第3章「 生体認証の檻」#1 ナノレッド
単独では無理だ。
レイジは、雷鳴が遠くで轟く曇り空の下、濃いスモッグに覆われた都市のネオンを眺めながら、バイクのエンジンを回した。 クリニックへの侵入は、普通のビルに忍び込むのとは訳が違う。ベールテックの役員たちが利用する医療機関——つまり、企業の心臓部と繋がるシステムが敷かれている。
問題は生体認証データの管理方法だった。 通常の医療データならば、院内の端末にアクセスすれば抜き取れる。しかし、役員クラスの情報はそれとは別に扱われている。厳重なプロトコルで保護され、許可されたアクセス権がなければ開封すらできない。
もし単独で潜入したとして、目的のデータを見つけたところで手が出せなければ意味がない。 ならば、外部からセキュリティを破る者が必要になる。
問題は「誰に頼むか」だった。
都市には無数のハッカーがいる。だが、本当に信頼できる者は数えるほどしかいない。 しかも今回は、ただの情報収集ではない。「企業の役員認証データ」という超重要情報を抜き取るのだ。企業が気づけば即座にセキュリティを引き上げ、場合によっては処分対象として狙われることになる。
ならば、腕が立ち、かつ、企業に対して一切の忠誠を持たないハッカー。
ナノレッドしかいない。
あいつは天才的なハッカーであり、企業のデータを暴くことに異常な執着を持つ。 レイジが企業警察にいた頃、ナノレッドを追い詰めたことがある。しかし、見逃した。なぜか? それは、奴が都市のデータの闇を知っていたからだ。
「……借りを返してもらうか」 レイジはヘルメットを深く被り、バイクのスロットルを回した。
行き先は決まっていた。
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目の前にそびえるのは、かつて企業が所有していたデータセンターの廃墟だった。
スラムの無法者たちは、この建物には近づかない。外部には冷却装置の残骸が散乱し、そこから有毒な冷媒が漏れ出しているように見える。実際には、ナノレッドが意図的に作り出した偽装だ。
さらに、建物の入口には動作不明のセキュリティタレットが配置されており、たまに作動して火花を散らす。制御プログラムはすでにナノレッドによって改造されているが、外部から見れば厄介な攻撃システムにしか見えない。誤って近づけば、識別できない者には警告音が鳴り、しばらくすると高圧電流が走る仕組みになっている。
建物の奥には、監視用のドローンがホバリングしている影も見え、無法者たちはこれが企業の残存セキュリティなのか、それとも別の脅威なのかを判断できず、近づこうとはしない。
バイクを停め、壁のインターフェースに指を触れる。認証システムが一瞬作動し、ドアがわずかに軋みながら開いた。
内部は静かだった。だが、それは表面的なものにすぎない。
レイジは足を踏み入れ、長い廊下を進む。床には剥がれかけたタイルと、ところどころに散乱する電子基板の破片が転がっている。壁のいたるところには、配線の束が無造作に這い回り、監視システムの名残か、時折チカチカと光るインジケーターが不気味に点滅していた。
彼は慎重に歩を進める。ナノレッドの拠点に油断は禁物だった。足元にわずかな振動を感じた瞬間、頭上の天井に埋め込まれた小型ドローンが静かに起動する。光学センサーが赤い閃光を放ち、侵入者の識別を行っているのがわかる。
さらに、壁の奥からわずかに音がする。微細な電子ノイズ——防犯センサーが作動している証拠だ。
レイジは気配を消しながら、壁際を滑るように移動する。次の角を曲がると、細長いレーザービームが視界の端に映った。侵入者探知システムだ。一定のリズムで動いているが、時折パターンを変えてランダムに照射される。適当に突破すれば即座に警報が鳴る仕組みになっている。
「……やれやれ」
レイジは静かに息を吐き、一瞬の隙を見つけて前へ進む。ドアの前に立つと、別のセンサーが作動した。レイジの体温、心拍、呼吸パターンを測定し、登録データと照合しているのだろう。
ようやくドアが開くと、その向こうには、赤い光を放つサイバネ義眼が待っていた。
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