脅し
今日は月に一度の会社の全体総会の日。
広めの会議室に全社員が集まり、前方のステージに立つ一ノ瀬社長を見つめていた。
スクリーンに映し出されるのは、今期の進捗と次期の戦略。穏やかな口調で、しかし明確に数字と展望を語る姿にみんな釘付けだった。
「今回の施策による収益構造の変化は、ここに見えているとおりです。短期的な負荷はあるかもしれませんが、これを乗り越えれば、我が社はより強固な体質になります」
一ノ瀬さんが語っている姿を見つめる。
ひょんなことから、部下だと思っていた人が社長になって、今は色んなことから守ってくれているように感じる。
でもそれは一社員として大事にしているということを勘違いしてはいけない。
「──以上が、今月の経営報告になります。次に、質疑応答へ移ります」
一ノ瀬さんが一礼し、マイクを置いた瞬間。会場に拍手が起こった。
私にとっても一ノ瀬さんはただのこの会社の社長ってだけだ。
集会が終わり、私がオフィスに戻ると後輩の子に声をかけられた。
「月島さん、月島さんと話したいって言ってる人がいます。給湯室で待ってるって……」
誰……?
そう不思議に思いながらも給湯室に向かってみると、そこにいたのは翔平さんだった。
彼の顔を見た瞬間、私はオフィスに戻ろうとする。
どうしてまた呼びつけたりするの……。
「おい、遥。話があるからこっちこいよ」
「私はありません。今は忙しいので失礼します」
私が背中を向けてると、翔平さんは苛立ったように私の手を掴んだ。
「待てよ!お前に頼みがあるから」
私が翔平さんを睨みつける。
すると彼は、淡々と告げた。
「またさ、営業先のデーター作ってくれね?」
「なっ、なんで私が……」
「最近全然俺の手伝いしてくれなくなったじゃん。お前のあのデーターけっこう役に立ってたんだよ」
ありえない……。
この場においてまだそんなこと言うなんて……。
「やりません。ご自身で作ってください」
「今まではやってくれてただろ?」
「それは付き合ってたからしてただけです。もう翔平さんとは関わりたくないです。話しかけないでください」
翔平さんが昨日私に謝って寄りを戻したいと告げたのは、このデーター作成をして欲しいからだろう。
こうやって都合よく利用するために声をかけてきたことが見え見えで不快感しかなかった。
手を振り払い、オフィスに戻ろうとした時。
翔平さんは低い声で言った。
「今まで散々よくしてやっただろ?お前……恩ってものがねぇのかよ」
翔平さんの言葉に私は言葉も出なかった。
よくしてくれたことなんか一度もなかった。
よくしたように見せてもずっと私を裏切って浮気をしていたクセに。
「もう、翔平さんとは関わりたくありません。ふたりの邪魔をするつもりはありませんからどうか……放っておいてください!」
「……っチ、なんで俺の言うことが聞けねぇんだよ!」
翔平さんはカチンと来たのか私の手首を荒々しく掴んだ。
「優しく言ってあげようと思ったけど……もういいわ」
すると翔平さんは私の耳元に口を寄せ、小さな声で言う。
「付き合ってる時に何もしてないと思ってんのか?」
「何もって……」
何を言ってるの……?
最初は意味が分からなかった。
しかし、ニヤリと笑いながら言う翔平さんの顔を見てゾっとした。
「お前の裸の写真、持ってるから」
「……っ!」
「な、なんで……」
「社内にまわされたくないだろう?だったら俺の言うこと聞けよ」
──ドクン、ドクン、ドクン。
どうして翔平さんがそんな写真を持っているの……。
「どう、して……」
「付き合ってたんだ。当然だろ?」
翔平さんは勝ち誇ったように笑った。
手が小さく震え出す。
「や、やめて……」
声が上手く出なかった。
「やめてほしいなら、俺の言うこと聞くんだな」
呼吸が乱れて、うまく息が吸えない。
「……き、聞く。聞くから……それだけはやめて」
「ふんっ。それでいい。せっかく優しくしてやろうと思ったのに、お前が言うこと聞かないからこうなるんだよ。相変わらずバカな女だ」
私の反応を見た翔平さんはニヤリと笑うと、「じゃ、よろしくな」と声をかけてそのまま去っていった。
どうしよう……。
翔平さんが私の裸の写真を持っているなんて……。
彼に逆らったら、私の写真が社内にまわされてしまうかもしれない。
バクバクと心臓が嫌な音を立てる。
「はぁ……っ、は」
呼吸が乱れる。
どうしよう、どうしよう。
パニックに陥ったその時。
「月島さん……!」
一ノ瀬社長が慌てた様子でこちらに駆け付けてきた。
「どうしたんですか?」
すぐに私を座れる場所まで連れていき、落ち着かせてくれる。
「大丈夫、ゆっくり息を吸って、それから吐いて」
社長の落ち着いた言葉に合わせるように呼吸をすると、だんだんと乱れていた呼吸は落ち着きだした。
「よければ水を……」
そしてペットボトルの水を買って来てくれてキャップをあけて渡してくれた。
「あり、がとう……ございます」
水を飲んで落ち着かせる。
動揺しちゃダメだ……。
「どうしましたか?」
「あ、いえ……」
社長に知られたくない。
あんな写真を撮られていること……。
私は無理やり笑顔を作った。
「ちょっと疲れてたのかな?急に体調が悪くなっちゃって」
「それなら今日は早退した方がいい。もし仕事に負担があるようなら言ってください、調整しましょう」
「いえ……!負担なんてそんな……役職をもらえてすごくやりがいを感じています。今日は本当にたまたま貧血気味だったのかもしれないです!」
早口でそう伝えると、一ノ瀬社長はそっと私の手に自らの手を重ねて告げた。
「もしなにか悩んでいることがあるなら、なんでも言って欲しいです。キミに倒れられるのは困ります」
「社長……」
そうだよね。
役職をせっかく任せてくれたのだから、みんなをみる義務がある。倒れている場合じゃない。
「ありがとうございます」
そう答えると、社長は少し残念そうな顔をしながらも言った。
「無理をしないように、今日は休みなさい」
「はい……」
この日、私は社長に言われた通り、会社を早退することになった。
しかし……。
【さっき言った件、ちゃんとやっておけよ?じゃないと分かってるよな?】
翔平さんからは、逃げられない。
それから私は家に帰ると、パソコンを立ち上げて彼が来週訪問予定の取引先のリストを開いた。
マーケット動向、競合分析、案件の過去資料などを黙々と作りはじめる。
やらないと。
見られたら終わりだ。
バラまかれたら、私はこの会社にいられなくなる。
いや、社会だけじゃない……居場所がなくなる。
『もしなにか悩んでいることがあるなら、なんでも言って欲しいです。キミに倒れられるのは困ります』
こんなことで……助けてなんて、言えないよ。
翌日。
「月島さん、大丈夫だった?」
「はい……」
「あんまり無理しないようにね」
同じ部署の同期の子に声をかけられ、私は笑顔を作った。
体調は大丈夫だ。
だけど、心は平穏ではいられなかった。
資料の最終チェックを終え、印刷を終えた一式をクリアファイルにまとめる。
頭の中はずっとぼーっとしてしまっている。
すると。
【今から給湯室に来い。ちゃんとやってきたか確認してデーター受け取るから】
翔平さんからメッセージが届いた。
行かなくちゃ……。
私は気づかれないように深呼吸して、給湯室に向かった。
「ちゃんと頼んだやつやってきたかよ」
「はい……ここに全部入ってます」
「サンキュー!」
翔平さんはファイルを受け取り、パラパラと中身を流し見ると、あっさりとした調子で言った。
「よし!これで俺も昇進確実だな」
その一言に、胸の奥がぎゅっとねじれた。
こんなことしても何もいいことはない。
最初からこんなことすべきではなかったのに……。
「そんな不安そうな顔すんなよ!お前がちゃんと俺の言う通り動くなら、俺はあの写真ばら撒いたりしないからよ」
翔平さんは私の肩をポンポンと叩きながら言った。
何も歯向かうことは出来なかった。
「じゃっ、来週1週間分もよろしく」
翔平さんはそれだけ言うと、足早に会議室へと向かっていった。
その背中を見送りながら、私はそっと拳を握りしめる。
目の奥がじんと熱い。
怖い……。
いつかバレされるんじゃないかという不安に押し付けられているような感覚だった。
それから次の日も、また次の日も眠れない日は続いた。
眠れないまま会社に来て、仕事をする。
パソコンのモニターがぼやけて見えるのは、寝不足のせいか。
誰にも悟られないように化粧を整えてきたはずなのに、鏡に映る自分の顔がひどく疲れて見えた。
……やらないと。
そう言い聞かせて、マウスに手を伸ばす。
だけど、着々と自分の心を蝕んでいっているのを実感した。
そして翔平さんから再びメッセージが入る。
なに!?
もう1週間分の資料は作ったはずだ。
【今日俺の家来て、飯作れよ。それもやらないなら写真ばら撒くから】
ご飯……?
要求が加速してる……。
愛理はどうしているの?
ふたりは付き合っているんじゃないの?
断りたい。
でも断れば、またあの写真の話を持ち出されることは分かっていた。
いか、ないと……。
仕事を終えると、私は翔平さんの家に向かった。
翔平さんの部屋のインターホンを押すと、すぐにドアが開く。
テレビの音が流れる中、彼はジャージ姿でソファに座りながら、こっちも見ずに言った。
「材料はそこにあるから、ちゃちゃっと作って」
私は無言でキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けて食材を確認する。
手際よく炒め物を作りながらも、ずっと心が沈んでいた。
なにをしてるんだろう。
こんなこと……どう考えてもおかしいのに。
作り終わり、テーブルに並べると翔平さんは言う。
「……ま、せっかく作ったんだしお前も食べておけば?まだあまってるだろう?」
翔平さんはのんきに隣の床をポンポンと叩きながら言う。
ありえない。
私は一刻も早く帰りたいのに。
私はぶんぶんと首を振った。
「食わねぇならいいけど。仕事の話するから食い終わるまで待っててくんね?」
私は黙ってキッチンに立っていた。
すると翔平さんはガツガツと食事を口に運びながら言う。
「懐かしいよなぁ……こうやって、遥が飯作ってくれてさ、俺が美味しいって言って食べて。なんだかんだ楽しかったよなぁ」
私は耳を疑った。この人はなにを言っているんだろう。
どうしてそんなことが言えるんだろう。
「私は……楽しくなんかなかったです。美味しいなんて言ってくれたことなかった」
いつも自分は家政婦なのか、都合のいい存在なんじゃないかと不安になることがたくさんあった。
「これからはさぁ……言うよ。だからさ遥……俺の元に戻って来いよ」
気持ち悪い。
「ありえないです」
私が絶句していると、彼はチッっと舌打ちをした。
「愛理は……来てないの?こんなことしたら今度は愛理が悲しむ」
「しらねー最近連絡も取ってねぇし」
そう、だったの……。
この間は本命のためにバレンタインを作って来たって言ってたのに……。
翔平さんが食事を終えて立ち上がる。
仕事の話をしてからすぐに帰ろうとした時、翔平さんが私の腕を掴んだ。
「な、なんですか」
「なぁ……せっかく家まで来たんだし、いいだろう?もうちょっと付き合えよ。俺、最近溜まっててさ」
溜まってるって、なに。
ぞっと嫌悪感がせりあがってくる。
「……離してください!」
私は翔平さんをドンっと突き放した。
「なんだよ、前は普通に抱かれてたくせに。ちょっとくらいいいだろ」
気持ち悪い……。
この人本気で私を……。
「いやっ!」
私は力いっぱい手を振り払いカバンを取ると、急いで翔平さんの家に出た。
「はぁ……はぁ、はぁ……」
胸がぎゅっと潰れるように痛んだ。
手が震えた。唇も。
悔しさと、情けなさと、怒りと、恐怖。
全部がごちゃまぜになって、言葉が出なかった。
「う、う……」
どうしたらいいの?
どうしたら解放されるの?
もう……限界だ。
私はその場にしゃがみこんだ。
うつむいたまま、涙が頬をつたうのを止められなかった。
電車の走る音すら遠く感じて、世界がぼんやりとかすんでいた。
そのときだった。
「月島さん」
耳に届いたその声に、私はびくっと肩を揺らした。
どこかで聞いたことがある声。
顔を上げると、目の前に一ノ瀬さんが立っていた。
「どう、して……」
かすれた声で呼ぶと、彼はゆっくりと私に近づき、しゃがんで目線を合わせてくれた。
「ここで接待があったんです。いつかの日もキミはこうして泣いていましたね」
一ノ瀬さんに言われて気づく。
あの時も絶望を感じて泣いていたと……。
「こんなところで、どうしたんですか」
「……わかんないんです。どうしたらいいのか、わからなくなって……」
話がまとまらず、私は唇をかみしめた。
「少し場所を移動しましょうか」
一ノ瀬さんはそういうと、私を近くの公園に連れていってくれた。
もう日が沈んでいるためか、人は誰もいない。
「なにがあったか話せますか?」
そう問いかけられても私は首を振ることしか出来なかった。
「そうか……」
さみしそうな声の一ノ瀬さん。
こんなに迷惑をかけてしまって、それなのに何も話せないのが申し訳ない。
すると一ノ瀬さんはゆっくりと話し出した。
「最近……無理をしているんじゃなかって思っていました」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「ここ数日、目の下にクマが出ていて、口数も減っている。細かい数字の打ち間違いもありました。責任感の強いあなたがそういうミスをするのは、珍しい」
ぐっと喉が詰まる。
見ていてくれているんだな、と実感する反面、私が隠せてると思っていたものは、何ひとつ隠せていなかったんだと気づく。
「ミスは気を付けます……仕事には支障がないように勤めますから」
「そうじゃない」
一ノ瀬さんは私の言葉を遮る。
「キミのしたミスを責めたいんじゃない。何があったのか知りたい……私があなたの支えになりたいんです」
力強くてまっすぐな言葉だった。
一ノ瀬さんの気持ちはすごく嬉しいし、気を張っていないと助けてと縋ってしまうような気がした。
「キミはいつもそうだ。頼って欲しいと告げても頼ろうとしない」
一ノ瀬さんは、穏やかな声で言った。
「こっちも大丈夫ですと言われるのは、信頼されていないみたいでさみしいんですけどね」
ボソっとつぶやく一ノ瀬さん。
私はばっと顔をあげる。
今にも涙が零れそうになる。
「月島さん、俺が絶対 あなたを守りますから……頼ってくれませんか?」
ばっと顔をあげると、一ノ瀬さんが私を心配そうな顔で見ていた。
この人は、いつもそうだ。
私が悲しんでいる時に必ず助けに来てくれて包み込むような言葉をかけてくれる。
そんな一ノ瀬さんに、私は何回も何回も助けられてるんだ。
頼るなんて……。
「月島さん、見下されてた僕を助けてくれたのもあなたでしょう?差し出された手はとってくれないとあの時のお礼が返せませんよ」
「いちのせ、さ……」
また迷惑をかけてもいいの……?
この手をとってもいいの……?
不安になりながらも、私はもう我慢が出来なかった。
「実は……」
ぽつり、ぽつりと話し出し言い終わったあと、私はしばらく顔を上げられなかった。
こんなことを知られてしまったら、軽蔑されるかもしれない。
自業自得だと、思われるかもしれない。
でも、一ノ瀬さんは……黙ったまま、私の手を離さなかった。
「……ありがとうございます。話してくれて」
優しく言い放った後、彼は決意のある瞳で言った。
「全部、僕が解決させます。あなたがもう、何にも怯えなくて済むように」