37.W 雨の街
急に降り出した雨を全身に受けながら、ウィルはため息を吐き出した。
雨が降るような天気でもなかったと、うらめしげに天を睨んでみても雨脚が弱まるはずもない。
仕方なく雨の中を歩きながら、ふと思い出す。
初めてハンスに会ったのも、こんな雨の中だった。
あの日も急に見舞われた強い雨に濡れ鼠になり、家を出された心細さも相まって、泣きたい気持ちで一杯だった。
そこに差し掛けられた傘と、案ずるように見下ろしてきたハンスの緑の瞳が、鮮明に記憶に残っている。
新緑を映したような綺麗な瞳だった。
そう思う側から、鮮明な記憶の中のその瞳が、狂った光を宿したあの日の瞳に塗り替わり、一瞬、自分がどこにいるのか見失う。
眼前に迫る狂気の瞳。
肩に食い込む刃の冷たさとそこから広がっていく熱い痛みまで、今まさにその身に起きていることのように感じられ、ウィルは頭を強く降ってその幻想と幻痛を追い払う。
幸い、雨の冷たさがウィルの正気を保つ役に立つ。
ここはあの迷宮ではなく、雨の降りしきる外なのだと。
深くため息を吐き、出会った頃にまた記憶をすり替えて戻す。
あの頃は、ハンスの方が背が高かったとぼんやり思う。
年齢的にはハンスの方が2才年上なだけだったが、初対面のときには随分と大人びて見えた。
その当時のハンスは、7才年下の妹アンナを独りで守り育てていた。
アンナも今のレフと年頃が変わらない子供だったが、兄と2人きりの生活のせいか、彼女もまた歳の割には大人びていた。
そこでふと、ウィルは苦笑いして首を振った。
レフも十分に大人びた子供だ。
今までの苦労がそうさせるのか、自力で生きていけるだけの強かさを持っている。
自分が幼かったのだと、また、家を出た16歳の頃を振り返る。
見知らぬ世界にワクワクしたのは、ほんの数時間程度のこと。
直ぐに先の不安に心細くなり、愚かにも見知らぬ街の真ん中で、知った顔がないかを探した。
そこに降り出した雨。
雨脚の強さに白くけぶる街の輪郭は、今ウィルが記憶の中の街にいるのか、それともニア・ハルマイルに佇んでいるのか、そんなことを曖昧にさせる。
何度目か分からないため息を吐き、まだ降り止まぬ雨を斜めに見上げた。
その視界を、黒い傘の端が遮った。
一瞬、ハンスかと思って振り返る。
だがそこには、訝しそうに眉根を寄せ、ウィルに傘をさしかけるクライドの姿があった。
「ウィルおまえ、何やってんだ?」
「……クライドこそ、なんでこんなとこに?」
現実に引き戻され、気づけばマリ傭兵団はもう目前で、クライドの所属するマルタ傭兵団からも、迷宮の入り口からも離れている。
クライドと行き合わせるには、些か不自然な場所だと、ウィルは軽く首を傾げる。
「そこからの帰りだが、おまえ、レフと帰ったんじゃなかったのか?」
クライドが「そこ」と言って目線で差した先を目で追うと、シモンズアルケミーズの看板が雨の中に微かに見えた。
ウィルはクライドに視線を戻した。
「雨の中わざわざ? 急に必要なもんでも?」
「個人的にちょっと用事があってな。そんなことより、おまえ早く着替えねぇと風邪ひくぞ?」
「あ? ああ、そうだな」
「何を考え込んでたのか知らねぇが、考え事するにしても場所は選べよ。秋の雨は冷たいぞ」
その冷たい雨のお陰で、正常な意識を保ち得たのだとは口に出さず、ウィルはただ頷いた。
マリ傭兵団に目を移して歩き出す。
クライドもウィルに傘を差し掛けたまま横に並び、また口を開いた。
「祭りが近いだろ? 風邪なんかひいてる暇ねぇぞ」
「祭り? ああ、ハルマイルの記念祭か。もうそんな時期か……」
ハルマイルの迷宮が発見された日を記念日として、ニア・ハルマイルで祭りが行われるようになって20年ほどになる。
今年もその日は盛大に祝われ、近在の街や村からも人や出店が出るのだろう。
そんな日があることを、この3年、すっかり忘れていたとウィルは苦笑いした。
それを目の端に捕らえたクライドが、眉を寄せる。
「そんな時期か、なんて呑気なこと言ってねぇで、アンナのこと、早くなんとかした方がいいぞ」
「アンナ? なんで祭りからアンナの話が出てくるんだ?」
「別に祭りは関係ねぇけど……」
クライドはため息を吐き、チラリとマリ傭兵団を見上る。
「とにかく着替えてこいよ。そんでちょっと時間作れ。飲みに行くぞ」
「え? 何で?」
「いいからさっさと着替えてこい。そんで傘も持ってこいよ。デカい男が二人で身を寄せ合って1つの傘なんておぞましい絵面、いつまでも続けんのは御免だからな」
本気とも冗談ともつかぬクライドの言葉に、ウィルは苦笑いして頷いた。
クライドは、アンナのことで何かウィルに伝えたいことがあるようだと、それだけはウィルにもわかった。
「パボの店で待っててくれ。直ぐに行く」
「おっ、それがいいな。なんだったら、シャワーくらい浴びてこいよ。1人でちびちびやってるから」
存外嬉しそうにクライドは笑顔を見せて踵を返した。
そのままクライドは数歩前に出て、不意に振り返る。
「ウィル、お前1人で来んだろ?」
「誰か連れてくると拙い話か?」
「さあ? それは俺には分かんねぇが、ニーナって女の話、もう少し詳しく聞きてぇんだ」
「……分かった。一人で行く」
「ん。ともかく、早く着替えて店に来い。先に行ってんぞ」
乱暴に言葉を投げ捨てるように言い捨てて、クライドは足早に歩き去る。
その背を見送って、ウィルは苦虫を噛み潰したような表情で息を吐いた。
クライドが、ニーナに関して詳しく聞きたいという気持ちは分かる。
ハンスが死の間際に残した名なのだから、ハンスの友人の彼らには重要な名前だ。
だが、ウィルもニーナに関して何も知らないのだ。
首を振り、ウィルは歩き出しながら、クライドがしきりと気にしているアンナのことを思う。
ウィルは、事故以前からアンナの周囲に関して無頓着だった。
自分という恋人がいるアンナに、他の男が言い寄るなどとは思いもしなかったのだ。
また万が一そんな男がいたところで、アンナが承諾するはずがないと盲目的に信じてもいた。
いやむしろ、そうした一切を疑ったことがなかったのだ。
パンと1つ頬を叩いて巡る思考をそこで止め、ウィルは部屋に向かう足を急がせた。
兎にも角にも、クライドと合流してからのことだ。
部屋の扉を開ける。
その途端
「あー!! リーダー! ビショビショじゃん! やっぱり迎えに行けばよかった!」
レフの大声がウィルを迎えた。
思わず苦笑いともつかぬ笑みが浮かぶ。
子供らしさを隠しもせずに大声を上げるレフの、頬を膨らませた表情に心が和む。
「ごめんごめん、直ぐに着替えてまた出かけるから」
「え? どこ行くの?」
「クライドとちょっと飲みに……」
まだ夜には早い時刻に、酒場に飲みに行くということに微かに罪悪感を覚えたが、傭兵には特に珍しいことではなかったと思い返す。
つい最近まで、決まりきった時間割での行動を強要される学生であったせいか、時間の感覚が以前よりも常識的になっているようだ。
そんなことを思いながら着替え始めると、その背後にクリスが声をかけてきた。
「リーダー、昼飯は食ったのか?」
「ああ。シラーを出て直ぐに、ちょっと腹に入れた」
ふぅんと鼻を鳴らすクリスを振り返り、酒の好きなクリスも行きたいのかと様子を見るが、そういうワケでもないらしい。
レフも一緒に行くと言い出すかと思ったが、その様子もない。
それをほんの少し寂しく思いながら、ウィルは手早く着替えを済ませる。
そしてクルリと室内を見回して問う。
「リラは、アンナの部屋に行ったのか?」
「うん。まだ帰ってこないから、きっと仲良くなれたんだと思うな」
「そうか。それは良かった」
思わず笑みが浮かぶ。
リラのためにもアンナのためにも、女友達が出来るのはいいことだと思う。
親しくなれたのなら、その方がいい。
アンナが喪失の苦しみを女友達に打ち明け慰められるのなら、それはとても良いことだとウィルは思う。
だが、自分以外の男がアンナを慰めるのは、今でも面白くないと感じてしまうことを止められない。
笑みが自然にしかめっ面に変わるのを隠すように、ウィルは傘立てに顔を向ける。
「傘借りてもいいか?」
「ああ、適当に持ってけよ。俺たち今日はもう出ねぇと思うし」
クリスの返事に、表情を繕って振り返る。
二人の視線に作り笑いで頷いて「じゃあ行ってくる」と言い置いて部屋を出る。
後ろ手に閉めたドアに背をもたせ、ウィルは小さくため息を吐いた。




