婚約者
あたたかい日差しが差し込む昼下がりのオフィス。
忙しくも充実した毎日が続いていた。
一ノ瀬さんと付き合い始めてから、もう少しで三か月。
まだ秘密の関係だけど、ふたりだけの時間は、毎日が夢みたいで。一緒に仕事をして、一緒に帰って、ごはんを食べて、時々、休日には遠出もした。
静かで穏やかで、心地よくて。
このまま、ずっとこの日々が続けばいいなって毎日思う。
「月島さん、この前の企画……先方からかなり好評でしたよ」
「本当ですか!?」
「ええ、ぜひ詳しく聞かせていただきたいと」
「嬉しいです!」
一ノ瀬さんの声が耳に届くと、それだけで頬が少しだけ熱くなる。
周りには気づかれないように、私たちはちゃんと距離を保っているけれど、ふとした瞬間、やっぱりきゅんっとしてしまうんだよね。
昼下がり、会議を終えて自席に戻ると、フロアの空気がなんとなくざわついていた。
「ねえ、誰か来てない?」
「受付にすっごい綺麗な人いたよね」
「芸能人かと思った~」
同僚たちのひそひそ話に耳を傾けながら、私はパソコンを立ち上げ、資料の続きを開く。
芸能人? 来客?
広告の打合せかな?
そう思った時だった。
「なんかね、怪しい話してるって誰かが言ってたよ~一ノ瀬さんの婚約者じゃないかって。でもちょっと揉めてる感じで……」
こ、婚約者……!?
私は驚いた。
急に気が気じゃなくなってしまう。
少しくらい……聞くのはいいよね?
私は資料を持ったまま、自然と足を動かしていた。
気がつけば、オフィスフロアの端にあるガラス張りの会議室へと向かっていた。
けれど、確かに中には誰かがいて、声が漏れていた。
エレベーターを降り、ガラス越しに見えたその女性は、確かに周囲の目を引くほどの美人だった。
整った顔立ちに、上品なワンピース。
ハイブランドのバッグを手に、落ち着いた所作で立っている。
一瞬でただ者じゃないとわかるオーラがある。
なにを揉めているんだろう。
その時、低い声が返された。
「……何度も言ってるだろう。俺にそのつもりはない」
一ノ瀬さんの声。
どこか疲れたような、けれど明確に拒むような口調。
「それは父が勝手に決めたことだ」
「でも私は婚約者なのよ」
それと同時に、聞いてはいけないものを聞いてしまった罪悪感も押し寄せてきた。
私はそっと、その場から離れることにした。
席に戻っても、心は置き去りのままだった。
目の前のパソコンの画面に映るのは、進めていた企画書のドラフト。
けれど、カーソルが点滅するだけで、私は一文字も入力できなかった。
『でも私は婚約者なのよ』
その一言が、何度も何度も頭の中でリフレインする。
一ノ瀬さんに婚約者……。
あってもおかしくないことだ。
だって一ノ瀬さんは一ノ瀬ホールディングスの息子。
家柄としても結婚する相手がとても大事になってくるだろう。
「月島さん、ぼーっとしてるけど、どうかした?」
声をかけられて、ハッとする。
同じ部署の同僚が、心配そうにこちらを見ていた。
「ううん、大丈夫。ちょっと考えごとしてただけ」
無理に笑ってごまかした。
夜。
私は一ノ瀬さんの家に来ていた。
先日もらった合鍵を使って家に入る。
ソファに座ってスマホをいじりながら、私はなんとなく落ち着かない気持ちでいた。
今日、一ノ瀬さんは会食があり、それが終わって帰宅することになっている。
テレビを見て落ち着こうと思ったけれど、今日はなんとなく集中できなかった。
「ただいま」
しばらく時間を潰していると、一ノ瀬さんが帰宅した。
玄関の扉が開く音に、胸が跳ねる。
一ノ瀬さんがスーツ姿のまま部屋に入ってきた。
「おかえりなさい」
できるだけ普段どおりの笑顔で出迎える。
一ノ瀬さんはいつものように私を抱きしめた。
「帰ってきてキミの顔が見れると疲れが吹き飛ぶ」
「またまた……いいすぎですよ」
「そんなつもりはないんですけどね」
ジャケットをソファにかけながら、部屋着に着替えると彼はソファーに腰を下ろした。
私も彼の隣に座る。
一ノ瀬さんは私の肩に腕を回し、頬を軽く撫でた。
目が合うとなんとなく気まずくて目を逸らす。
「今日の会食はどうでした?」
私は話を逸らすように言った。
「今日はヨーロッパからのゲストが来ていましたので、学びがたくさんありました。こちらが思っている以上に、日本の地方再生に関心を持っていて、新規案件に繋がりそうです」
「そうだったんですね……」
自分でふった話なのに、それ以上話を広げられない。
婚約者という言葉が、今も頭から離れない。
本当はすぐにでも聞きたい。
朝のあの人は誰なのか。
私は一ノ瀬さんと付き合っていてもいい存在なのか。
でも聞いたら、今の関係が壊れてしまいそうで、どうしても口にできなかった。
「遥」
「えっ」
不意に名前を呼ばれて、ハッと我に返る。
彼は、ほんの少しだけ眉をひそめて私を見つめていた。
「遥……なにか、ありましたか?」
やわらかく、けれど真剣にそう尋ねてくる彼の声に、胸が詰まる。
「すみません、ぼーっとしてて……」
「キミがそういう顔をしている時は、なにかに悩んでる時ですね」
穏やかな声だけど、心の奥にある不安に、そっと手を差し伸べてくれたようなそんな感覚。
「一ノ瀬さんには隠せませんね」
「遥のことなら、なんでも知りたいと思いますから」
私の髪に口づけながら、小さな声でそう囁かれる。
緊張感がふっと溶けたような気がした。
「それで、何があったんですか?」
ドキッとした。
その言葉に、喉の奥がつまってしまう。
言いたい。でも、怖い。
やっぱり別れたいなんて言われたら、私……それこそ立ち直れない気がする。
「話せるようになるまで、いくらでも待ちますよ」
それでも一ノ瀬さんは、私の髪を撫でながら、ずっと待ってくれていた。
話すまで、焦らずにただ、そばにいてくれる。
そんな優しさが、胸にしみて、私は勇気を出して言ってみることにした。
「……あのね」
声を出した瞬間、喉の奥が震えているのが自分でもわかった。
「今日の朝、一ノ瀬さんと女性が話しているのを聞いちゃって……」
その時、一ノ瀬さんがはっとした顔をした。
「詳しく聞いていたわけじゃないんですけど、女性の方から婚約者って言葉だけが聞こえて……どういう関係だったのかなと」
私は彼の胸に顔をうずめたまま、目を閉じた。
「遥……」
彼の声が、低く静かに響く。
私は顔を上げられず、ただその胸元に手を添えた。
「その話はキミにはしないといけないですね」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
聞くのが怖いけど、聞かなくちゃいけない。
ぎゅっと手に力をこめると、一ノ瀬さんは安心させるように私の背中をポンポンと撫でた。
「……今日尋ねてきた彼女は婚約者です」
──ズキン。
やっぱり……そうだったんだ。
「でもそれは父親が酔って勝手に言い出した婚約者にすぎない」
「えっ」
私はゆっくり顔を上げる。
「彼女は当時海外で暮らしていましたから、海外にお付き合いされているお相手もいたそうで……お互いに父の言ったことを真に受けたりはしていなかったです」
「じゃあ……どうして、今、彼女が?」
「聞いたところによると、お付き合いしていた相手と別れることになり、日本に戻ってきたようです。それで私の元を訪ねてきたと……」
少し困ったように眉を寄せる一ノ瀬さん。
その話を聞いて私はほっとした。
「じゃあ、私は一ノ瀬さんと付き合っていていいんですか……?」
おそるおそる尋ねると一ノ瀬さんは優しい顔をして言った。
「遥以外に誰かを想うことなんて、あり得ません。それにキミが離れていっても俺は捕まえに行きますけど」
まっすぐなまなざしに包まれて、私はうなずいた。
良かった……。
彼は微笑むと、私の額にそっとキスを落とした。
「第一父にも伝えていますから安心してください。婚約者は自分で決めると」
「そうなんですか!?」
御曹司とかだと親が決めた結婚相手と結婚するケースが多いって聞くのに。
「自分の幸せは自分で決めなくちゃ。会社も背負っていけないでしょう?」
──ドキン。
カッコイイ……。
そうだ。
私は一ノ瀬さんのこういうところが好きだったなぁ……。
彼の指先が肩にふれ、背中をなぞるように滑り落ちる。
その感触に全身が痺れ、身を縮めると、すぐさまその隙間を埋めるように抱き寄せられた。
「好きですよ」
「私もです」
大丈夫。
だってこんなに満たされているのだから。
もうなにも不安になることはないんだ。
私はぎゅっと一ノ瀬社長に抱きついた。




