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大迷宮の闇  作者: 文弱
38/45

37.W 雨の街



急に降り出した雨を全身に受けながら、ウィルはため息を吐き出した。

雨が降るような天気でもなかったと、うらめしげに天を睨んでみても雨脚が弱まるはずもない。

仕方なく雨の中を歩きながら、ふと思い出す。


初めてハンスに会ったのも、こんな雨の中だった。

あの日も急に見舞われた強い雨に濡れ鼠になり、家を出された心細さも相まって、泣きたい気持ちで一杯だった。

そこに差し掛けられた傘と、案ずるように見下ろしてきたハンスの緑の瞳が、鮮明に記憶に残っている。

新緑を映したような綺麗な瞳だった。


そう思う側から、鮮明な記憶の中のその瞳が、狂った光を宿したあの日の瞳に塗り替わり、一瞬、自分がどこにいるのか見失う。

眼前に迫る狂気の瞳。

肩に食い込む刃の冷たさとそこから広がっていく熱い痛みまで、今まさにその身に起きていることのように感じられ、ウィルは頭を強く降ってその幻想と幻痛を追い払う。

幸い、雨の冷たさがウィルの正気を保つ役に立つ。

ここはあの迷宮ではなく、雨の降りしきる外なのだと。


深くため息を吐き、出会った頃にまた記憶をすり替えて戻す。

あの頃は、ハンスの方が背が高かったとぼんやり思う。

年齢的にはハンスの方が2才年上なだけだったが、初対面のときには随分と大人びて見えた。

その当時のハンスは、7才年下の妹アンナを独りで守り育てていた。

アンナも今のレフと年頃が変わらない子供だったが、兄と2人きりの生活のせいか、彼女もまた歳の割には大人びていた。


そこでふと、ウィルは苦笑いして首を振った。

レフも十分に大人びた子供だ。

今までの苦労がそうさせるのか、自力で生きていけるだけの強かさを持っている。


自分が幼かったのだと、また、家を出た16歳の頃を振り返る。

見知らぬ世界にワクワクしたのは、ほんの数時間程度のこと。

直ぐに先の不安に心細くなり、愚かにも見知らぬ街の真ん中で、知った顔がないかを探した。

そこに降り出した雨。


雨脚の強さに白くけぶる街の輪郭は、今ウィルが記憶の中の街にいるのか、それともニア・ハルマイルに佇んでいるのか、そんなことを曖昧にさせる。


何度目か分からないため息を吐き、まだ降り止まぬ雨を斜めに見上げた。

その視界を、黒い傘の端が遮った。

一瞬、ハンスかと思って振り返る。

だがそこには、訝しそうに眉根を寄せ、ウィルに傘をさしかけるクライドの姿があった。


「ウィルおまえ、何やってんだ?」

「……クライドこそ、なんでこんなとこに?」


現実に引き戻され、気づけばマリ傭兵団はもう目前で、クライドの所属するマルタ傭兵団からも、迷宮の入り口からも離れている。

クライドと行き合わせるには、些か不自然な場所だと、ウィルは軽く首を傾げる。


「そこからの帰りだが、おまえ、レフと帰ったんじゃなかったのか?」


クライドが「そこ」と言って目線で差した先を目で追うと、シモンズアルケミーズの看板が雨の中に微かに見えた。

ウィルはクライドに視線を戻した。


「雨の中わざわざ? 急に必要なもんでも?」

「個人的にちょっと用事があってな。そんなことより、おまえ早く着替えねぇと風邪ひくぞ?」

「あ? ああ、そうだな」

「何を考え込んでたのか知らねぇが、考え事するにしても場所は選べよ。秋の雨は冷たいぞ」


その冷たい雨のお陰で、正常な意識を保ち得たのだとは口に出さず、ウィルはただ頷いた。

マリ傭兵団に目を移して歩き出す。

クライドもウィルに傘を差し掛けたまま横に並び、また口を開いた。


「祭りが近いだろ? 風邪なんかひいてる暇ねぇぞ」

「祭り? ああ、ハルマイルの記念祭か。もうそんな時期か……」


ハルマイルの迷宮が発見された日を記念日として、ニア・ハルマイルで祭りが行われるようになって20年ほどになる。

今年もその日は盛大に祝われ、近在の街や村からも人や出店が出るのだろう。

そんな日があることを、この3年、すっかり忘れていたとウィルは苦笑いした。

それを目の端に捕らえたクライドが、眉を寄せる。


「そんな時期か、なんて呑気なこと言ってねぇで、アンナのこと、早くなんとかした方がいいぞ」

「アンナ? なんで祭りからアンナの話が出てくるんだ?」

「別に祭りは関係ねぇけど……」


クライドはため息を吐き、チラリとマリ傭兵団を見上る。


「とにかく着替えてこいよ。そんでちょっと時間作れ。飲みに行くぞ」

「え? 何で?」

「いいからさっさと着替えてこい。そんで傘も持ってこいよ。デカい男が二人で身を寄せ合って1つの傘なんておぞましい絵面、いつまでも続けんのは御免だからな」


本気とも冗談ともつかぬクライドの言葉に、ウィルは苦笑いして頷いた。

クライドは、アンナのことで何かウィルに伝えたいことがあるようだと、それだけはウィルにもわかった。


「パボの店で待っててくれ。直ぐに行く」

「おっ、それがいいな。なんだったら、シャワーくらい浴びてこいよ。1人でちびちびやってるから」


存外嬉しそうにクライドは笑顔を見せて踵を返した。

そのままクライドは数歩前に出て、不意に振り返る。


「ウィル、お前1人で来んだろ?」

「誰か連れてくると拙い話か?」

「さあ? それは俺には分かんねぇが、ニーナって女の話、もう少し詳しく聞きてぇんだ」

「……分かった。一人で行く」

「ん。ともかく、早く着替えて店に来い。先に行ってんぞ」


乱暴に言葉を投げ捨てるように言い捨てて、クライドは足早に歩き去る。

その背を見送って、ウィルは苦虫を噛み潰したような表情で息を吐いた。


クライドが、ニーナに関して詳しく聞きたいという気持ちは分かる。

ハンスが死の間際に残した名なのだから、ハンスの友人の彼らには重要な名前だ。

だが、ウィルもニーナに関して何も知らないのだ。


首を振り、ウィルは歩き出しながら、クライドがしきりと気にしているアンナのことを思う。


ウィルは、事故以前からアンナの周囲に関して無頓着だった。

自分という恋人がいるアンナに、他の男が言い寄るなどとは思いもしなかったのだ。

また万が一そんな男がいたところで、アンナが承諾するはずがないと盲目的に信じてもいた。

いやむしろ、そうした一切を疑ったことがなかったのだ。


パンと1つ頬を叩いて巡る思考をそこで止め、ウィルは部屋に向かう足を急がせた。

兎にも角にも、クライドと合流してからのことだ。


部屋の扉を開ける。

その途端


「あー!! リーダー! ビショビショじゃん! やっぱり迎えに行けばよかった!」


レフの大声がウィルを迎えた。

思わず苦笑いともつかぬ笑みが浮かぶ。

子供らしさを隠しもせずに大声を上げるレフの、頬を膨らませた表情に心が和む。


「ごめんごめん、直ぐに着替えてまた出かけるから」

「え? どこ行くの?」

「クライドとちょっと飲みに……」


まだ夜には早い時刻に、酒場に飲みに行くということに微かに罪悪感を覚えたが、傭兵には特に珍しいことではなかったと思い返す。

つい最近まで、決まりきった時間割での行動を強要される学生であったせいか、時間の感覚が以前よりも常識的になっているようだ。

そんなことを思いながら着替え始めると、その背後にクリスが声をかけてきた。


「リーダー、昼飯は食ったのか?」

「ああ。シラーを出て直ぐに、ちょっと腹に入れた」


ふぅんと鼻を鳴らすクリスを振り返り、酒の好きなクリスも行きたいのかと様子を見るが、そういうワケでもないらしい。

レフも一緒に行くと言い出すかと思ったが、その様子もない。

それをほんの少し寂しく思いながら、ウィルは手早く着替えを済ませる。

そしてクルリと室内を見回して問う。


「リラは、アンナの部屋に行ったのか?」

「うん。まだ帰ってこないから、きっと仲良くなれたんだと思うな」

「そうか。それは良かった」


思わず笑みが浮かぶ。

リラのためにもアンナのためにも、女友達が出来るのはいいことだと思う。

親しくなれたのなら、その方がいい。


アンナが喪失の苦しみを女友達に打ち明け慰められるのなら、それはとても良いことだとウィルは思う。

だが、自分以外の男がアンナを慰めるのは、今でも面白くないと感じてしまうことを止められない。

笑みが自然にしかめっ面に変わるのを隠すように、ウィルは傘立てに顔を向ける。


「傘借りてもいいか?」

「ああ、適当に持ってけよ。俺たち今日はもう出ねぇと思うし」


クリスの返事に、表情を繕って振り返る。

二人の視線に作り笑いで頷いて「じゃあ行ってくる」と言い置いて部屋を出る。

後ろ手に閉めたドアに背をもたせ、ウィルは小さくため息を吐いた。



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