第2章「亡霊のチップ 」#3 消された技術者
レイジは、トニーの後ろを歩きながら、カジノのバックヤードを進んでいた。
ここは表の煌びやかな世界とは対照的だった。天井のネオンは切れかけ、むき出しの配線がむせかえるような熱を帯びている。煙草の焼け跡が壁のあちこちに散らばり、カーペットは染みだらけ。足音が吸い込まれるような重苦しい空間に、微かに機械が稼働する低い唸りが響いていた。
「ずいぶんと静かだな」
レイジは呟いた。
「ここはカジノの心臓部だ。余計な音が立つ場所じゃない」
トニーが低く答えた。
彼の足取りは迷いがない。カジノのバーでグラスを磨いていた姿とはまるで別人のように、どこか軍人じみた機械的な正確さを感じさせた。
扉が次々と開き、奥へ奥へと導かれていく。最終的に二重ロックのかかった重厚な扉の前で立ち止まった。
トニーが小さく息をつく。
「ここがジェイク・ハルフォードの仕事場だ」
レイジは短く頷いた。
「扉を開けたら、しばらく黙って様子を見てろ」
「言われなくてもな」
トニーがセキュリティコードを入力し、扉がゆっくりと開く。
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冷気が流れ込んできた。
部屋の奥では、巨大なサーバー群が規則的に青白い光を放っている。人工的な冷却装置の音が部屋の静寂を支配し、無数のデータがここで処理されていることを無言で伝えていた。
中央のデスクに座っている男が、一瞬レイジを見て、すぐに視線を戻した。
ジェイク・ハルフォード。
企業に"消された"技術者。
その風貌は、何年も地下に閉じ込められていた人間そのものだった。
痩せこけた顔。青白い肌。暗い瞳には生気がなく、深いクマが刻まれている。
彼は無表情のまま端末を操作し続けた。
「新しい監視役か?」
ジェイクはぼそりと言った。
「いや、探偵だ」
「探偵?」
ジェイクは初めてレイジに向き直った。
「カジノの地下まで来る探偵なんて初めてだな」
「俺も、カジノの地下に幽閉されてる技術者を見るのは初めてだ」
「幽閉ねぇ……」
ジェイクは冷笑した。
「確かに、ここは檻のようなもんだ。でも、ここで生き延びる以外、俺に道はない」
「そう思うか?」
「そう思うさ。お前の依頼が何であれ、俺は企業を敵に回してまで動く気はない」
レイジは、懐からホロディスクを取り出し、テーブルの上に置いた。
「企業はお前を探してる」
ジェイクの手が止まる。
「証拠を見せろ」
レイジはホロディスクを起動した。
ホログラムが宙に浮かび、そこに企業の回収指示が映し出される。
標的:ジェイク・ハルフォード
ジェイクの名前が、明確にリストアップされていた。
彼は、それをしばらく凝視していた。
やがて、笑った。
「やっぱり、そうなるか」
「ジェイク、お前は"消された"わけじゃない。ただ、処理が遅れてるだけだ」
「我ながら亡霊みたいなもんだな。」
ジェイクは端末を閉じ、顔を上げた。
「それで、お前は俺に何を求めてる?」
「エグゼクティブアーカイブへのアクセス方法だ」
ジェイクの表情が凍りつく。
しばらく沈黙が続いた。
「……冗談だろ?」
「本気だ」
「お前、それがどれだけヤバいことか分かってるのか?」
「分かってるさ」
ジェイクは短く息を吐く。
「……お前は、エグゼクティブアーカイブに何があるか、どこまで知ってる?」
「まだ断片的にしか知らない。ただ、ベールテックの機密の中でも最も重要なデータがそこにあることは分かってる」
ジェイクは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「……クソッタレが」
「答えてくれ、ジェイク」
「エグゼクティブアーカイブへのアクセスには、生体認証が必要だ。役員クラスの網膜スキャン、指紋、声紋……すべてだ」
「そのデータはどこにある?」
ジェイクは沈黙する。
レイジは言葉を続けた。
「企業は、幹部たちの生体データをどこかで管理しているんじゃないのか?」
ジェイクは、ゆっくりと目を閉じた。
「……ああ、その通りだ」
「どこだ?」
「企業幹部が通う高級クリニック」
レイジは目を細めた。
「クリニック?」
「表向きは健康診断やインプラントのメンテナンスのための施設だ。だが、同時に、生体認証データの定期収集を行っている。しかも生体データが記録されていると知っているのは、役員レベルの上級幹部だけだ。」
「勝手に幹部の生体データを収集しているのか?網膜パターンや指紋を?」
「ああ。企業の福利厚生と監視は裏表、ってやつさ。」
ジェイクは苦笑した。
「探偵、お前、本当にそこに潜入するつもりか?」
「俺もまだ決めかねている。他に手がなければ、そうするしかない」
ジェイクは短く笑った。「無茶苦茶なやつだな」
「いくつかあるクリニックの中にも、セキュリティが甘い所がある。そこのデータを狙うといい」
「なるほどな」
ジェイクは端末を開き、何かを検索する。
やがて、メモリチップを端末から抜き取り、デスクに置いた。
「受けとれ。"ルーズな"クリニックの候補、生態認証に必要なデータの種類、全部まとめてある。」
レイジはメモリチップを受け取り、確認する。
「助かる」
ジェイクは肩をすくめた。
「お前が企業に一泡吹かせるところを見てみたい気もするからな」
「なら、期待しておけ」
レイジは端末をポケットにしまい、立ち上がる。
ジェイクはため息をついた。
「お前、なんでそんな危険を冒してまでアーカイブを狙うんだ?企業の腐敗なんて、いまさら騒いだところでどうにもならない。」
「それでも、知る必要がある。ある人間の事故死の真相をな」
ジェイクは体の向きを変え、はじめからずっとそうしていたように、画面を虚ろな目で見つめた。
「……だったら、アーカイブの中身、期待しとけよ。お前が追ってる"事故"、その言葉にピンとくるデータがいくつかある」
「……どういう意味だ?」
「詳しくは知らん。ただな、"計画的な処理"ってワードが、俺が見た中にあったんだよ」
「……生き延びろよ、探偵」
「そっちこそな」
レイジは部屋を後にした。
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カジノの外に出ると、冷たい雨が降り始めていた。
高層ビル群の合間に漂う霧が、ネオンの光を滲ませ、街全体がぼんやりと歪んで見える。道路の端には酔い潰れた男がしゃがみ込み、対照的に、企業の広告ホログラムは完璧な笑顔で住民たちに"幸福"を保証していた。
レイジは煙草を取り出し、ライターの火をつける。雨に濡れたフィルターが苦い。
──これで、手掛かりは揃った。
クリニックの存在。役員クラスの生体認証データ。そして、エグゼクティブアーカイブへ侵入するための道筋。
だが、胸の奥底に、重い感覚がこびりついていた。
「計画的な処理……か」
ジェイクの言葉が耳に残る。
事故ではなく、処理。
それは、レイジの父が死んだとき、彼自身が疑ったことと全く同じ表現だった。
企業のデータにあったわずかな改ざん。消された映像。
すべては"計画的"だったのか?
いや、まだ確証はない。
しかし──もし、ジェイクが言ったことが本当なら?
レイジは煙草を指先で弾き、雨に落とした。
やはり、もう一度依頼人と話すべきだ。
フリージャーナリスト──あの男は、この依頼を俺に持ち込んだとき、一体どこまで考えていたのか?
そもそも、なぜ俺を選んだ?
何を知っていて、何を知らない?
──そして、俺の父の死と、この依頼は本当に無関係なのか?
雨の中、レイジはネオンの光を睨みつけた。
──このまま突き進むか、それとも引き返すか。
その決断を下す前に、もう一度、あの男に確かめる。
レイジはコートのポケットから端末を取り出し、依頼人の番号を呼び出した。
低い電子音が鳴る。
雨音の向こうで、コール音が虚しく響いていた──。