絶望の淵
コーヒー片手に午前中の打ち合わせ内容を整理していると、ひょこっと横から愛理が顔をのぞかせた。
「ねえ、遥~」
声のトーンが軽くて、ちょっと甘えるような言い方は学生時代から変わっていない。
これは仕事を頼まれる予感……。
「どうした?」
「このクライアント向けの案、ちょっとまとめ直してくれると助かるんだけど」
「えっ、まとめ直し……?」
「うん、なんかね~、今日中に出さなきゃなんだけど、私このあと会議詰まっててさ。手を付ける時間がないの。それに遥のほうが資料きれいにまとめるの得意だし!」
得意って……それは愛理の仕事でしょ?
私も今日、けっこう仕事が詰まってるし……。
「お願い!」
愛理は構わず、笑顔でファイルを私のデスクにポンと置いた。
「……しょうがないなぁ。今日だけね?」
って、このセリフを何回言っただろう。
愛理は、困ると私に仕事を押し付けて来ることが最近多かった。
最初は、喜んでくれるし困ってるのだからと思ってやってあげていたんだけど、ここ最近頻度が多い気がする。
「ありがと~!ほんと、助かる!さすが私の親友」
ぎゅうっと抱き着く素振りを見せると、愛理は自分のデスクに戻っていった。
私の机の上には、まだ手を入れていない粗削りの企画案と、提出期限が太文字で書かれた進行スケジュールが乗っている。
「はぁ……」
全然手、付けてないし……。
今日も残業、かな。
ふと、ため息が漏れた。
午後も深くなった頃。
パソコンの画面とにらめっこしながら、私はひたすら資料を打ち込んでいた。
来週のクライアント提案に向けて、マーケティングプランの最終調整。
途中で何度も修正指示が入り、スケジュールは押しに押して、もう息をつく暇もない。
しかも、私に仕事を頼んだ愛理は先に帰宅する始末……。
こっそり帰ったのか、気づいたらいなくなっていた。
早く上がれるなら自分の仕事してほしいよ……。
「……はあ」
つい、大きなため息が漏れる。
デスクの脇に置いたマグカップも、とうに空っぽだった。
でも今立ったらペースが崩れる気がして、重たい体を無理やり椅子に沈めたまま、次のページに手を伸ばす。
そんなときだった。
カツン、と小さな音がして、私のデスクの端に何かが置かれた。
「……?」
顔を上げると、そこには銀色に光る缶コーヒーが一つ。
「おつかれさまです」
うつむきがちで短くそう告げる一ノ瀬くん。
「えっ、あ……ありがとう!」
一ノ瀬くんこんなことしてくれるんだ……。
それにまだ残ってくれていたんだ。
優しいな。
「一ノ瀬くんはもう帰っちゃって大丈夫だからね!」
「いえ、月島さんの仕事手伝います」
「いいの、いいの!今回のは調子乗って受けちゃった仕事だから」
そこまで言うと、一ノ瀬くんは黙り込んだ。
自分の仕事も溜まってるのに、人の仕事を受けちゃって出来ない上司だって思ったかな?
すると一ノ瀬くんはすっと背後から手を伸ばした。
「これ……月島さんがやる必要のある仕事でしょうか?僕にはあなたの仕事じゃないように思います」
人に関心が無さそうだったから、そうですかって流してくれると思ったのに……。
驚いた。
「まあ、ちょっと頼まれると断れない性格がありまして……」
「それなら僕を使ってください。上手く断りますよ」
「えっ」
まさかそんなこと言ってくれるとは思わなかったな。
「ありがとう、一ノ瀬くん。でもなんとか終わらせるから!」
そこまで言うと、一ノ瀬くんは「そうですか……」と静かに告げた。
「自分に出来ることがあったら言ってください」
そうは言われるけれど、今はもう21時を回っているし……新人の一ノ瀬くんを遅くまで残すわけにもいかない。
「ありがとう!」
一ノ瀬くんが去っていってから缶のプルタブを捻る。
彼のくれた缶コーヒーは甘くて、ほっと身に染みた。
『人に関心もないし』『無愛想で』
そんなことなかったな……。
それから……。
「出来た!」
ようやく全ての仕事が片付いた。
カバンを持って会社を出る。
22時か……。
いつもよりかなり遅い時間だった。
この時間に翔平さんの家に行ったら迷惑かな。
でも明日は土曜日だし……翔平さんの家に行ったら、このまま泊まって行きなよって言ってくれるかもしれない。
そのまま明日だってデートできるかもしれないし……。
最近仕事詰めでちょっと参ってるんだよね。
できるなら、翔平さんに会いたい。
今日はちょうど午前中にクライアントさんと直接会ってお話をして、その時に美味しそうないただきものまで貰ってしまったから、翔平さんと一緒に食べるのを口実に行ってみよう。
用事があるって言われたら、そのまま帰ればいいんだもん。
連絡すると、無理だと言われそうで怖くて私はそのまま彼の家に行くことにした。
駅前のスーパーで翔平さんの好きなビールと、ちょっとしたお菓子を買って、いつものように合鍵で部屋に入る。
この合鍵は付き合いたての時、翔平さんがくれたものだ。
「ふふっ」
これがあるたびに頑張ろうって思えるんだよね。
「……おじゃまします」
彼の家のドアを開いて入った時、ふわりと甘い香りが鼻をかすめた。
どこかで嗅いだことのあるような香水のようなにおい。
さらに小さなヒールのパンプスが玄関に揃えて置かれていた。
えっ……。
淡いベージュ色で、ブランドのロゴがかすかに金色で刻まれている。
女性もののクツ……。
──ドクン。
心臓が嫌な音を立てる。
いいや、違う。
そんなはずはない。
翔平さん、お姉さんいるって言ってたかも。
部屋の中から、テレビの音がうっすら聞こえている。
「……まさか、ね」
たった一歩が重たくて、なかなか進まない。
大丈夫、大丈夫だから。
自分に言い聞かせるように呟いた声が、妙に空々しく響いた。
声の聞こえる方に向かう。
リビングの奥から笑い声が聞こえ、私は無意識に足を止めた。
「……っ!」
その瞬間、空気が凍った。
ソファの上。寄り添うふたり。
見間違えようがなかった。
翔平さんと、そして――親友の愛理の姿がそこにあった。
愛理が翔平さんの胸元に顔をうずめて笑っている。
「……何してるの」
声が震えて、自分のものじゃないみたいだった。
ふたりは同時にこっちを見る。
驚いて慌てふためくかと思ったらそうじゃなかった。
翔平先輩は一瞬、「ヤベ」とだけ声を漏らすと眉をひそめ、めんどくさそうに立ち上がった。
「……なんで来たんだよ。連絡もなしに。普通来るなら連絡するだろ」
「ご、ごめ……渡したい資料があって……」
どうして私が怒られてるんだろう。
「あのさぁ!資料なんかデーターで送れるだろ?わざわざ来て俺の手を煩わせるんじゃねぇよ」
その声は私を責めるものだった。
「どう、して……」
資料のことなんて関係ない。
翔平さんたちが今、何をしているのか頭が真っ白で自分でもよくわからなかった。
「遥って、ほんと空気読めないよね」
愛理はにやりと笑って、翔平さんに抱きつく姿を見せる。
「今からいいとこだったのに、邪魔するんだもん」
「裏切ってたの?」
「そうだけど何?」
信じられない。
信じたくない。けど、そこにいるのは確かに、私の知っている愛理だった。
「気づかなかった?バカだね。半年前からず~と翔平さんと私は愛しあってたの」
「どう、して……」
「どうして?だって翔平さん、私の方がいいって言うんだもん。あんたなんかより私の方が可愛いし、癒しになるんだって。だから仕方ないでしょ?」
「愛理……」
目から涙が零れる。
親友だって思っていたのに……。
「あんたは親友にも彼氏にも裏切られてた惨めな女だって自覚しな?」
愛理の声が、ナイフみたいに突き刺さる。
どうしてそんなヒドイことが出来るんだろう。
信じてたのに、愛理なら信頼できると思って私が翔平さんと付き合ってることも伝えたのに。
すると翔平さんも私のことを見下すように言う。
「もうバレたから正直に言うけど、お前と結婚する気なんか更々ないから。最初から仕事手伝ってくれて、飯も作ってくれて?俺の生活を楽にする利用できるコマだったってわけ」
「そん、な……」
やっと出た言葉は、涙声になっていた。
「まぁ楽で良かったわ~お陰で上司から出世もほぼ確って言われてるし?お前はもう、用なしな?」
「……っ、ぅ」
涙が止まらなかった。膝が震えて、立っているのがやっとだった。
「帰って。空気読んでくんなぁい?それとも私たちが裸で抱き合ってるところを見ていきたいならそれでもいいけど?」
愛理がにやりと笑いながら言う。
そんなの、見たくない……っ。
『遥~!見てこの雑誌。ここに乗ってるパンケーキ屋さんに行きたいの』
『いこいこ~!』
『ねぇ遥~今日の放課後プリ撮って遊ぼう』
あんなにずっと高校時代を一緒に過ごしてきたのに。
気が合って、大人になって再会して会って無かった時間を埋めるようにランチにも行ったのに……。
全部ウソだったんだね……。
ぽたりと頬を伝って涙が流れた時、私は逃げるように部屋を出た。
「……っ、う」
外の冷たい空気が、頬の熱を一気に奪っていく。
涙は止まらなかった。
翔平さんのマンションを出た瞬間、空から冷たいものが頬を打つ。
見上げると、ぽつぽつと雨が降ってくる。
ああ、雨降って来ちゃった。
傘なんて、持ってないや……。
まるで自分の心を表すみたいに振り出した雨。
歩いていると、足元がふらついて、私はその場にしゃがみ込んだ。
惨めだなぁ。
親友にも、恋人にも裏切られていたなんて。
どうしてこんなに人を見る目がないんだろう……。
どうして毎回……こんな思いしないといけないんだろう……。
ずっと翔平さんのこと信じていた。
少しくらい冷たくても、優しさが足りなくても、「好き」でいれば、伝わると思ってた。
笑って、支えて、我慢すれば、いつか報われると……勝手に信じてたのに。
「……なんで」
声にならない涙が、頬を伝って落ちていく。
それを助長するかのように空からの雨が、髪を、肩を、濡らしていく。
その時だった。
ふいに、頭の上から雨の感触が消えた。
その前には人影。
薄く影が差して、私はおそるおそる顔を上げた。
そこに立っていたのは――一ノ瀬くんだった。
「……濡れますよ」
彼の手には、黒い品のいい傘がある。
その傘を、私の頭の上にすっと差し出してくれていた。
「……っ、あ」
声が震えて、まともに言葉が出なかった。
一ノ瀬くんは、私の顔を真正面から見つめながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「このままじゃ風邪を引きます。場所を移動しませんか?」
それは包み込むような優しい声色だった。
「……っ」
私は何も言えず、ただ彼の差し出す傘の中に、静かに身を寄せた。
どうして、一ノ瀬くんがここに……?
どうして彼が声をかけてくれるの?
その疑問は吐き出す間もなく雨音に消えた。