1区 村上憲一
晩秋の大磯海岸。
20年くらい前から、毎年この時期に行われるようになった「湘南横断マラソン」のスタート地点である。
湘南横断マラソンは、湘南の海沿い道路をひたすら走り、江の島で折り返して大磯に戻るという、まさに「湘南横断」の名に相応しいコースと言える。
スタート時間が迫る中、村上憲一はスタート地点でその時を待っていた。
村上憲一は、SS食品の陸上部に所属している27歳。年齢的には中堅選手の部類に入るだろう。
大学時代の活躍を見込まれ、卒業後に入社した。しかし選手層の厚さや入社直後の故障などで、実業団駅伝ではレギュラーになれず、マラソンでも期待されたほどの成績を出す事も無く、現在に至る。
今日の大会は、さほどグレードが高いものではない。それにもかかわらず、村上の表情や仕草からは緊張感や気合いが伝わってきた。
今回、村上が出場する事になったキッカケは、大会の主催側からいわゆる「招待選手」として、出場を打診されたからである。
しかしそれは、あくまでキッカケに過ぎない。ただ打診されたからといって、出場を断る理由はいくらかある。
例年、晩秋の時期から、マラソン及び駅伝のシーズンが始まる。世界大会の選考会に該当するマラソン大会に出場する選手もいれば、元旦に行われる全国実業団駅伝などに出場する選手もいる。
特に実業団の陸上部や駅伝部に所属している選手にとっては、雇ってくれている会社の為にも、大きい舞台で活躍したいのである。
そういう事情が背景にあり、世界大会の選考会でもなく、伝統のあるグレードの高い大会でもない、今の時期に行われる市民マラソンの大会に出場する事はほぼ無い。しかし、村上が出場に至った理由がいくつかあった。
一つ目は村上にとって、生まれてから大学卒業まで藤沢市で過ごした、いわゆる地元である事。しかしそれだけでは出場した理由としては正直弱い。
二つ目は、引退を賭けたレースとして地元の大会に賭けてみようと密かに思っていた事。優勝するのは当然として、周囲に「まだやれるじゃないか」と思わせるくらいの走りをしたい。地元でもいい所を見せられないようでは選手としてもう限界だろう、と考えていた。逆に言えば、これまで競技の結果が出ていない自分が「競技を諦める為の理由」を作ろうとしていたのかもしれない。
早朝に行われた開会式で、招待選手として挨拶を頼まれた村上は、
「今日は空気を読まずに全力で、というか空気というよりも、『湘南の風』のように気持ちよく走りたいと思います!」
と、笑顔で力強く話した。
ここで村上の口から出てきた「湘南の風」というキーワードについて触れよう。
村上は神奈川県内で強豪の江ノ島湘陵高校の陸上部出身。しかし練習の厳しさもあったのか、高校2年生までは故障などで不調が続く。
高校3年生でようやく駅伝チームのレギュラーになれた。ギリギリでも一応レギュラーになれたという事で、箱根駅伝出場校からのスカウトが来てくれたらと期待したが、願いは叶わず。
ならば、と強豪の駒形大学と東横大学を一般入試で受験するも、不合格。
唯一合格できたのが、江ノ島商科大学。通称は「江ノ商」。
大学の陸上部は、部活動というよりはサークルに近い、自由度が高い雰囲気。高校時代を強豪校で過ごしてきた村上は少し拍子抜けした。
しかし、その自由さが村上にとってはプラスに作用した。自分で考えて練習メニューを組み、体調が悪い時は無理をしない。そのおかげで故障をする事も無く、自己ベストを少しずつ更新する事が出来た。
そして大学3年生の秋の箱根駅伝予選会。この年も大学としての箱根駅伝出場は叶わなかったが、村上はチーム内1位のタイム。
箱根駅伝の予選会に出場できなかった大学の中で、好タイムを出した選手が1校につき1人選抜される「関東学生連合チーム」が、箱根駅伝の出場枠として設けられている。村上は予選会での好走が認められ、関東学生連合チームの一員に選ばれた。
その後の記録会の成績や最終調整が順調だったおかげもあり、本選出場メンバーとして走る事になった。
村上が走ったのは3区。実は今回の湘南横断マラソンのコースの一部でもある。そこで8人抜きを果たし、区間賞相当のタイムを叩き出したのだ。ちなみに関東学生連合チームの記録は全て参考記録となってしまう。
その時の実況アナウンサーが、村上の走りを見て思わず絶叫。
「村上の背後だけ、まるで追い風が吹いているかのようです!まさに『湘南の風』!」
意味不明な表現が少しあるような気もするが、アナウンサーもそれだけ気持ちが高ぶっていたのだろう。
そしてその瞬間、村上は「地元の中でそこそこ速いランナー」から「全国に衝撃を与えた湘南の風」と変貌を遂げたのである。
村上も湘南の風というフレーズを気に入っていたのだが、実業団入りしてから思うような結果を残せない日々が続いていくうちに、だんだん重荷に感じるようになってきた。
村上の挨拶は、その重荷を吹き飛ばしたいという気持ちの表れだったのかもしれない。
午前10時。スタートの号砲が鳴った。
スタートから5分も経たないうちに、村上が早くも先頭に立った。開会式の宣言通り、後続の選手をどんどん突き離していく。
数キロ走ったところで、大磯から平塚に入る。村上にとっては懐かしい風景でもある。
そう。ここは5年前の箱根駅伝で村上が走った道のりなのである。正確には、村上が箱根駅伝で走った3区とは逆方向で、箱根駅伝で言えば8区にあたる。ただし、湘南横断マラソンは折り返しのコースなので、帰り道はまさに「数年前の自分の再現」になるのだ。
村上は10キロ地点を先頭で通過した。タイムは29分35秒。これは、日本記録相当のタイムになるほどのハイペース。
現在のマラソン日本記録は2時間4分台であるのに対し、村上の自己ベストは2時間12分50秒。考えるまでも無く、このままのペースを維持するのは至難の業。もちろん村上にとっても承知の上。
「今日は調子が良さそうだ。体が軽い」
村上は手応えを感じていた。この感覚はいつ以来だろうか。いや、初めてかもしれない。箱根駅伝の時でさえ、ここまでの感覚にはならなかった気がする。
SS食品の陸上部に入部してからは、大学時代のような自己流の練習ではなく、監督やコーチの指示による練習が中心になった。
高校時代とは身体の出来が違うはずだから、実業団の練習にもついていけるはずと思ったのだが、無理してついていこうとした結果、疲労骨折をしてしまい、最初の1年間を棒に振ってしまった。
その後、故障は回復したものの、5000Mや10000Mのベストタイムは大学時代から更新されず、マラソンは過去4回走ったものの、実力を評価されるには至らず。
しかし今日の村上は、一味も二味も違う走りを見せてくれている。
「予定していたペースよりも少し速いけど、こうなったら行けるところまでいってみよう。最後くらいは会社に気を遣わず、とにかく後悔が無いレースにしよう」
村上は普段よりハイペースな事に少しばかりの不安を覚えつつ、身体の赴くままにレースを進めていく事にした。
折り返し地点の江の島に差し掛かる。ここまで20キロ近く走っているが、依然として村上のペースは快調だ。しかし、快調であるが故に付き纏う不安。これは沿道で応援している人達も同様だ。
「おいおい大丈夫か」
「そろそろスローダウンするんじゃないか」
「快走どころか暴走じゃないか」
言葉選びは様々だが、思いはほぼ同じである。
そんな周囲の予想とは裏腹に、村上の快走はまだ続く。身体が持たずにペースが落ちてしまう事はあっても、自分の意志でペースを落とすような事はしたくない。村上の強い心の表れが、走りからも感じられた。
30キロを通過。村上の快走はまだ続いていた。
ここまでのタイムは1時間28分55秒。日本記録ペースを保っている。
ちなみに実業団選手や海外招待選手が多く出場する、いわゆるエリートレースでは、ペースメーカーと呼ばれるランナーが、ペースを調整する役割を果たしている為、日本国内のレースにおいて、ここまでのハイペースになる事はほとんど無い。
一方、今回のような市民マラソンでは、市民ランナーに合わせたゆっくりめなペースで走るペースメーカーがいる場合はあるものの、エリートレースのようなハイペースで走るペースメーカーは用意されていない。
つまり、今日の村上のレースの運び方は快調というよりも、もはや異常の部類でなのである。
32キロ地点。残すはあと10キロ。ついに村上のペースが落ちてきた。
限界に近い、いやそれ以上のハイペースに村上の身体が悲鳴を上げ始めたのだ。
呼吸をするのが少し苦しくなってきた。身体全体も重くなってきた。
そうかといって、足に力を入れようとすると痙攣しそうだ。
そんな身体とは裏腹に、村上は冷静を努めようとしていた。
「ここまで良い夢を見させてもらった。身体が動かなくなったのは悔しいけど、折角ここまで来たのに、リタイアしたらもっと悔いが残る。こうなったら少しペースが落ちるのは仕方ないから、とにかくゴールまで辿り着こう」
「30キロからが本当のマラソン、ってよく聞いてはいたけど、こういう事か。こうなったら本当のマラソンっていうのを味わおうじゃないか」
足取りは明らかに重くなったものの、それでも30キロ過ぎまでの貯金もあるので、自己ベストは更新しておきたい。ここから自分のペースに切り替えても、逆転される心配はないはずだ。
村上がマイペースに切り替えてからしばらく経ち、40キロを通過。ここまでのタイムは2時間1分49秒。
ちなみに30キロから35キロまでの5キロは、15分58秒。35キロから40キロまでの5キロは、16分56秒もかかっている。しかしそれは、村上にとって想定内の展開である。
「このままのペースなら、サブテンはなんとか達成できそうだ」
サブテンとは、2時間10分以内でマラソンを完走する事。かつては一流の証と呼ばれたタイムである。さすがに現在では一流と呼ぶには物足りないが、それでも実業団所属のランナーにとっては「一流への登竜門」のような、目標の一つでもある。
ところが、先程までとは沿道の観衆の反応に違和感がある。その正体は、背後から聞こえてきた歓声である。そして後ろからの歓声が村上に追いつこうとするかの如く、少しずつ大きくなってくるではないか。
まさか、と思いながら村上は後ろを向くと、小さいながらも確かに人影が走っている姿が見えた。
「そんな馬鹿な。いくら自分のペースが落ちたとはいえ、まだサブテンのペースなのだ。それに追いつくランナーがこの市民マラソンにいるはずがない」
村上は今日初めて動揺するのを感じた。
背後の人影は更に迫ってくる。不安を隠しきれない村上は、もう一度後ろを振り向く。
人影は、ハッキリと人物として認識できるくらいに近づいていた。まだ20代前半くらいの若者に見える。
しかしユニフォームは見覚えが無い。実業団でもないし、大学でもない。最近見かけるクラブチームでもなさそうだ。
「あいつ、いったい何者だ?」
ゴールテープまで、残り1キロを切っていた。