すべてを救ってくれた人
水曜日の会議室は、冷房の音すら耳につくほど静かだった。
今日は営業部とマーケティング部の主力メンバーが集まり、一ノ瀬社長による業績レビューが始まっていた。
壇上のスクリーンには、先月の大型案件……あの大手通販企業向けの提案資料が映し出されている。
それは大きな契約をもぎ取ってきた翔平さん評価を示すものだった。
彼はこの業績レビューの前に上司から昇進がほぼ確定という通告を受けたそうだ。
そしてこの業績レビューで一ノ瀬社長が彼を評価し、本格的に昇進が決まる流れになっている。
私は、モニターに映された自分が何度も徹夜で作り直したスライドの一枚一枚を見つめながら、手のひらに力が入るのを感じていた。
この資料は私が作った。
業績レビューのための資料作りもやっておけ、と言われたからやるしかなくて作ったんだ。
決して彼がやったものじゃない。
「この案件、営業は鳴海さんがご担当でしたね」
社長の落ち着いた声に、翔平さんは自信満々にうなずいた。
「ええ。かなり粘って提案したので……クライアントも納得してくれて、無事に契約まで結びつけました」
自信に満ちたその口ぶり。
自分がしたものではないのに、あたかも彼がやったかのような口ぶりだった。
そうやって、全部私の力を自分のものにしてきたんだろう。
「では……」
そう切り出すと、社長は言う。
「この施策案のキービジュアルにある数字で魅せる安心感というコンセプト。これは、誰の発案ですか?」
「え……?」
翔平先輩の笑顔が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
「そ、それはもちろん私の……」
まさか聞かれるなんて思わなかったんだろう。
本来翔平さんが営業にあたったのだから、自分が考えたに決まっているのだから。
「この家計の可視化というテーマ性は、競合他社の分析がなければ導き出せません。では、どの企業と、どのターゲット層を比較に使いましたか?」
翔平さんの視線が揺れる。
どこを見たらいいのかわからず助けを求めるように私を見ていた。
「……それは……その……」
「具体的にお願いします」
静かに、でも確実に迫ってくる社長の声。
翔平さんの口が、わずかに開いたまま止まった。
その顔から、さっきまでの余裕は完全に消えていた。
「おかしいですね。普通あなたが作ったというなら、ものすごく簡単な問いだと思いますが?」
「そ、それは……」
彼が何も言えない理由を、私は知っている。
だってそれを作ったのは、私だから。
「答えられないということはつまり、あなた自身の提案ではないと認めることになりますよ」
「……いえ、それは……確認していなくて……」
「確認していないまま提出したんですか?」
翔平さんは、顔を青白くしたままでもう何も言えなかった。
「私は結果だけではなく、その過程を見ます。真面目に積み重ねてきた人を正当に評価したいと、私は考えています。よって……キミの昇進の話しは一度白紙に戻そう」
静まり返った会議室の中で、社長の言葉がまっすぐに響いた。
「そんな……っ、待ってください。たまたまです。その資料は自分が寝不足で必死に作ったものだったので、あまり覚えていなかっただけです」
「言い訳は結構。まだ話は終わっていません」
その一言で、空気が一変した。
社長はゆっくりとタブレットを閉じ、イスからわずかに前のめりになる。
「社内の倫理監査チームに調査を依頼しました。あなたは部下からの評価も悪く、結果に繋がりにくいものを全て部下に押し付け、大きな結果が期待できるものだけ受けていたと……」
「……っ」
翔平さんの顔色がみるみるうちに、青白くなった。
「毎日定時で上がっていて、人に押し付けている人間が昇進なんて出来るでしょうか?このように精度の高い資料を作れるでしょうか?」
「しゃ、社長……」
「あなたは資料作りやデーター分析において全てを人に任せていた。そうじゃないですか?」
いつもは冷静な翔平さんが、あからさまに動揺している。
額にうっすらと汗がにじんでいて、手元の資料を握る指が震えていた。
でも、社長は一切表情を崩さなかった。
なにも答えられないことを肯定ととったのだろう。
一ノ瀬社長は話を切り上げた。
「鳴海さん。この件に関しては社内での調査結果をもとに、適切に対処させていただきます。それから……これから先の話はふたりきりで話しましょう。あなたにはまだ話さないといけないことが残っています」
厳しい口調で伝えた一ノ瀬さんは、その場で業績レビューを終了させた。
「それでは、鳴海さんは社長室に来るように」
翔平さんだけが呼び出され、さらに続きの話をするようだった。
これで翔平さんが自分の実力でのし上がったわけじゃないことは証明された。
あとは……あの写真の件。
まだ不安は残るけれど、少し気持ちが晴れた。
それから私たちは各自仕事に戻ったが、翔平さんの話題で持ち切りだった。
「ダサくない?部下から信頼ないとか、人に任せてあんな大きな顔してたとかさ」
「あんな人だと思わなかった~」
コソコソと話しながら愛理がやってくると、「あっ」という気まずい顔を見せる。
それに対して愛理はプライドを傷つけられたのか顔を真っ赤にしながら言った。
「私は、もう!とっくに翔平さんとは別れてるから!あんな男なら私にふさわしくないって気づいたの」
「そ、そうなんだ……」
みんなは気まずそうに仕事に戻った。
それから少し経って、翔平さんがカバンを持って職場を出ていったところが見つかったらしい。
今日は早退することになったのか、それとも処分がくだったのか。
よく分からないけれど、一ノ瀬さんが伝えてくれるまで私は待つ。
夜になり、一通り仕事を片付けた後、私は一ノ瀬さんに呼び出された。
人に見られないよう、メッセージで呼び出されたのできっと配慮してくれたんだと思う。
社長室を訪れると社長が切り出した。
「鳴海さんの件ですが……あの後、すべてを彼と話しました。脅しをしていたこと、あなたに仕事を押し付けていたことを問い詰めました。彼は写真は撮っておらず、あなたを脅すためだけに使っていただけなようです。全てこちらでチェックさせていただきました」
その言葉を聞いて、張り詰めていたものがふっと軽くなったような気がした。
「よか、った……」
翔平さんは私の裸の写真を持っていなかったんだ……。
脅す材料として使えそうだと思い、言っただけだった。
私は、息をついた。
小さな震えが、指先から抜けていくのを感じた。
もう翔平さんの言うことを聞くことはないんだ。
「騙されて、いたんですね……」
すると一ノ瀬さんは優しく頷いた。
「すべてを踏まえて鳴海さんには出社停止処分が下されました。その後の判断はまた追って報告することになると思います。必要があれば法的手続きにも移行することができると思いますが、月島さんの気持ちはどうですか?」
「そこまで大事にするつもりはありません」
「そうですか……ではこちらでしっかりと対処いたします」
「ありがとうございます……本当になにからなにまで……」
一ノ瀬さんはみんながいる前では、私のことを言わなかった。
知られたくない話は、すべてふたりの時にしてくれたんだろう。
こんなに配慮しながら救ってくれるなんてどれだけ優しい人なんだろう。
「お礼を必ずさせてください」
私が告げると、一ノ瀬さんは社長の顔で言った。
「会社という場所は、力ではなく信頼で回っています。それを踏みにじる人間に、立つ資格はありません。また困ったことがあれば会社が全力で助けに入りますので、遠慮することなく、我々を頼ってください」
社長らしい愛のある言葉だった。
「というのとは別に……」
すると、突然そんな前置きをする一ノ瀬さん。
どうしたんだろう、と彼に視線を向けると彼は言った。
「めちゃくちゃ心配でした」
「えっ」
不意に向けられたその言葉に、私は目を見開いた。
一ノ瀬さんは、さっきの社長としての顔とは違う穏やかで、まっすぐな目をしていた。
「あなたの元気がなくなるのは不安でたまらない」
「一ノ瀬さ……っ」
「キミのことになると僕も余裕がなくなる」
困ったように眉を下げて言う社長にドキドキが加速する。
ダメだよ、私……。
期待しちゃダメ。
だってこれは社長としてやっていることなんだから。
社員がつぶれないために一ノ瀬さんは行動してくれただけ。
期待したら……ダメ。