第2章「亡霊のチップ」#4 カフェ フラットライン
夜の都市は冷たい光の檻だった。
ビル群を覆うネオンの輝きは、決して街を温かく照らすことはない。企業広告のホログラムが空に舞い、監視カメラのレンズが無機質に回転する。路地の奥では、規制薬物の取引がひっそりと行われ、誰かが抑制の利かない笑い声を上げた。
レイジは黒いジャケットのポケットに手を突っ込みながら、無機質な歩道を歩いていた。革靴の底が濡れたアスファルトを踏みしめるたびに、ぼやけた街灯の光が靴の先に揺れる。
――依頼人から応答がない。
レイジは端末の画面を睨んだまま、わずかに眉を寄せる。メッセージは既読にならない。
「……企業に消されたか?」
わずかに喉の奥が渇く。依頼人のフリージャーナリストが追う情報は、企業にとって間違いなく「消すべきもの」だ。もし今、彼がどこかの路地で冷たいコンクリートに伏せていたとしても、不思議ではない。
不安は不要だ。
レイジはそう自分に言い聞かせながら、煙草に手を伸ばしかけたが、結局やめた。こういうときほど、冷静でいなければならない。
沈黙が続く。
無人タクシーがスピードを緩めながら通り過ぎる。視界の端で、スラムの路地に消える男の影を捉える。サイバネ義肢の金属音がアスファルトを打ち、電子的な静寂の中に溶け込んでいった。
端末を握りしめる指に力がこもる。
「……チッ」
こういうときの沈黙は、嫌な想像しか掻き立てない。企業の私兵が動いたのか? それとも単に電波の届かない場所にいるだけか?
だが、その時――
端末が震えた。
レイジは素早く画面を見る。
メッセージが一つ。
「明日、あのカフェで」
沈黙を破る短い文。
レイジは、ふっと肩の力を抜いた。
かすかな安堵とともに、すぐに踵を返す。
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粘りを帯びた雨。都市は濡れたネオンに包まれ、アスファルトの路面が光を反射していた。レイジはバイクのシートに深く腰を下ろし、エンジンを低く唸らせながらカフェ『フラットライン』へと向かっていた。
Iyastradaの旧世代モデルを改造したこのマシンは、電子制御の干渉を最小限に抑えたカスタム仕様だ。企業の監視システムは都市の隅々まで網を張り巡らせている。彼らの目を欺くには、最新技術よりも、あえて旧式の機械を使うほうが都合が良かった。
スラム街の境界線を超えると、空気は一変する。ホログラム広告が乱反射する高層ビル群とは対照的に、こちらは低層の建物が軒を連ね、街灯すらまともに機能していない。薄汚れた路地の奥には、企業から弾かれた者たちが影のように潜んでいる。
カフェ『フラットライン』は、都市の喧騒から外れた裏通りにひっそりと佇んでいる。かつては独立系ジャーナリストや反企業活動家たちが集い、闇に葬られるはずの"不都合な"真実が語られる場だった。しかし、企業の監視が強まるにつれ、気骨のある者たちは次第に姿を消し、今ではその灯火も消えかけている。ネオンの光が届かない薄暗い店内には、疲れた顔の客がぽつりぽつりと座り、かつての賑わいの残滓だけが、コーヒーの苦い香りとともに空間を満たしていた。
バイクを路肩に停め、レイジは一度周囲を確認した。入り口のネオンサインは半分消えかかっている。扉越しに見える店内には、数人の客がちらほらと座っている。カウンターには店主が無表情でコーヒーを淹れていた。 そして、奥の席に依頼人がいた。
フリージャーナリスト。名は、まだ明かされていない。彼はカップを手にしていたが、中身にはほとんど手をつけていなかった。伏し目がちに窓の外を見つめている。
レイジはゆっくりと扉を押し開けた。ブーツがコンクリート剥き出しの床を鳴らす。依頼人の席へ向かい、声をかける。
「……連絡が遅かったな」
依頼人が、かすれた声で言った。
「慎重にならないといけない」
依頼人は、色落ちしたショルダーバッグから短距離ノイズキャンセラーを取り出し、起動する。気休め以上にはなる、盗聴への備えだ。
レイジはカウンターに向かい、店主に短く告げる。
「エスプレッソ。ダブル。砂糖を」
店主は無言でカップを用意し、小さなシュガーパックを添えた。 レイジは砂糖をそのままカップに落とす。かき混ぜず、一口飲んだ。 苦味が舌を刺す。だが、それがいい。
「エグゼクティブアーカイブへ入る鍵は見つけた」
レイジはカップをテーブルに置き、ゆっくりと続けた。
「役員クラスの生体認証が必要だ。クリニックにデータが保管されている可能性がある」
依頼人の目がわずかに光る。
「……つまり、そこに潜入する必要がある、ということか?」
「そうなるな」
依頼人はささくれた指先でカップを弄びながら、沈黙する。
レイジはふと口を開いた。
「ベールテックは何を隠している?」
依頼人は短く息を吐き、低く、しかし確信に満ちた声で答えた。
「"消された人間の記録"だ」
企業が不都合な人物を「いなかったこと」にする仕組み。それを暴くために、エグゼクティブアーカイブが必要だという。
レイジは、改めて依頼人の顔を見据えた。
「いまさら企業批判に命を賭けるのか?」
レイジの問いに、依頼人は薄く笑った。
「それだけの価値があるものを追っているんだ」
レイジはエスプレッソを一口飲み、静かに言った。
「問題は金だ」
依頼人は指を止めた。
「前金15000クレジット、成功報酬85000クレジット。」
依頼人は短く笑う。
「強気だな」
レイジはマドラーでカップをはじき、淡々と言った。
「命懸けの仕事だ」
依頼人は僅かに視線を落とし、やがて頷く。
「……分かった。15000クレジット、いま送る」
レイジの端末が震え、入金通知が表示される。
「……この金、どこから用意した?」
レイジの声が低く響く。
依頼人は視線を落としたまま、カップを弄ぶ。
「どういう意味だ?」
レイジは肩をすくめる。
「10万クレジット。簡単に用意できる金じゃねえ」
依頼人がささやくように答える。
「……"消された者たち"の支援だ。彼らは企業が見落とした資産を回収し、"影"で繋がっている」
「都合がいいな」
レイジは冷笑した。
「消された人間は、企業の目から"完全に"消される。IDも、口座も、財産も。」
「本当に"消された者たち"の金か?」
依頼人は目を細める。
「……疑ってるのか?」
「探偵の性分だ」
エスプレッソの最後の一口を飲み干し、カップの底の砂糖をマドラーで掬い取る。口の中に広がる甘さが、ほろ苦さを和らげた。
「お前も、よく考えたほうがいい。"誰がこの金を出したのか"をな」
依頼人はカップを握りしめたまま、何も言わなかった。
レイジは無言で立ち上がる。
「気をつけろ」
依頼人が言った。
レイジは肩をすくめ、カフェを出る。
湿った風が頬を打った。
企業広告のホログラムが通りを覆う。
「幸福な未来を、企業とともに。」
レイジは鼻で笑い、バイクに跨がる。
エンジンが低く唸り、冷えた空気を震わせる。
ヘルメットのHUDを起動し、監視ドローンの位置を確認する。
「ベールテック御用達の病院か」
スロットルを回すと、加速度で体がシートに沈む。
ネオンが流れ、カフェの光が闇に沈んでいく。
都市の中へ、レイジは消えた。