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14/21

期待してください



あれから、1週間がたち翔平さんの謹慎処分が明けた。

一応は出社したようだったけれど、私が彼と顔を合わせることは一度もなかった。


数日後、彼の方から自ら辞表を提出したと聞いた。


社内の誰もが、彼が何をしたのかを知っている。


当然、信頼は地に落ち、かつてのような待遇や評価は望めるはずもなかった。


もうここでは居場所がないと、自分でも悟ったのかもしれない。


そうして、翔平さんの退職が正式に決まった。

私はその報せを聞いたとき、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。


もう、彼に怯えて過ごす必要はない。


……もう、会うこともないんだ。


誰にも言えなかったあの時間が、ようやく終わったのだと思えた。


そしてその日の夜。

今週もなんとか乗り切ったと思いながら、私はパソコンの画面を閉じた。


時計の針は、もうすぐ18時を回ろうとしている。

退勤準備を整えて席を立ったところで、ふと、提出し忘れている書類があることに気づいた。


このまま土日を挟んで寝かせておくよりも、軽くフィードバックをもらえれば、週明けにはもっといい形にできるかもしれない。


そう思って立ち上がると、まだ灯りのついている社長室のドアをそっとノックした。


「失礼します。あの……少し、お時間よろしいですか?」

「どうぞ」


声が返ってくる。

中に入ると、一ノ瀬さんはノートパソコンに目を落としながらも、すぐに視線をこちらに向けてくれた。


「ちょうど良かった。あとでこちらから出向こうと思っていたんです」


なんの件だろう。

そう疑問に思いながらも、先に一ノ瀬さんに質問をされる。


「それで、どうしました?」


「ああ、あの……次の企画案、まだラフの段階なんですけど……一度目を通していただけたらと思って」


私はそっとファイルを差し出した。

一ノ瀬さんは受け取り、目を通しながらページをぱらぱらとめくっていく。


数分の静寂。

緊張で喉が乾く。


「……面白いですね、この切り口。少し尖ってるけど、ちゃんとターゲットが見えてる」


「本当ですか?」


思わず前のめりになった私に、彼はくすっと笑った。


「詰める部分もあります。細かいフィードバックは後で、という手はないですか?」


あとで……?

忙しいのかな。


「あ、もちろんです!すみませんお忙しい時に」


「そうではなくて、今日このあと時間はありますか?」


「今日ですか?」


急に話題が切り替わって、私は思わず間抜けな声を出してしまった。


「ちょうど1カ月前に月島さんからステキなものをいただきましたので、そのお礼を……」


1カ月前って……。


「……あっ!」


バレンタイン!?

そっか、今日はホワイトデーだった。


色々バタバタしてたし、そんな浮かれている時間はなくてすっかり忘れてた……!


「もちろん、予定はないんですが、お礼なんていいですよ。一ノ瀬さんにはしてもらってるばっかりで何も返せていないので」


「じゃあ僕が勝手にしたいってことで」


一ノ瀬さんはそう言って立ち上がり、軽くジャケットを羽織った。


「それじゃあ行きましょうか」


「は、はい……!」


社長と急に食事に行くことになっちゃった!


金曜日の夕暮れ。

今日は仕事をして家に帰ってダラダラテレビでも見て、いつもと同じ日を過ごすんだろうな~って思っていたから、ちょっと心が弾んでる。


一ノ瀬さんが案内してくれたのは、都内でも指折りの高層ホテルの最上階にあるレストランだった。


エレベーターのドアが静かに開くと、目の前にはガラス張りの窓いっぱいに、宝石のような夜景が広がっていた。


思わず息をのむ。

東京の街が、まるで瞬く星空のようにきらきらと輝いている。


「ステキ……」


こんな場所、予約無しでこれるの!?


「ここ、昔から贔屓にしてもらっているところで……いつでも連絡くださいってオーナーに言われてるんです」


「そ、そうなんですね……」


やっぱり一ノ瀬さんの人脈ってすごい……。


一ノ瀬さんは、席に座るとネクタイを少しだけ緩めていて、いつもよりほんの少しだけプライベートな雰囲気だった。


「コース料理にしてあります。せっかくの金曜日ですから、ゆっくり楽しんでください」

「ええ、いいんですか……!」


こんなにしてもらっていいのかな。

だって、私が渡したのはバレンタインのチョコだけなのに……。


運ばれてきた前菜は、サーモンのマリネに柑橘のソースが添えられていて、口に入れた瞬間、爽やかな香りがふわっと広がった。


続いて、ポルチーニの香るリゾット、メインは牛フィレ肉のローストに濃厚な赤ワインソース。

どれも見た目が美しくて、味も格別だった。


「今はどうですか?なにか困っていることなどはありませんか?」


「……はい、お陰様で。仕事に集中できる毎日を送っています」


それは全部、一ノ瀬さんのおかげだ。

そして仕事の企画の話をしたり、何気ない会話をして過ごした。


一ノ瀬さんとの時間はいつも楽しい。


色んな話が聞けて、私の話も引き出してくれたり、広げてくれたり、とても心地のいい時間なんだ。

そして、コースの最後。


ワゴンに乗せられたデザートが静かにやってきた。


そのデザートを堪能した後、一ノ瀬さんがジャケットの内ポケットから、小さな白い箱を取り出した。


「これ、ホワイトデーのお返しです。よかったら、受け取ってください」


白と金の細いリボンが、品よく結ばれている。


「ええ、もういただいたのに……」


「これはただの食事ですから」


十分ですって……!

しかしもらったものを無碍にするわけにもいかない。


私は一生かけて一ノ瀬さんにかえてしていかないとなあ。


「……開けても、いいですか?」

「もちろん」


リボンをそっとほどき、箱のふたを開けると、中には彩り豊かなマカロンが並んでいた。


ピスタチオ、ローズ、柚子、カシス……どれも綺麗で、香りがほんのり甘い。


「すごい……美味しそう。本当に、いただいていいんですか?」


「はい、受け取ってください」


「ありがとうございます……!」


実はマカロンって大好きなんだよね。

ボーナスが出た日に自分へのご褒美として買うことも多い。


嬉しいけど、私、ばっかりもらってばかりだ。


これ、明らかに釣り合ってないよね……?


「あの、社長……」

「ん?」


「前に言ってたと思うんですけど、バレンタインの日、本当に他の社員さんからは受け取ってないんですか?」


「ええ。もらってませんよ?」


「じゃあどうして私のチョコは受け取ってくださったんですか?」


私が迷惑かけすぎているから?

でもだとしたら、お礼をされたら釣り合わないよね?


頭いっぱいに疑問を浮かべると一ノ瀬さんはキッパリ言った。


「月島さんからのチョコレートが欲しいと思ったから受け取りました」


全くをもって意味が分からない。


「あ、あの……社長。ここまでしていただくと、普通の人は……期待しちゃうと思います」


私の言葉に、彼は不思議そうに首を傾げた。


「期待?」


「いえ、分かってるんです。その、私は社長の正体が分からない時も関わりがありましたし、よくしてくださってるだけで、特別な意味はないって……でも、一般的には、こういうのって……」


私が続けると、一ノ瀬さんは頭をかきながら言った。


「……困ったな」


彼の言葉に私は身体がびくっと固まった。


そ、そうだよね……

こんな期待してしまうだなんて言われたら、社長も迷惑に決まってる。


ヤバい、言わなきゃよかった……かも。


「期待してほしかったんですが」


「……えっ?」


ばっと顔を上げて、彼を見つめる。


「そのつもりでアプローチしていました」


「しゃ、社長……!?」


今、一ノ瀬さんは何を言ってる?

お酒を飲み過ぎて酔ってるとか?


いやいや、でも一ノ瀬さんはそんなに飲んでいなかったし……。


「そろそろ気づいてくれませんか?僕の気持ちに」


その静かな問いかけに、胸がドキンと跳ねた。


見上げた彼の目は、嘘のないまっすぐな目をしていて……。


「月島さん、好きです。僕と結婚を前提にお付き合いしてくれませんか?」


何を言われたんだろう。

まるで夢でも見てるみたいだ。


社長が私に告白なんてするわけないのに。

飲み過ぎてしまっただろうか。


でも今日はまだグラス1杯しかお酒を飲んでいないのに。


パニックになる私をよそに一ノ瀬さんはグラスを煽る。


ワイングラスが似合う人だなぁ……なんて見惚れてしまってはっと我にかえった。


今はそんなことをしている場合じゃない。


「だ、ダメです……きっと社長には釣り合う女性がたくさんいるはずです!」


「それは、僕とは付き合えないということかな?」


「えっと……そうではなくて、世間から見たら釣り合っていないということです」


必死に伝えると、一ノ瀬さんはむっと口を尖らせた。


「世間は関係ない。今はキミの気持ちが知りたい」


「そ、それは……っ」


ず、ずるいでしょ。

そんな風に踏み込んでくるの。


まっすぐに言われてしまったら、返す言葉はひとつしかない。


「私の気持ちをお伝えすると……その、分からないですし……意識したりしないようにって言い聞かせていたのでまだ気持ちはまとまってないんですけど、一ノ瀬さんとのいるとドキドキもしますし……お食事も楽しいなと思います」


だんだんと小さくなる声。

すると一ノ瀬さんはニヤリと笑って言った。


「つまり?簡潔に言うと?」


「わ、わたしも……好きかも、しれないです……」


恥ずかしすぎて顔が見れない。

手で顔を覆ってこの場所にいるのが精いっぱいだ。


おかしいな。

こんなドキドキする恋愛を今までしたことがない。


「かもは余計ですが、キミの気持ちが聞けて良かった」


一ノ瀬さんは終始堂々としていた。


もしかして、私の気持ちバレてた……?


それから食事が終わり、お会計をすることになった。


どうやらすでに一ノ瀬さんが払っていたらしい。


「あの、やはり……ここは払わせてくれませんか?何もかもしてもらってばっかりで返しきれませんっ!バレンタインのおかえしはこのマカロンで十分ですし……」


「残念、もう月島さんは僕の彼女なので支払いはできません」


「そ、それは約束と違います!私が払うという前提の食事会もありましたよね?けっきょく出させてくれなかったですし……」


「残念でしたね」


「じゃあ一旦解除!一瞬だけ彼女になるというのは解除してください!」


私が慌てて伝えると、一ノ瀬さんは耳元で囁いた。


「ダメですよ。もう一瞬たりとも放しませんから」


──ドキン。


こ、この人……なんてこと言うの……?


恥ずかしくて顔が真っ赤になった。


そしてふたりで並びながら駅までの道のりを歩く。


「あの……本当にお付き合いするんでしょうか?」


「何か不安でも?」


不安はとにかく、自分が釣り合ってないんじゃないかってところでたくさんあるんだけど……。


「私で大丈夫ですか?」


「自信がないんですか?」


そりゃああ!!

会社の社長と!しかも一ノ瀬ホールディングスの息子と付き合うのに自信満々な人はいないでしょ。


私なんて特にザ・凡人だし……。


「それなら月島さんが自信を持てるように、たくさん愛を伝えていかなくちゃいけませんね」


一ノ瀬さんは意地悪に笑った。




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