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バレンタイン



『僕じゃダメですか?』


『私があなたの力になりたい』


一ノ瀬さんにそう告げられた後、反応に困っていると……。


──ブーブーブ。


そのタイミングで一ノ瀬さんのスマホが鳴った。

どうやら仕事の連絡のようで一ノ瀬さんは私に断りを入れると電話に出た。


「すみません……このあともう1件行くことになりまして……」


そして電話を終えると一ノ瀬さんはそう告げた。


「はい……」


仕事に向かう一ノ瀬さんを見送り、あの日は分かれることになった。


あれ以来、タイミングが無くて一ノ瀬さんとは話していない。


彼の言った言葉の意味が気になってはいるけれど……。


そうやって浮かれていられないのが今の状況だ。


仕事もこれからやってくるイベントの準備が多くなってきて、かなり立て込んでいる。


みんなの進捗も確認しておかなくちゃ。


「佐々木さん、次のイベントの進捗を確認したくて」


「はぁい!なんでしょうか」


でも今日の社内は、明らかに浮ついていた。


出勤してきた女性社員の大半が、いつもより気合の入ったメイクとヘアセットをしていて、まるで何かのイベントでもあるかのような雰囲気をまとっている。


いや、あるんだ。そのイベントが。


2月14日。

今日はバレンタインだ。


「こちらです」

「ありがとう!」


ふう、と小さくため息をつきながら、私はデスクの引き出しをそっと引いた。


中には、ラッピングされた小さな包みがいくつか。ぴったり、部署の男性社員の人数分だ。きっちりと均等に、一人ひとりに義理チョコを渡す。


「うちの会社、ほんと昭和だよね~」


社内ではそんな声が広がっていた。


正直、私もそう思っている。

でも、毎年恒例のチョコ文化という名の風習に、抗う勇気もなくて仕方なく用意する他ない。


にしても、今年はなんでみんな気合い入ってるんだろう。


「おはよ~ございまぁす」


軽い足音とともに現れたのは、愛理だった。


明るいピンクのニットに、淡いメイク。

指先までネイルがチョコレートカラーでまとめられていて、たくさんの紙袋を手に会社に入ってきた。


「三谷さん、おはよう。チョコの準備してきたの?あれ、去年は持ってきてなかったよね?」


「今回は渡したい人がいるんでぇ、みんなの分もついでに作ってきました」


渡したい人って、翔平さんか。

ふたりの交際はうまく行ってるみたいだ。


愛理はあの同窓会の後からなにかしてくるようなことはなかった。


彼女の気が済んだならいいのだけど、そうじゃない気もしていてまだまだ彼女と一緒にいる時は気が抜けない。


「じゃ〜ん、これ手作りしたの♡」


そう言って、愛理は紙袋から、リボンで丁寧に結ばれた箱をひとつ取り出した。


さすが気合いが入ってるな……。


すると、愛理と目が合う。


しかし……。


「ふんっ!」


私は思いっきり顔を背けられてしまった。


相変わらずだな……。


私も部署の人にチョコレートを配ることにした。


「ありがとう、月島さん」

「いえ……」


用意してきた義理チョコは全部無くなった。


でもその他にもう一つ、義理チョコよりもしっかりとした箱に入っているチョコレートが私のデスクの中にあった。


気合い入ってるな……なんて、人のこと言えないかも。


一ノ瀬さんに特別に用意したチョコレート。


これは、社長に義理チョコを渡すのは申し訳ないって気持ちと、いつも助けてくれるからそのお礼の気持ちもこめて用意したもの?


どこかで渡せるといいんだけど……。


それからあっという間に午後の時間になった。

まだ一ノ瀬さんのチョコレートはデスクの中に残ったままだ。


「……タイミング、難しいな」


ぽつりとつぶやく。

会議と来客のスケジュールがぎっしり詰まっているのは分かっていた。


秘書が出入りし、部屋の前では常に誰かが待っている。


私が声をかける余地なんて、どこにもなかった。


ちらりと社長室の前を通り過ぎたとき、ガラス越しにスーツ姿の後ろ姿が見えた。


電話で何か話してる……?


一度ドアに手を伸ばしたが、そのまま力なく引っ込めた。


やめよう。

渡せるタイミングがなかっただけ。


別に、深い意味はないし、渡さなくても、困るものでもない。


ふう、と小さく息を吐いて、そっと引き出しをしめた。

あとで自分で食べよう……。


そして翌日。

出社すると、昨日とは打って変わって、社内にはどこか妙な静けさが漂っていた。


私はいつも通り自分の席に着き、PCを立ち上げ、メールチェックを始める。


すると、近くにいた女性社員の声が聞こえてきた。


「ねえ、聞いた? やっぱり社長、誰のチョコも受け取らなかったって」


隣の島の席で、声を潜めた会話が聞こえた。


「えっ、ほんとに? あんなにいろんな人が用意してたのに?」


「うん、みんな断られたって。“お気持ちだけで十分です”って、全員に同じこと言ったらしいよ」


「え~」


「しかも三谷さんも社長に渡しに行ったって」


愛理も!?


「鳴海さんと付き合ってるって公表したばっかりなのにね」


「出世狙ってるんじゃない?」


そっか、そういうパターンもあるのか。


まさか本命じゃないよね?


少しだけ不安な気持ちになる。


会話が遠ざかっていくのを聞きながら、私はそっと自分の引き出しを開けた。


中には、渡しそびれた小さな包みが、ひとつだけ残っている。


けっきょく、持ち帰りそびれてしまった。


でもあげなくて良かったのかもしれない。


だって……。


『ねえ、聞いた? やっぱり社長、誰のチョコも受け取らなかったって』


断られたらショックを受けそうだから……。


ふ、深い意味はないけど!


なんかショックを受ける気がするんだ。


そんなことを考えながら、PCの画面へと視線を戻した。


さぁ、仕事仕事っと。


そう気合を入れた時。


「月島さん」


不意に声をかけられた。

振り返って心臓が跳ねた。


「社長……」


社長がフロアに直接降りてくるのは珍しい。


それも、こんな朝イチで、私のところに。


「おはようございます」


「おはようございます。少し、いいですか?企画のことで」


「はい……」


私は彼の後を追って応接スペースへと向かった。


扉が閉まると、持っていた資料を一ノ瀬さんは机に広げる。


「ここなんですけど、アポが取れたので行ってもらってもいいですか?」


「もちろんです」


「聞き出して欲しいポイントをまとめていますので、事前に確認を……それと先方の社長が好きなものを買ってきたので、それを渡してください」


「はい、分かりました」


簡単な業務の話を交わすと、社長は黙ってしまった。


あれ、それだけ……?

だったらわざわざ呼び出さなくてもいいような……。


そんなことを思っていると、社長はふいに立ち上がった。


「昨日は……世間的にはバレンタインだと」


「え、ええ。そうですが……」


「マーケでは月島さんからチョコをもらった社員もいたそうで」


「はい、毎年習慣っていうんですかね?人数分用意していますよ」


そこまで言うと、社長はなんだか言いにくそうな顔をする。


なんか、今日の社長……変?


「私は……もらえませんでしたけど……」

「えっ」


私は驚いて社長を見つめる。


社長はどこか困ったような顔をしていた。


「いえ、そういうつもりじゃ……その、渡すタイミングが、なかっただけで」


「では渡すつもりは、あったんですね?」


「そ、それは……はい」


私が答えると、社長は残念そうに言った。


「月島さんの部下だったら、もらえていたのに残念ですね」


そんな子犬が眉を下げるみたいな顔しないでもらえる!?っていうか、社長は女性社員のチョコを断っていたんだよね。


だったら私が持って行っても受け取ってくれないんじゃ……。


「あ、あの……社長は女性社員からのチョコレート、断っているんじゃないんですか?」


「そりゃ僕にだって、もらいたい人はいますよ。人間ですからね?」


一ノ瀬さんはふっと目を細めて笑った。


──ドキン、ドキン、ドキン。


この人は悪魔だ。ドキドキを呼ぶ悪魔。

これ以上踏み込んだら、キケンだ。


そう心が警笛を鳴らす。


でも私も止められなかった。


「あの」


自分でも驚くくらい、とっさに声がでた。


「昨日渡せなかったチョコレート……今日、渡してもいいですか?」


彼は、ほんの一瞬だけ驚いたような顔をして、それから柔らかく微笑んだ。


「もちろんです。楽しみにしています」


ああ、やってしまった。

チョコはなかったことにも出来たのに、こんなに特別に渡すことになったら一ノ瀬さんが特別な人だと自覚してしまうんじゃないか。


彼の前だとドキドキと鳴り出す心臓を止めることが出来ない。


私、一ノ瀬さんのこと……。


その日の終業後。

社内の照明もひとつ、またひとつと落ちていく頃、私は仕事を終わらせて社長室に向かった。


まだいるかな?

帰っちゃったりしてないかな?


不安に思いながらもノックをすると、中から社長の声が聞こえた。


「どうぞ」


良かった……まだいてくれた。

そっと扉を開けると、一ノ瀬社長はメガネをして書類に目を通していた。


ネクタイは少し緩められ、袖をまくった腕にうっすらと浮かぶ血管が、なんだかカッコイイ。


「お仕事中、すみません」

「いえ……ちょうど今片付いたところです」


私は用意していたチョコレートを紙袋に入れ、それを社長に渡した。


「これ……さっき言っていたチョコレートです。良かったら受け取ってください」


改めてそう告げると、彼は穏やかに笑った。


「ありがとうございます。今、開けても?」


今!?


「は、はい!」


とっさに答えると、一ノ瀬さんは包みに手を伸ばし、リボンを指先でなぞるようにしながら、たずねた。


「……こんなに豪華なものを、みなさんに渡してるんですか?」


その問いに、私は一気に顔が熱くなるのを感じた。


そ、そっか。

社長は義理チョコをくれると思ってたのか。


「い、いえっ、それは……その、義理じゃなくて……あの……社長にはいつもお世話になっていますし、お礼チョコといいますか……」


しどろもどろになってしまい、どうにか説明しようと口を動かすものの、自分でも何を言っているのか分からなくなる。


そんな私の様子を見て、彼はふっと口元を緩めた。


「じゃあ、特別だ?」


敬語がなくなり、私の方を見る社長。

その仕草にまた胸がドキンと音を立てる。


でもウソはつけなかった。


「はい」


ちゃんと返事をすると、彼は小さくつぶやく。


「……やった」


この甘酸っぱい感覚に耐えられなくて、恥ずかしくなってしまった。


自分が特別なんじゃないかって期待してしまいそうになる。


違うのに。

期待したらダメなのに。


「月島さん……この間のことですが……」


一ノ瀬さんがそう切り出し、強く心臓が音を立てた。


『僕じゃダメですか?』


あの日の答えを私は告げていない。


一ノ瀬さんがどういう意味でそれを私に告げたのかも分からない。


声を出そうとした時、彼は言った。


「いや……今じゃないですね。月島さん、また改めてゆっくり話せる時間をください。チョコありがとうございます。大切にいただきますね」


一ノ瀬さんはぺこっと頭を下げて優しく笑った。


それから私は社長室を出た。


まだ心臓はドキドキしてる。


『また改めてゆっくり話せる時間をください』


またどこかで一ノ瀬さんと話せるのかな。

言葉の意味を聞いてもしそれが特別な意味を持つものだった時、私はなんて答えるだろう──。



すっかり社員がいなくなったオフィスでカバンを持って外に出た。


チョコ渡せて良かったな。

そんなことを考えながら歩いていた時、誰かに肩を叩かれた。


驚いて振り返ってみてみると、そこにいたのは翔平さんだった。


「よお」

「翔平さん……?」


「ちょっと話したいことがあってよ」


彼の言葉に私は眉をひそめる。


「そんな不安な顔すんなって。今日は真面目な話」


もう帰りたいんだけどな……。

そう思いながらも彼は私を人気のない道路沿いに連れていった。


「話ってなんですか?私はもう話すことはありません」


「まぁ……そんな釣れないこと言うなって」


翔平さんはどういうつもりか私の肩を組んでなだめた。


「やめてください!」


触れられて嫌悪感が沸き上がる。


私は翔平さんを突き放した。


「落ち着けって……そんなに怒ることないだろ?今日はさ、お前に話したいことがあって待ってたんだよ」

「なんですか」


「愛理とは別れようと思ってる」


えっ。

翔平さんと愛理は上手くいっていたんじゃないの?


「愛理と付き合ってみて、改めて気づいたんだよ。俺を支えてくれていたのは、誰だったか」


そして翔平さんは真剣な顔をすると、私を見つめた。


「遥……お前しかいない。俺のことを思って支えてくれる人は」


翔平さんの言葉を聞いてゾっとした。


どうしてそんなことが言えるんだろう。


平気で人を裏切って、バカにしておいて、やっぱり私だったなんて通用するわけないのに。


「俺、寄り道しちゃったけど、気づけたんだ。今度こそお前を大事にする……絶対に遥を幸せにするから戻ってきてほしい」


冷めた目で翔平さんを見つめる。

真剣な言葉も私にはちっとも響かなかった。


「ありえないです……そんな言葉言われてもちっとも嬉しくない。翔平さんの元に戻るなんて絶対にしません」


だって私も幸せになりたいから。

自分が幸せだと思える恋がしたい。


この人の側にそれはない。

そうやってハッキリ言えるのは、私が翔平さんを好きじゃなくなれた証だろう。


色んな支えがあって、気づくことが出来た。


辛い恋だったけれど、それでよかったと思う。


「何言ってんだよ、遥。もっと冷静に考えて欲しい。今度は浮気なんかしない、大事にするって俺が言ってるんだぞ?」


「大事にしたい人がいるなら、それは別の人にしてください。私はもう翔平さんとは一緒にいたくないです」


「なっ……」


翔平さんは驚いたように口を開けた。


それは、私が戻ってきてくれると信じているような表情だった。


「もう話はいいですか?帰ります」


「待ってくれよ遥……分かった!謝ればいいんだな。あの時のことを謝罪するよ。あの時は傷つけてすまなかった」


翔平さんは深く私に向かって頭を下げた。


もうそんな言葉いらない。

謝罪なんてされても、気持ちが戻るわけじゃないから。


私は彼に背中を向けた。


「おい、遥……!待って、待ってくれよ!」


後ろで翔平さんの叫ぶ声が聞こえながらも、私は無視をして立ち去ることにした。


まさか翔平さんが謝ってくるなんて思いもしなかった。

でも全然気持ちは動くことはなく冷静だった。


色々あったけど……乗り越えられたってことだよね。


彼の本性に気づけて良かった。

彼と離れられて良かった。


そして……そうやって一歩進んでいく。


一歩進むことが出来たのは、きっと……あの人のお陰だ。



「クッソ……ふさげやがって……っ、俺が戻って来いって言ってやってんのに……許さねぇ。覚えてろよ」


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