①猿沢池の笹葉魚と楊枝の撫抜歯
【果心居士幻術奇譚】
世に云う幻術とは、“火水を踏み越え、山河を目前に現し、刀斬されど不死身である”
これらの類で人の目を眩ます術である。
果心居士は、室町時代末期に実在したという幻術師で、七宝行者とも呼ばれた。
筑後国(現・福岡県南部)の生まれで、大和国にある興福寺の僧であったが、外法による幻術に長じた為に異端とされ破門となった。
その後、果心居士は己の能力で立身出世を試み、当時の天下人に前に現れて技を披露したと伝わる。
【猿沢池の笹葉魚と楊枝の撫抜歯】
法相宗大本山の興福寺は、天智天皇8年(669年)に藤原鎌足の正妻である鏡女王が、夫の病癒祈願の為に藤原邸に造営した山階寺(山城国山階=京都市山科区大宅)が前身となる。
天武天皇元年(672年)に飛鳥京へ再遷都した際に、山階寺も移されて地名を取り厩坂寺(大和国高市郡)厩坂=橿原市石川町)と改名された。
和銅3年(710年)に平城京へ遷都の際、厩坂寺も藤原不比等により移され、興福寺(大和国添上郡東御門郷登大路(東里郷)=奈良市登大路町)と改名された。
天皇家・藤原氏により手厚く保護され、奈良時代には四大寺・平安時代には南都七大寺の一つに数えられた。
平安の頃には、藤原氏(中臣氏)の氏神を祀る春日大社(大和国添上郡春日野村春日山(花山+御蓋山(三笠山)=奈良県奈良市春日野町)を治め、大和国を領した為、鎌倉幕府・室町幕府は大和国に守護大名を置かず、興福寺が守護の役目に当たった。
文禄4年(1595年)の豊臣秀吉による太閤検地では、春日社興福寺として知行2万1千石を領した。
興福寺の放生池に猿沢池がある。
放生池とは、中国や日本の仏教で捕獲した魚介を購い、生かし放つ池の事をいう。
6世紀に天台宗の開祖・智顗が漁民の獲った魚の多きを憐れみ、天台寺(現・天台山国清寺)の近くに池を作り放ったのが初めとされる。
宋の時代に、杭州西湖の西湖十景の一つである三潭印月の周囲を放生池として、仏生日に供養の放生会を催した。
日本では、持統天皇が摂津等の地に放生池を設け、後に寺社の境内に放生池が作られる様になった。
現在の猿沢池は、奈良公園にある周囲360mの池で、池畔に柳が植えられ風情がある。
興福寺の五重塔が柳と一緒に猿沢池の水面に映る景観は美しく、室町時代には猿沢池の月景色が南都八景(奈良八景)の一つに数えられた。
また、猿沢池では甲羅干しをする亀が多く観られる事でも知られている。
奈良時代に、文武天皇に仕えた采女が、寵愛が衰えた事に悲嘆して入水したという言い伝えがあり、池畔の北西角には祭神を釆女とする釆女神社がある。
室町時代の末期、後に戦国時代と言われた頃、大和国にある法相宗大本山の興福寺に、果心居士という僧侶が居た。
興福寺が参拝者で賑わう中、果心居士が歩み寄り袖から笹の葉を取り出し「それっ!」と言い、猿沢池の水面へ放り投げると、笹の葉が魚(鯉)となって泳ぎ出したので見物人は驚いた。
果心居士の笹葉魚の術が注目を浴びると、猿沢池の周りには人だかりが出来たが、その中の町人風体の男が難癖 を 付けた。
「そんなん元々おった鯉やないか!イカサマや!!」と大きな声で言い放った。
果心居士はニヤリと笑いながら男に近づくと、懐から取り出した楊枝で男の前歯を一撫ですると、途端に前歯がガタガタとなり抜け落ちそうにブラ下がった。
男は驚き、泣いて果心居士へ跪いて許しを請うた。
「よしよし!」と果心居士は言い、楊枝で再度男の歯を撫でると、歯は元通りとなった。
聴衆が驚く中、果心居士は猿沢池に入り、水面と鯉の上を歩くとフワッと空を蹴り、隼となって飛び去った。
この騒ぎにより、果心居士は興福寺を破門だけでなく、出入禁止となった。
この作品は、2018年に書いた物に加筆をした物語です。
写真は、興福寺の「中金堂」・「猿沢池」です。
○参考史料
・『義残後覚』全7巻(85話)愚軒・編(1596年=文禄5年)
・『玉箒子』全6巻(第3巻「果心幻術」)林義端・著(1696年=元禄9年)
○参考資料
・『法相宗大本山興福寺』HP
・奈良県観光公式サイト『ならネット』HP
・『世界大百科事典』(全35巻)平凡社(改訂版2007年9月刊)