第2章「亡霊のチップ」 #1 スラムの情報屋
酸性雨の残り香が、メガシティの夜に重く漂っていた。
舗装の剥がれた道路をゆっくりと歩くと、足元で水たまりがぬかるみ、ネオンの光を鈍く反射する。高層ビル群が遠くにぼんやりとそびえ立ち、その壁面では企業のホログラム広告がちらついている。
「ベールテックが守る、安心の未来へ。」
その標語が、何度も繰り返される。まるでこの街が、本当に"安心"とやらを提供する場所であるかのように。
だが、足を踏み入れたこのエリアには"安心"などなかった。
メガシティの影。スラムの一角。
通りの両側には違法取引の屋台が並び、人工タンパクの串焼きや怪しげな電子機器が売られている。遠くの路地裏では、ギャングが誰かを囲んで脅していた。助けを求める声がかすかに聞こえたが、誰も振り向かない。
──ここは、見て見ぬふりをする街だ。
レイジはフードを深く被り、バーへ向かって足を速めた。
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「ドリフト・ジャンクション」
ここは、スラム街の情報が交差する場所だった。
企業が持つ"合法"な世界とは異なる、もうひとつのネットワーク。酒場の片隅で取引されるのは、ウイスキーだけじゃない。銃、ドラッグ、臓器、データ。そして、時に人間そのもの。
レイジはカウンターの奥の席に腰を下ろし、湿った木の感触を指先に確かめた。店の空気は、タバコとアルコールの匂いで満たされている。
向かいのテーブルでは、ギャング風の男が金を賭けてカードをめくっていた。負けた男が悪態をつき、静かにナイフを抜くのが見えた。
──スラムでは、貸しを作ることは命の保証にならない。
「ロックで。」
レイジは短く注文し、バーテンダーが無言でグラスを差し出すのを待った。
琥珀色の液体が揺れ、氷の端がグラスの内側をかすめる音がする。
その音に紛れて、マックスがカウンターの向こうから声をかけてきた。
「探偵。何を探しに来た?」
レイジはグラスを軽く傾けながら、視線だけをマックスに向けた。
「ジェイク・ハルフォード。」
マックスの表情が一瞬固まり、すぐに苦笑に変わる。
「あの男の名前を出すとはな……」
タバコの煙をくゆらせ、マックスはホロスクリーンを弾いた。
「企業に追われてる。お前もそうなりたいのか?」
「もうなってるさ。今さらだ。」
マックスは肩をすくめ、スクリーンに映ったデータをレイジに見せた。
そこには、カジノ**「シルバーハンド」**のロゴが映し出されていた。
「ジェイクを探すなら、トニー・ベネットに聞け。」
「誰だ?」
「シルバーハンドのバーテンダー長。」
レイジは軽く眉を寄せた。
「バーテンダーが情報を持ってるのか?」
「お前、どれだけこの街を知らねぇんだ。バーは社交場だ。奴はギャングにも企業にも顔が利く。ジェイクとも繋がりがあったらしい。」
マックスは軽く指を弾き、グラスを拭いた。
「だが、トニーは簡単に口を割らねえぞ。」
「見返りが必要ってことか。」
「ああ。お前が"話す価値のある客"じゃなけりゃな。」
レイジは軽く息を吐いた。
情報はタダじゃない。ましてや、消えた男の足取りなんてのは、命を削ってでも知りたい奴がいるものだ。
「どうすれば話せる?」
マックスは、レイジのグラスを指で軽く叩いた。
「カジノへ行って、"客"としてバーに座るんだ。それだけでトニーはお前を値踏みする。」
「ただ行くだけじゃ、"何者か"にはなれねえ。トニーに興味を持たせろ。」
レイジは無言でグラスの氷を転がした。
「取引のネタを考えないとな。」
マックスは乾いた笑いを漏らす。
「賢明だな。少なくとも、カジノで目立つなよ。企業の監視も強まってる。」
レイジはポケットからクレジットを置き、立ち上がった。
「借りは作らない主義だ。」
「気にするなよ。次にここで飲むとき、お前が生きてりゃそれでいい。」
レイジは軽く手を挙げ、バーを後にした。
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帰宅する道すがら、街はいつもと変わらない風景を見せていた。
酸性雨が再び降り出し、路地裏には影が揺れる。企業のドローンが青白い光を投げかけ、ビルの間をゆっくりと滑っていく。
部屋に戻ると、レイジはジャケットを脱ぎ、簡易キッチンで水を飲んだ。
ベッドに腰を下ろし、ホロスクリーンを開く。マックスから送られたデータが光を放つ。
──シルバーハンド、トニー・ベネット。
この街のカジノのひとつ。表向きは合法だが、実態は企業の資金洗浄や違法賭博の温床。そして、そのバーの長がトニー・ベネット。
「ジェイクと繋がりがあった男。」
レイジは目を閉じ、明日の展開を予測する。
トニーは簡単に口を割らない。何か見返りを求めてくるはずだ。
「なら、俺もそれなりのネタを用意しないとな。」
レイジは短く息を吐き、横になる。
明日、カジノへ行く。
そして、トニーと話をする。
情報を得るための、最初の一手を打つために。