【一ノ瀬side】
社長室のドアが閉まる音がやけに響いた。
目の前に座るのは、幼い頃から顔を知っている結月美鈴。
久しぶりに顔を合わせた彼女は、相変わらずの品の良さを身にまといながらも、どこか押しつけがましい気配を漂わせていた。
「どういうつもりだ?もうここには来るなと告げたはずだが」
「お父様には、もうご報告させてもらったわ。私たち、結婚するって」
その一言で、思わず眉間に皺が寄った。
……めんどくさいことをしてくれた。
「俺はそんな約束、一度もした覚えはない」
「でも、昔から決まっていた話よ? いいじゃない。涼真……私といる方が幸せに決まってるわ」
静かに、深く息をつく。
冷静になれ。
「キミのことは好きじゃない」
その瞬間、美鈴の瞳にわずかな光が走った。
静かに息を吐く自分とは対照的に、彼女の笑みはさらに深まる。
「へぇ、そう。好きな人がいるんだ?」
その意図を読み取り、言葉を返す前に、美鈴の唇が先に動いた。
「月島遥」
ぞくりと背筋を走るような、確信を突かれた感覚。
一瞬だけ息を止まった。
「……その名前を、どうやって知った?」
「調べさせてもらったわ。結月グループの探偵をなめないでもらえる?」
「くだらない」
そんなことに探偵を使うとは。
「涼真が私の言うことを聞いてくれないならあの子に、痛い目に遭わせちゃうかも」
「……っ、お前……」
鋭く彼女を捉える。
ふざけやがって。
「……それは、脅しか?」
「やだなぁ、ただの例え話よ?」
美鈴は飄々とした顔で目を細めた。
「……遥に、何かしたら許さない」
俺はそう告げると、立ち上がり社長室のドアをあけた。
「帰ってくれないか。これ以上の会話に意味はない」
「そうね、今日のところは帰るわ。お父様にも言っておくわ。結婚式の日取りを決めているとね」
彼女は口角を吊り上げたまま立ち去っていった。
社長室の扉が閉まり、静寂が戻る。
「はぁ……」
めんどうなことになった。
社内にはもう情報が流れているだろう。
「ご婚約者」なんて偽りの情報もすでに広まっている。
遥も不安になっているだろう。
一刻も早く、彼女に話をしないと。
それから、また外に用があったので、社外に出て接待をしてから社長室に戻ると、俺は深く息を吐いた。
結月が突然会社に現れ、自分は婚約者だと勝手に宣言したことで、社内は一時騒然とした。「誤解だ」と各所に訂正して回ったが、全く信用されなかった。
俺の父と結月の家は古くからの付き合いがある。
それも大きいのだろう。
俺の意志は無視されたまま、結月は既成事実を積み上げていく。
「クッソ……」
どうしたらそんなことが出来る。
そう思いながらも、抱えている業務は山積みで、今は裁くべき仕事の山を片付けることが先だった。
部下に詰め寄られ、取引先との調整をし、書類に目を通し続け、ようやく全てに目処がついたのは、すでに夜遅くなってからだった。
「もう10時か……」
あれから彼女に連絡が出来ていない。
彼女は今日、自分の家に来てくれているだろうか。
疲れた身体をなんとか奮い立たせ、自宅まで帰る。
家のドアを開けると、ふわっと香る出汁の匂いと、照明の下にいる彼女の姿が目に飛び込んできた。
「おかえりなさい、一ノ瀬さん」
キッチンから顔をのぞかせる遥の笑顔が、胸にじんとしみた。
彼女のこの顔を見ると、いつもここがほっとできる場所なんだと実感させられる。
「……ただいま」
靴を脱いでリビングに入ると、彼女はすぐにお茶を淹れてくれた。差し出された湯呑を手に取ると、遥は言う。
「今日は接待だったので、夕飯は済んでますよね。良かったらお味噌汁作ったので、それだけ飲んでください」
「ああ、ありがとう」
彼女はいつも俺のことを気遣ってくれる。
そういう優しさが嬉しいが、無理をしていないか心配になることもある。
「遥……今朝は迷惑をかけてすまなかった。話をしよう」
「大丈夫ですよ。……ちょっとびっくりしましたけど」
無理に笑っているように見えた。
遥は俺の目を見ることなくソファーに腰をおろした。
「すまない。まさか結月があんな行動に映すと思っていなかった。必ず誤解を解いてこの件は、どうにかするつもりだ」
そう言うと、遥は一瞬だけ視線を落とし、小さな声で言った。
「でも……」
彼女はそっと言葉をつむぐ。
「ご両親も、結月さんと結婚してくれたらいいなって思っているんですよね?」
俺はその言葉に、胸の奥で何かがチリッと弾けるのを感じた。
どうしてそんなことを聞くんだ?
不安になった。
「正直言うと、お似合いだなって思いました」
遥は強引に笑顔を作って見せた。
「ふたりが並んだ姿を見た時に、私なんかと一緒にいるよりも結月さんみたいな人の方がいいんだろうなって」
「何を言ってる?」
思ったよりも低い声が出た。
その声に遥はびくりと身体を揺らす。
「一ノ瀬さんはやっぱりすごい人です……。でも私は特に取り柄もない普通の女です。これから先、一緒になっても並んで歩けないかもしれません。もっと私よりもいい人が一ノ瀬さんには……」
「それは……心外だな」
思わず遮っていた。
遥が俺にとって、どれほど大切な存在か伝わっていなかったのか?
誰じゃないと釣り合わないじゃない。
俺が遥じゃなきゃダメなんだ。
それなのに、どうして伝わらないんだ……。
「俺の幸せは自分自身で決める。そう伝えたはずだ」
そう告げた時、遥はきゅっと唇を噛みしめた。
「ずっと、思うんです……後輩の一ノ瀬くんだったら、何も気にせず付き合えたのにって……」
「遥……」
「すみません、今日はもう……帰りますね」
そう言うと、彼女は悲しそうな顔をして立ち上がった。
もう俺の方を見ることもなく、これ以上俺と一緒にいたくないんだと悟ってしまった。
「タクシーを呼ぶよ」
伝わらない。
当然だ。
自分の相手が別の人と婚約するなんて突然言われたんだ。
自信を無くすに決まってる。
どうしたら彼女に俺の気持ちを伝えられるのだろう。
どうしたら……。
こんなにも手放したくない存在が今までいなかった。
こんなにも引き留めたいと思う人は遥だけだ。
でもだからこそ分からない。
彼女の引き留め方が……。




