる木の葉のさざめく音に耳を傾ける。
しばらくすると芝生を踏む音が聞こえてきた。段々と近付く足音がやがて目の前で止まる。
「おまたせ」
顔を上げればいつものように彼女が立っていた。
「ふふ、会いたかったよ」
そういうと彼女は照れくさそうな表情をしながら、誤魔化すように隣に座った。
「あのね、今日頑張ったの」
「どうしたの?」
「最近新しいお薬が増えたんだけど、すっごく苦くて飲みにくいの。でも早くあなたに会いたくて頑張ったんだ」
「僕に会うために?」
「うん」
首を傾げて彼女が笑う。
それがすごく可愛くて、健気で、僕は胸がいっぱいになる。こんな素敵な子が頑張って僕に会いに来てくれる。それが嬉しい。
「僕以上の幸せ者、この世界にいないんじゃないかな」
「言い過ぎじゃない?」
「そんなことない。こんなに嬉しいんだから」
彼女は大袈裟なんだから、と屈託のない笑顔を見せる。
でもきっとこの世界に、この笑顔であなたに会いに来たなんて言ってもらえる人間は他にいないだろう。だから大袈裟なんてことはないのだ。
「明日も頑張ってくるね」
「僕も頑張って会いにくるよ」
顔を見合わせて笑いあう。
まるで綿あめみたいにふわふわして、幸せな時間だった。
それからしばらく会えない日々が続いた。
彼女の体調が悪くなったようで、ベッドから出られないのだと看護師に聞いた。
そうなると裏庭に出る気もなくなって、ベッドで過ごす日が増えるばかりだった。
最早この人生は彼女と過ごすためだけにある。だからそれ以外の時間は味気なくて酷く退屈で、ただただ無意味だった。
気が滅入っていると体もそれに引きずられるように段々と調子が悪くなっていった。全身が痛んで咳が止まらない。
毎回、彼女の病状は少し違った。死ぬ日は決まっている。それでも前日までは嘘みたいに元気なこともあれば、ずっと病床に臥していることもある。
それは僕も同じで、ずっと元気なこともあれば、ほとんど起きていられないこともあった。元気な彼女がすぐそこにいるのに会いに行けないなんて辛くてたまらない。
彼女はもう良くなっただろうか。それなら僕も早く元気にならないといけない。彼女をひとりで退屈にさせたくもない。
薬の時間にやってきた看護師に彼女の様子は? と訊ねるけれど、彼女のことを考える前にまずは自分の体を治さないと、と教えてはくれなかった。
治せるものなら早く治したい。それでも治まらない微熱が僕の頭をおかしくしていく。
もう十日は彼女と会っていない。いっそこの体に鞭打って無理矢理部屋を抜け出そうかとも考えた。彼女の部屋に行って、一目その顔を見たい。僕にとって彼女は希望そのものだった。
次の日、運ばれてきた食事と一緒に、小さく畳まれた紙がトレーの上に乗っていることに気付いた。看護師はその紙に触れることなく病室を後にする。不思議に思いながら紙を手に取って開いた。
それは手紙だった。
はやく元気になってね。会いたい。
と、それだけが書かれている。差出人は書かれていなかったけれど、そんなの一人しかあり得なかった。
ぽた、とトレーに涙が落ちて、手紙が濡れてしまわないよう慌てて袖で涙を拭う。
彼女が会いたいと思ってくれている。何度言われても、まるで初めてのことのように嬉しくて仕方がなかった。
さっきまで食べる気になれなかった食事に手をつける。
薄味のスープをひとくち口に運ぶ。一瞬小さくえずいたけれど、なんとか飲み込んだ。
彼女のために元気にならなければいけない。その一心で口を動かし続ける。
数日後、なんとか快復した僕は久しぶりに裏庭に出ることを許された。
快復したとはいえ、まだ僅かに怠さが残る。駆けて行きたい気持ちを抑えて廊下をゆっくり歩いた。
今日は良い天気だった。ベッドの上でも陽の暖かさをよく感じた。
果たして今日は彼女に会えるのだろうか。
ドキドキと緊張しながら裏庭に出て、いつもの場所を覗き込む。
けれどそこには誰もいなかった。
まだ部屋で薬を飲んでいるのかもしれない。そういえば自分の病室を出る時に彼女の部屋の様子を伺い忘れた。
もしかしたら今日は彼女が体調を崩しているかもしれないし、期待しすぎないようにしなければ。
そう思いながら、彼女を待とうと足を進めたときだった。
「エノ!」
それは聞きたかった声だった。
勢いよく後ろを振り返れば、息を切らした彼女が立っていた。丸みを帯びた瞳が僕を捉えている。
「エノ」
駆け寄ってきたかと思うと、彼女はそのまま僕に抱き着いた。
「は、走ってきたの? 大丈夫? 苦しくない?」
あまり体を動かすと負担になって体調を悪くするから、普段は禁止されている。それでもこれほど息を切らして、きっと病室から走ってきたのだと思った。
ぎゅう、と弱いながらも、しがみつくように腕に力が籠められる。それを宥めるように軽く背を叩いた。
そのうち段々呼吸も落ち着いてきて、力が緩んだと思えば今度は丁寧に抱き締められた。
「会いたかった」
「……うん」
絞り出すような声音に、彼女の気持ちがこれでもかというくらいに伝わってくる気がした。
胸が苦しいくらいにいっぱいで、彼女の背中に腕を回すとぎゅっと抱き締め返す。
そうやって、しばらく僕たちは何も言わずに抱き締め合っていた。




