優しさと切なさ
週明けの朝。
会議室に集められたマーケティング部のメンバーたちは、みんな静かにイスに腰掛けていた。
今日は週1の部署会議の日だ。
みんないつものように軽い雑談をしたりしている。
部長が入ってきて前に立つ。
するとその時。
手にした書類を一度テーブルに置いて、それからため息をつくようにして口を開いた。
「……今日は急な話になるんだが、本題に入る前に共有しておくことがある」
共有?なんだろう……?
すると部長は言った。
「一ノ瀬くんが、今月いっぱいで退職することになった」
……え?
その言葉に、思わず私は息を呑んだ。
何かの聞き間違いかと思った。
だって今月ってあと1週間しかないからだ。
「そんな突然ある……?」
「理由はなんだろうね」
「問題でも起こしたんじゃん?」
ざわざわとした声が飛び交う中で、私は声を出せずにいた。
一ノ瀬くんが、退職?
信じられない。だって、ついこの前だって普通に資料をまとめてくれてたし、私が作った企画に一緒にアドバイスをくれた。
……あの夜だって……。
彼は泣いている私に声をかけてくれたのに。
「本人からは家庭の事情ということで、詳細は控えるようにと言われている。最後の出社は来週の金曜日になる予定だ。じゃあ一ノ瀬くんから一言」
すると一ノ瀬くんはすくっと立ち上がってから淡々と言った。
「皆さんには急な退職でご迷惑をお掛けして申し訳ありません。この会社に来てたくさんのことを学ばせていただき感謝しております」
一ノ瀬くんのその言葉が、無機質に耳に届く。
彼はいつものように無表情で、周囲の視線にも動じることなく、挨拶を終えるとイスに座った。
どうして、何も言ってくれなかったの。
せめて私だけには相談して欲しかった。
あの夜……距離が縮まったなんて思ったのは、ただの私の勘違いだった?
胸の奥が、きゅうっと締めつけられるような感覚に襲われた。
「……そっか」
これから一ノ瀬くんとはいい上司と部下の関係になりそうなんて私だけが浮かれていたのかもしれない。
彼にとってはただの会社の先輩ってだけだった。
それから部署間の共有事項が行われ、会議は終わった。
人がみんな退席していく。
私は、なかなか立ち上がれずに手元のメモ帳を見つめていた。
気づけば人は誰もいない。
大事にしたいと思えば思うほど、みんな私の前から立ち去ってしまう。
なんでこうなっちゃうんだろうな。
毎日嫌なことばっかりで、仕事に専念しようと思ってた。
よく分からなかった一ノ瀬くんのことが少しだけ知れて嬉しくて、浮かれていたのかもしれない。
するとその時、一ノ瀬くんが会議室に顔を出しながら言った。
「戻らないんですか?」
戻らないんですかって……。
そんなあっさりよく言えるよ。
私はあなたが辞めることでショックを受けているっていうのに。
でも関係ないか。
一ノ瀬くんにとっては、辞める会社のただの上司だし……。
「戻るよ」
けっきょく私だけなんだよな……。
私はできるだけなんでもないみたいに立ち上がった。
すると一ノ瀬くんは突然ぐいっと私を引き寄せた。
「ちょっ……な」
「月島さんは今、何考えてますか?」
何って……そんなの分からないの。
一ノ瀬くんのことに決まってるじゃない。
そんなこと要領のいい一ノ瀬くんなら分かるはずなのに。
「……言ってくれたら、良かったのにやめること」
「俺だって言いたかった」
「えっ」
ばっと顔をあげると、一ノ瀬くんはすぐに背中を向けてしまった。
彼が何を考えていたのか、何を持って言いたかったと言ったのかは全然分からなかった。
そして、一ノ瀬くんの最終出勤の日は、思ったよりもあっさりと終わった。
送別会のようなものは、本人の希望で行われず、部署内で簡単な挨拶があっただけで、それ以外は、いつもの業務とほとんど変わらない一日だった。
一応、餞別にお菓子を買ってきたんだけど一ノ瀬くんはもらってくれるだろうか。
でも一ノ瀬くん、お菓子食べてる印象ないな。
もうすぐ定時。
一ノ瀬くんの残った業務は引き続きくらいだから、今日はすぐに帰宅するだろう。
なんて考えていると、オフィスに一ノ瀬くんの姿がなかった。
「あれ、一ノ瀬くんは?」
「もう帰りましたけど」
「ウソ……!?」
ちょっと……!
挨拶くらいしてよ。
何も無しなんて寂しすぎるでしょ!
「今さっき出たばかりなので、まだその辺にいるんじゃないですか。にしても冴えないし、交流しないしなんのために来たのって感じですけどねー」
もう……!
私は社員がブツブツ言っているのを後ろに彼を必死に探した。
何してるんだ。こんなこと……。
たった3カ月だけいた後輩に過ぎないのに。
挨拶だってわざわざするほどじゃないって彼は思ったのかもしれない。
でも……。
あんなことまでしてくれたんだから、挨拶くらいはしておきたいじゃない!
エレベーター前のロビーに向かうと、そこに一ノ瀬くんがいた。
黒いリュックを背負って、スーツの裾を整えるように軽く手を払っていた。
「……一ノ瀬くん!」
私が声をかけると、彼は静かに振り向いた。
「月島さん」
やっぱりいつも通り、淡々とした声。どんな顔をしているかも分からないし。
「来てくれたんですね」
「だって、挨拶くらいしたいでしょ!」
「そうですか……しんみりすると思ったので控えたんですが……」
「教育係として言わせてもらうと、それはいただけないな」
「……ですね。冗談ですよ。来てくれるかなぁって期待していたんです」
なぜだか一ノ瀬くんは嬉しそうな顔をしている。
「……一ノ瀬くん、おつかれさま。これ良かったら食べて……」
そう言って私は持ってきていた梱包されたお菓子を渡した。
「ありがとうございます」
一ノ瀬くんは、一瞬だけ目を伏せてからふと口元をゆるめた。
「月島さんは……僕が入った時から分け隔てなく優しくしてくれた人です。月島さんのような上司に会えて幸せでした」
「なっ……」
まさかそんなこと言ってくれると思わなくて思わず涙腺が緩んでしまった。
やだ……私、なんか涙もろくなってない!?
「なんて、3ヶ月しかいない男に言われてもって思うかもしれませんが……」
「そ、そんなことない!」
私は思わず声を荒げて言った。
「確かに一ノ瀬くんのこと、まだまだ知らないことだらけ。でも……いい人だってことは分かるよ。次の職場にいってもきっと一ノ瀬くんならやれると思う」
最後に先輩らしい言葉を付け足したのは、自分の寂しい感情を誤魔化すためだ。
「短い間でしたが、ありがとうございました。月島さんと一緒にした仕事したこと、忘れません」
一ノ瀬くん……。
嬉しさがある反面寂しさが増幅する。
ああ、もう人が辞めるのにこんなに悲しくなったことはなかったのに。
「頑張ってね」
「……ええ、また」
一ノ瀬くんは、ペコっとお辞儀をするとそれだけ言って、エレベーターに乗り込んだ。
エレベーターが完全に閉まり、静寂が戻る。
一ノ瀬くんが去っていってしまった。
本当に嵐のような人だったな。
突然来たと思ったら、あんまり話さないし、何考えてるか分からないし……。
でも優しいし仕事も出来るし、人の気持ちだって分かる人だった。
だからこそみんなに一ノ瀬くんのよさを知ってもらえず、辞めることになったのは悲しいけど、彼が合う職場で今度は頑張っていってくれたら嬉しいなと思う。
エレベーターを見つめていた時、誰かの声が聞こえた。
「ウケる〜!お気に入りインキャくんも消えちゃったね。あんたの教え方が嫌でやめたりして~」
「……愛理」
愛理の言葉に私はきゅっと唇をかみしめる。
相手にしちゃダメだ。
愛理の横を通り過ぎようとしたその時、彼女は言った。
「取られるのが男だけだと思わないでね?」
「……っ!」
驚いて目を丸める。
すると愛理はニヤリと笑った。
「あんたが持ってるもの、全部奪い取ってやるから」