第1章「監視都市の狭間で」
監視ドローンが窓越しに俺を捉えた。
目の隅で、赤いランプが点滅するのが見えた。
ほんの数秒間。だが、十分だ。
俺は静かにカップを持ち上げ、エスプレッソを口に運んだ。
この都市に"プライバシー"など存在しない。
誰が、何の目的で俺を見ているのか、それを気にしすぎると生きていけない。
だから俺は、何もなかったかのように振る舞う。
ネオンが濡れる。
都市の夜は、いつも雨だ。
街灯の下に落ちた水滴が青い光を反射し、舗道を仄暗く照らしている。
ビルのガラスに映る広告は、降りしきる雨のせいでぼやけ、歪んで見えた。
都市の息遣いが、遠くのスピーカーから流れる企業のプロパガンダと混ざり合う。
ここはメトロポリス。企業が支配する都市。
政治は死に、法律は形骸化し、貨幣よりも"データ"が価値を持つ。
この街では、"真実"は誰の手にも渡らない。
それを独占するのは、情報を握るメガコーポだけだ。
俺は「エルク・カフェ」の片隅でエスプレッソのカップを指でなぞった。
このカフェは、"仕事の話"をするための場所として知られている。
適度な雑音、適度な喧騒、適度な監視の抜け穴。
企業のエージェントもいるが、ここでは大っぴらな襲撃は許されない。
カップの中で、溶けきらない砂糖がゆっくり沈んでいく。
俺はそれをかき混ぜず、ただ待っていた。
扉が開く。湿った夜風が流れ込む。
ずぶ濡れの男が入ってくる。
黒いレインコートの裾から、滴る水が床に落ちる。
一歩、また一歩。
彼は店内を警戒しながら進み、俺の前に座ると、
手のひらの汗を拭うようにズボンでこすった。
「お前が、探偵の"真島"か?」
低く、抑えた声。
隠そうとしても、焦りが滲んでいる。
俺は、静かにカップを口に運んだ。
「ああ、そうだ。で、何の用だ?」
男は一息つき、ポケットから小さなデバイスを取り出した。
短距離ノイズキャンセラー。
テーブルの上に置かれると、周囲の音がかすかに歪む。
これで、俺たちの会話は企業の監視網から消えた。
つまり——これは、そういう話だ。
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男はゆっくりと口を開いた。
「ベールテックの"エグゼクティブアーカイブ"を奪ってほしい。」
エグゼクティブアーカイブ。
それは、メガコーポの最上層部のみがアクセスできる機密データバンク。
企業の闇が詰まった禁断のデータ領域だ。
俺は、スプーンを持ち上げ、カップの底に沈んだ砂糖をかき混ぜた。
「理由は?」
男は、一瞬言葉を選ぶように黙った。
その沈黙が答えだった。
「……俺は、フリーのジャーナリストだ。」
その言葉に、俺は目を細めた。
この街で、ジャーナリストほど命知らずな職業はない。
「企業の腐敗を暴きたい。」
「だが、ネットにリークしても無駄だ。連中は即座にデータを消す。」
「記事を書いても、公開する前に潰される。」
企業の情報統制は絶対だ。
都市のインフラそのものが、企業の支配下にある。
公開された瞬間に記事が消され、書いた人間は"事故死"する。
つまり、"普通のやり方"では何もできない。
だから——エグゼクティブアーカイブを直接奪う。
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男は、一度テーブルの上で指を組んだ。
「最初はハッカーに依頼するつもりだった。だが、データだけでは足りない。」
俺は視線を上げた。
「君が三ヶ月前に解決した案件を知っている。企業の裏金の流れを追っていたそうだな。」
「誰がそんな話を?」
「知り合いが、君に助けられた。君の調査で、奴は消されずに済んだ。」
俺は心当たりを探る。
確かに、企業の汚れ仕事を掴んだことはある。
だが、その関係者が俺をここに導いたというのか。
「君は企業に雇われたことはなく、かといって政府の犬でもない。信用できる。」
「それで俺に?」
「君は探偵だが、情報屋とは違う。現場で動ける人間が必要だった。」
カップを置いた。
短く息を吐く。
「……一週間、考えさせろ。」
男は、目を細めた。
「時間がない。できるのか?」
俺はスプーンを持ち上げ、ゆっくり砂糖をすくい、
「急ぐとロクなことにならない。企業相手ならなおさらだ」
口の中で転がした。ほのかな甘さが苦味を打ち消す。
男はしばし沈黙した後、小さく頷いた。
「分かった。連絡を待つ。」
彼はそれだけ言い残し、静かにカフェを後にした。
外は相変わらず、雨が降り続いていた。
俺は、スプーンですくった砂糖を舌の上に乗せた。
甘さが、ほんの少しだけ苦味を和らげた。
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