第2章「亡霊のチップ」#2 カジノ シルバーハンド
カジノ『シルバーハンド』のネオンは、街の片隅で今も輝いていた。
だが、よく見れば、看板の一部はちらつき、かつての栄光が色褪せ始めているのが分かる。
入口の前には長い列ができていた。企業の重役、裏社会の顔役、そして無邪気に"一夜の奇跡"を夢見る男たち。賭ける金が尽きるまで、彼らは何度でもここへ戻ってくる。
レイジは、彼らに混じりながら列へ並んだ。
派手な服を着た男が前で話している。
「今夜は当たる気がするんだよ、分かるか? 前回はダメだったけど、今日は違う」
連れの男が苦笑いを浮かべる。
「お前、前も同じこと言ってなかったか?」
レイジはそのやり取りを聞き流しながら、ゲートへ進んだ。
セキュリティのスキャンが、彼の全身をなめるように調べる。
「武器は持ってないな?」
「ご覧の通りだ」
サイバネティック検査も問題なく通過する。レイジは何も隠していなかった。
今日は交渉が目的だ。銃もナイフも必要ない。
ゲートが開き、カジノの内部へと足を踏み入れる。
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喧騒と光が、視界を埋め尽くした。
スロットマシンの電子音、ルーレットの球が転がる音、チップが積まれる音。
目に映るのは、派手な色の照明と、華やかな衣装に身を包んだギャンブラーたち——だが、よく見ると、どこか疲れた表情の者も多い。
この場所は、人を狂わせる。勝てば一生の富、負ければ破滅。それが"カジノ"という名の賭場だった。
奥に進むと、テーブルの一つに、明らかに負けが込んだ男が座り込んでいた。
「……もう少しだ、次で取り返せる……」
何度も何度も同じことを呟いている。ディーラーロボットが無機質な声で言う。
「ベットされない場合、次のプレイヤーへ移ります」
男はポケットをまさぐり、最後のチップを握りしめた。
レイジは一瞬、その様子を見ていたが、すぐに視線を外した。
ここの客に同情する意味はない。
金を賭けるのは、個人の自由だ。負けたとしても、それは"選んだ結果"でしかない。
レイジは、そのままカジノの隅へと向かった。
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バーは、喧騒から少し離れた場所にあった。
かつては高級感のある空間だったのかもしれない。だが、壁の塗装は剥がれ、カウンターの木目は使い込まれすぎて黒ずんでいる。
カジノの光と狂騒が届かない、静かで、しかしどこか退廃的な空間。
それでも、ここではまだ"本物の酒"が飲める。
そして、その静寂の中心にいるのが、トニー・ベネットだった。
カウンターの向こうで、彼はグラスを磨いている。
痩せた体つき。だが、それは単なる貧相な細身ではない。無駄のない動き、獲物を観察するような視線——まるで、しなやかな蛇のようだった。
黒のベストにグレーのシャツ。ノーネクタイ。袖は肘までまくり上げられ、手首にはシルバーのブレスレットが光る。
顔は青白く、頬がわずかにこけ、目は切れ長で鋭い。感情を読ませない、静かな冷たさを宿している。
この男の前で嘘をつけば、一瞬で見抜かれる。
トニーは、レイジの姿を認めると、一瞬だけ視線を向けた。
だが、それ以上の反応は示さず、グラスを磨き続ける。
レイジはカウンターに腰を下ろした。
「久しぶりの顔だな。何を探してる?」
淡々とした声。静かすぎて、逆に威圧感がある。
レイジは短く言った。
「ジェイク・ハルフォードと話がしたい。」
その名を聞いた瞬間、トニーの手が止まる。
だが、表情は変えない。
「知らねえな。」
レイジは静かにグラスを回した。
「企業がジェイクを探してる。」
トニーの目がわずかに細まる。
「……確定情報か?」
レイジはポケットから、小型のホロディスクを取り出し、カウンターの上に置いた。
「これを見れば分かる。」
トニーは、それをしばらく見つめていたが、やがて静かに息を吐いた。
「……ここじゃまずい。ついてこい。」
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カジノの表とは対照的な、くすんだグレーの世界。
壁にはタバコの焼け跡があり、机は傷だらけ。ソファは沈み込むほど使い込まれている。
トニーはホロディスクを手に取り、データを確認した。
ジェイク・ハルフォードの回収指示。企業が動き始めている証拠。
トニーの顔が微かに歪んだ。
「……くそったれ。」
低く呟き、灰皿にタバコを押し付ける。
「つまり、俺たちは"企業の逃亡者"を雇ってたってことか?」
レイジは無言で頷く。
「ジェイクがここにいるのは知ってる。だが、カジノの連中は、"企業から逃げた人間"だとは知らなかった。そうだろ?」
トニーは短く息を吐く。
「……そうだな。俺たちは、"有能な技術者"として雇ったつもりだった。」
レイジはウイスキーのグラスを軽く傾けた。
「企業がジェイクを探してる理由は、単純だ。奴は、企業の金の流れを知りすぎてる。」
「マネーロンダリングのデータか?」
「それだけじゃねえ。奴は、企業の"裏金の運用先"まで把握してるはずだ。」
トニーは黙り込んだ。
レイジは、一呼吸置いて言った。
「これが分かった以上、カジノもジェイクを抱えたままでいいとは思わねえはずだ。」
トニーは腕を組み、しばらく考えていた。
「……お前がジェイクに会ったところで、何が変わる?」
「それはジェイクと話してみないと分からねえ。」
「もしジェイクがカジノを出たがったら?」
「その時は、また交渉だな。」
長い沈黙の後、トニーは小さく笑った。
「いいぜ。お前をジェイクに引き合わせてやる。」
レイジは静かに頷いた。
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トニーの了承を得たレイジは、無言で立ち上がった。
カジノのバックヤードは、表の華やかさとは別世界だった。天井の照明は不安定にちらつき、古いカーペットには使い込まれた染みが点々と残っている。
そして、その奥。
重厚な電子ロックがかかった扉の向こうに、ジェイク・ハルフォードはいる。
レイジは、静かに指を鳴らした。
"さて、次はお前の番だ、ジェイク。"
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