自信がない
月曜日の午後。
部署の空気が、朝からどこか落ち着かない。ざわざわとした気配が漂い、社員たちの視線がひとつの方向に集中していた。
「……誰?あの人……」
「めちゃくちゃキレイな人だったよね!?モデルかと思った」
「社長に会いに来たんだって」
社内エントランスに現れたのは、品の良いワンピースに身を包んだ女性だった。
艶やかな髪と落ち着いたメイク、そして静かに微笑む口元。
まるで誰もが息を飲むような存在感を放っていた。
この人は前にも来た……社長の婚約者だと言っていた人だった。
どうしてまたここに……。
総合受付に立った彼女は、名刺を差し出しながら、やわらかく告げる。
「一ノ瀬社長にお目通りいただけますか。婚約者の結月と申します」
――婚約者?
その言葉は瞬く間に周囲に広がり、社員たちがざわつきはじめる。
「ウソ、社長の婚約者って……」
手元の書類を持ったまま、動けなくなる。
この件は解決したんじゃないの?
彼女はすでに受付前からエレベーターホールに向かい、そこにいた秘書の案内で社長室のフロアへと進んでいた。
その場を見守っていた社員たちに、彼女はにこやかに笑顔を見せていた。
「すみません、あいにく一ノ瀬は社外に出ておりまして……」
「そうだったんですね。では皆様のいるところで待たせていただいてもよろしいでしょうか?ご挨拶させていただきたくて……」
事務の人が驚いたような素振りを見せると、結月さんをみんながいるオフィスへと案内した。
「こちらが本部になります」
結月さんが一歩、オフィス内に足を踏み入れると、がやがやとしていたフロアが一瞬で静まり返った。
その場にいた誰もが、彼女の存在感に息をのんでいた。
「突然お邪魔してすみません」
そう言って、彼女は穏やかな笑みを浮かべたまま、軽く一礼した。
「私、一ノ瀬涼真さんと婚約をしました結月と申します。結婚に向けたお話が進んでおりますので、皆さまにもご挨拶をと思いまして……」
……え?
私は自分の耳を疑った。
いま、なんて?
「ご婚約……?」
近くの席の先輩がぽつりとつぶやいた声が、やけに大きく感じられた。
周囲の社員たちが視線を交わしながら、戸惑ったように姿勢を正していく。
ウソ、でしょ……。
なんでそんなことを勝手に……。
「おめでとうございます。社長からは聞いていなかったので、驚きましたよ」
周囲の社員たちは驚いたように声をあげた。
「とってもお似合いです!おめでとうございます」
みんなが彼女を囲んで拍手をする。
そんなときだった。
その時だった。
「お疲れさまです、社長」
エレベーターの扉が開き、周囲の視線が一斉にそちらへ向いた。
そこに立っていたのは、一ノ瀬さんだった。
いつもと変わらない、凛としたスーツ姿。
けれど、その顔には、わずかに険しさが滲んでいるようにも見えた。
「社長、ご結婚、おめでとうございます!」
「いきなりでびっくりしましたよ!」
社員たちが口々に祝福の言葉をかけ始める。
すると驚いた顔をした後、結月さんを見て一瞬、表情を曇らせた。
「……なんで、君がここに」
彼女は一ノ瀬さんの元に駆け寄っていくと伝える。
「話をしましょう。伝えておかないといけないことがあるの」
彼女は嬉しそうにそんなことを言った。
一ノ瀬さんはしばし黙り、周囲の視線に気づいたのか、小さく息を吐いた。
「……とりあえず、中で話そう」
一ノ瀬さんは、彼女とともに社長室へと歩いていった。
なにを話しているんだろう。
気になって仕方がない。
一ノ瀬さんは私を好きだと伝えてくれた。
だから大丈夫。
頭ではわかっていた。
でも……どうしようもなく、不安が胸を締めつける。
「お似合いでしたねー、さすが社長クラスの婚約者……」
「結月ってあの寝具メーカーの社長の娘さんでしょう?」
「やっぱりビックカップル同士がくっつくようになってるんだなぁ」
すぐ隣の女性社員の声が、刺のように刺さる。
みんなお似合いだって言ってたな。
私だってそう思う。
私のような地味な人よりも、キレイで華のあるような人の方が一ノ瀬さんとはお似合いなんだろう。
どうしても、不安になっちゃうよ……。
それから私はめいいっぱい仕事をすることによって、今朝のことを忘れようとしていた。
昼休み。
私は小さくため息をついて、私は外の売店へと足を運んでいた。
すると、その時後ろから声をかけられた。
「あなたが、涼真をたぶらかしてるってウワサの……月島遥さんかしら?」
「……っ!」
背後から聞き慣れない声がして、私はぴたりと動きを止めた。
ゆっくりと振り返ると、そこには結月さんが立っていた。
「私は結月美鈴といいます」
彼女は軽く顎を上げて、私の足元から頭の先まで値踏みするように視線を這わせる。
「全然ダメ。涼真みたいな男の隣に並ぶのが、こんな素朴な子ってあり得ると思う?」
喉の奥がきゅっと詰まって、言葉が出なかった。
「単刀直入に言う。涼真と別れて」
一瞬、聞き間違いかと思った。けれど、彼女の眼差しは真剣そのものだった。
「……え?」
「あなたと涼真が一緒になっても、彼の足を引っ張るだけだと思うの。調べさせてもらったわ……あなたがごく一般の家庭で育った凡人。あなたと涼真が合うわけがない」
私の視界が少し霞んで見えた。
不意に突きつけられた現実が、私の胸をきゅうと締めつける。
「……そんなの、勝手すぎませんか」
やっと絞り出せた言葉は、震えていた。
でも言わなくちゃ。
だって私は一ノ瀬さんの方の言葉を信じたい。
大丈夫だって、信じるって決めたから……。
「何が勝手なの?同じ身分同士結婚するのがいいに決まってるわ。もう涼真のお父さんからも承認をもらったのよ」
そう言って結月さんは勝ち誇ったようにスマホのメッセージ画面を見せた。
そこには結婚をお祝いする文章が書かれていた。
「彼の家族とは昔から交流もあるし、お父様も私なら大歓迎と言ってくれている。一ノ瀬グループの厳しいお父様があなたとの結婚を簡単に許すわけはないでしょうね」
すべてが負けていて、反撃する気力も残っていなかった。
そうかもしれない……。
一ノ瀬さんがたとえ好きだと言ってくれたところで、お父様やお母様が受け入れてくれるとも限らない。
「彼と結婚するのは、私。あなたじゃないわ」
そして、優雅に微笑むと、この場を後にした。




