新社長と呼び出し
翌日の朝、社内にはどこか張り詰めた空気が流れていた。
出勤すると、みんながいつもと違う様子でバタバタしていた。
「おはようございます……どうかしたんですか?」
同じ部署の一つ下の後輩、今井さんに尋ねると彼女は言った。
「朝、緊急の社内メールが全員に入ってたみたいで」
社内メール?
そんなメール今まで働いていて届いたことはなかったけど……。
私は急いでパソコンを開いた。
全社員、10時に大会議室に集合するようにといった内容の社内メールが一斉に送られてきた。
誰もがなにごとかとざわついていて、私もよく状況がわら家内まま会議室へと向かった。
部長も、先輩たちも、普段より緊張した面持ちで並んでいる。
営業部やその他の部署の人も全員が大きな会議室に集まっていた。
やがて、壇上に立った社長がマイクを取り、落ち着いた声で話し始めた。
「皆さん、突然のご案内となりましたが……本日をもって、当社は『一ノ瀬ホールディングス』の傘下に入ることとなりました」
「え……?」
一瞬、空気が止まった。
私も、耳を疑った。一ノ瀬……ホールディングス?
あの、日本を代表する大手グループ企業……?
「そして、本日より新たに代表取締役社長として新社長が着任されます」
新社長?
社長が変わるの?
次々と新しいことが発表され、みんな戸惑った様子だった。
新しい社長が壇上に登壇する。
高級感のあるスーツに身を包み、髪はしっかりと整えられていて堂々としていて、自信に満ちた佇まい。
その瞬間、私は大きく目を開いた。
「ウソ……」
まさか。
そんなはずがない。
「初めまして。今日から代表を務めさせていただく、一ノ瀬涼真と申します」
低く、よく通る声。
そして一度だけ見たことがあるモデルみたいに整った顔。
あれは、一ノ瀬くん……!?
なんで一ノ瀬くんがここに!?
一ノ瀬くんは……昨日、うちの会社を辞めたばかりで……もう会うことはないんだと思ったのに。
「え〜〜!社長若くない?」
「イケメンー!私、狙っちゃおうかな」
「あんなカッコいい人見たことないわ〜」
女性たちは新社長の発表で盛り上がっていた。
みんな気づいてない?
今目の前にいる一ノ瀬くんが、後輩として配属されていたことに。
そうか、一ノ瀬くんは髪で目を隠していたから、みんな別人だと思ってるんだ。
私はただ呆然と立ち尽くしていた。
一体、何が起きてるの……?
目の前の彼は、確かに昨日まで私の後輩だった一ノ瀬くんだ。
どうして彼がここに……。
「まず、皆さんにお伝えしたいのは、今後この会社の経営体制を“成果主義”へと明確に移行するということです」
一瞬、空気がピリッと引き締まった。
「社内の評価制度、人事査定、昇格──すべての判断基準は“実績”と“責任”によってなされます。就業年数ではなく、結果を出す者が上に立つ。それが、今後の方針です」
近くにいた社員たちがそっと顔を見合わせる。
誰も声には出さないけれど、確実に空気が変わっていた。
そして、さらに彼は続けた。
「加えて、今後クライアントへ提出されるすべての資料は、私の確認を経たうえで外部へ出すようにします。妥協は許しません。このくらいでいいという曖昧な姿勢は、今後のうちのブランドには相応しくないと考えています」
言葉自体は静かで冷静なのに、空気がみるみるうちに重たくなるのがわかる。
こ、これは……。
いつもの経営陣が前に立っていないことから、これは経営陣ごと一層する流れなのかもしれない。
「マジかよ、社長が資料見るとか……」
「もうごまかしきれねぇじゃねぇか」
社員たちの表情が、じわじわと引きつっていく。
軽口を叩いていた営業部の先輩たちも、目を伏せたまま腕を組み直していた。
浮かれていた女性社員たちももうそんなことは言えないようで固まっていた。
こうして一ノ瀬くんの登壇が終わった。
私は終わった今でも何が起きたのか分からないままだった。
そして、一ノ瀬くんがマイクを手渡そうとした時。
「それから、月島遥さん。あとで社長室にお願いします」
一ノ瀬くんの口からそう告げられた。
う、うそでしょ……!?
こんなところで呼び出し?
一気にまわりがざわつく。
「なんで月島さんが呼ばれてるんだろうね?」
「さぁ?なんかしたんじゃない?」
周りの社員たちがコソコソ私のことを話している。
絶対、正体を知ってることが原因だよね?
俺の正体を知ってる人間はこの仕事をやめてもらうとか……?
ウソ、でしょ……。
私はショックを受けながらもトボトボと社長室に向かうことにした。
社長室の前で、コンコンとノックをすると中から「どうぞ」との声が聞こえてくる。
そこには大きな社長イスに腰掛ける一ノ瀬くんの姿があった。
す、すごい……本当に一ノ瀬くんが、社長になったんだ。
「昨日ぶりですね。月島さん」
昨日ぶりですねって、そんな悠長なこと言ってる場合じゃないでしょ!?
「一ノ瀬く……あ、一ノ瀬社長、これは一体……」
「前のままでいいですよ」
いいわけないじゃない……っ!
前は部下だったけど、今は社長だ。
社長のことを一ノ瀬くんだなんて呼ぶ人はいないのだから。
「せ、説明してください、何がなんなのか全然……」
「そうですね。月島さんにはきちんと話さないといけない。まずは……騙していてすみませんでした」
一ノ瀬社長は立ち上がると、私に向かって深く頭を下げた。
「そ、そんな……やめてください!」
「本当は騙すようなことをしたくなかったんです。ただ……新たに合併する際に会社内部を見ておく必要があった。そして会社として悪しき風習があることも聞いていてそれを調べる必要があったんです。月島さんには一番迷惑をかけて申し訳ないです」
こんなことを任されるって何者?
それに会社に潜入するのを許される人物って……。
「あの、一体一ノ瀬く……一ノ瀬社長は何者なんでしょうか?」
私がたずねると一ノ瀬くんは言った。
「僕は一ノ瀬涼真といいます。一ノ瀬グループホールディングス会長の長男です」
……やっぱり、そういうことか。
今回一ノ瀬くんが社長に就任したことで、全部辻褄が合った。
いい暮らしをしていることも、苗字が一ノ瀬で新社長に任命されたことも。
一ノ瀬グループは全国に系列企業を持ってる大きな会社だ。
その御曹司ということ……。
今回その一ノ瀬グループがうちの会社を買収したことは驚いたけれど、まさかこんなことになるとは……。
「僕はあえて身分を隠して、会社を見る必要があったんです。そして、経営体制を変えていきたいと思った。潜入して、どこにその悪が潜んでいるかを知る必要があった」
御曹司なのに、そこまでするなんて……。
本当にお飾りの社長ではないということが分かる。
「そんな中で、あなたの働き方は、ずっと見ていました。誰よりも親身にクライアントと寄り沿い、誰よりも誠実で結果を残していた。なので、月島さん」
社長がまっすぐに私を見る。
「月島さんに部署のリーダーを任せたいと思っています」
「えっ、私がですか?」
ビックリして目を丸めた。
だってさっきまでやめさせられるんじゃないかと思っていたから……。
「出来る人には役職と昇給をきちんとつける。それが僕のやり方です」
部署リーダーに昇給するということは、今度は上の立場としてみんなの企画の確認をしていくということだ。
そんな役割、私がもらってもいいのかな……?
戸惑っていると、社長は言う。
「それから……」
??
「あなたともう一度、一緒に仕事が出来るのが嬉しいです」
そしてニコッと笑顔を見せた。
──ドキン。
心臓が強く音を立てる。
意味が、分からない……。
あり得ないことがたくさん起きて、まだ動揺してる。
でも……。
──ドキン、ドキン、ドキン。
なんだか胸は期待で喜びでワクワクしていた。