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【ハナウタ】

作者: 伊藤あまね。

 どこにでもある、ヒトと物が溢れかえる大都市の繁華街を、エータと言うひとりの青年が歩いておりました。エータは今しがたまで仕事仲間と大量に酒を飲み交わしていたため、したたかに酔っており、足許も覚束ない状態でした。

 職場近くの馴染みの店を数件梯子した所までの記憶はあるのですが、気がつけば彼は全く見憶えの無い繁華街の外れの通りを歩いていたのでした。しかも、彼と共に呑み歩いていた筈の同僚たちの姿はなく、ひとり宛てもなく歩き回っていたのでした。


「さーて…ここはどこだろう…随分酔ってしまったから、いま自分がいる場所もよくわからないなぁ…」


 エータは誰に言うでもなく呟き、辺りを見渡しました。随分歩いたことと見知らぬ道に迷いこんでしまった焦りから、幾分酔いは醒めてはいるようでした。徐々にすっきりし始めてきた頭の中で、エータはここに至るまでの記憶を整理してみる事にしました。

 職場である音楽スタジオを出て、今日のレコーディングの打ち上げにスタジオ近くの大衆居酒屋に入ったのは確かでした。

 その後にすぐ隣の通りにあるバールに入り、そこから更に少なくとも2軒程バーやら居酒屋に入った覚えはありました。

 ただ、3軒目の呑み屋を出た辺りから自分が今現在どこにいるのかを、脳内の地図に想い描く事を放棄してしまったらしく、どうにもその辺りからおかしな路に入り込んでしまった可能性があるようでした。エータは、我が事ながら情けない思いがしていました。

 ひとまずは最寄りの駅から自宅まで戻らなくては…仕事で疲弊した身体を休めるのは自分の愛用のベッドが最適なのですから。

 駅を捜そうと辺りを見渡してはみたのですが、通りには彼以外に人の気配がありませんでした。

 通り自体はきらびやかなネオンライトに彩られて賑やかで、看板を掲げた店の中からは箍の外れた乱痴気騒ぎをする奇声が聞こえていましたが、客引きすらも店に引っ込む程の時間帯であるのか、誰ひとり表を歩いてはいないのでした。

 これはいよいよ一大事です。 エータはすっかり酔いの冷めた頭を抱え込んでしまいました。


 ―――と、その時です。


 どこからともなく、透き通るような美しさを纏った甘い歌声が聞こえてきたのです。

 一瞬、エータは自分の空耳かと思いましたが、顔をあげて辺りを見渡してみると、確かに歌声は聞こえていたのでした。

 どこかのショウ・パブで歌姫が美声を披露しているのだろうと思ったのですが、声は賑やかな店が立ち並ぶ通りとは正反対の方から聞こえているようでした。

 歌声は甘く、まるで見えない糸のようにエータを絡めて捕え、そっとその声のする方へといざない始めました。

 勿論、歌声その物が糸に変化するわけではありませんが、不思議な魅力が彼を惹きつけて放さなかったのです。

 エータが歌声に誘われるのには、歌声の美しさの他にもう一つ理由がありました。それは、彼の仕事に関係がありました。

 彼は、この街で生まれる数多ある音楽の作り手のひとりでした。まだ駆け出しですが、日々音楽に携われることがとてもしあわせでした。今日も、呑み歩く直前までとある新人女性歌手のデビュー曲の制作に携わり、曲をひとつ完成させてきたばかりでした。


「こっち、かな?」


 エータは歌声にいざなわれるままにどんどん通りの奥へ奥へと進んでいきました。周りはきらびやかな看板はなく、街灯がポツンポツンとある程度でした。

 裏通り、とも言える少々狭い路を、エータは何の躊躇いもなく進んでいきました。歌声は、徐々に徐々に鮮明になっているようでした。



 どれぐらい、歩き回っていたでしょうか。エータの着ているシャツが薄ら汗ばむ頃、彼は1軒の店の前に佇んでいました。歌声はここから聞こえてきます。

 店は薄暗く、軒先には何段もの棚が備え付けられていて、そのいずれの棚にも所狭しと土入りの植木鉢が並べられていました。

 店の奥の方には大きな硝子ケースがあり、その中にも植木鉢がたくさん並べられていました。

 花屋、と呼ぶには少々奇妙な店のガラスケースの中に、たった1つだけ花が咲いている鉢がありました。透き通るような甘い歌声は、そこから聞こえていました。

 エータは、我が目…いえ、我が耳、というべきでしょう。兎に角、自分の耳を疑いました。勿論、眼も。硝子ケースの中のその鉢には、子どもの抱き人形程の大きさのちいさなヒトが腰掛けていました。

 そのヒトは、雪よりも白く透けるような肌を持ち、髪は黒曜石をも思わせる豊かな黒髪、頬はほんのりと淡い桃色で、眼元は濃い琥珀色をしていました。

 男性とも女性ともつかぬ中性的な佇まいと、薔薇色の口許から紡がれる歌声の美しさは、エータを魅了するに充分でした。

 これまでたくさんの歌声を仕事柄もあって耳にしてきたエータでしたが、これほどまでに美しい歌声に巡り逢えた事は未だかつてありませんでした。

 なんて美しい歌声…そして姿なのだろう……感嘆の溜息が思わずエータの口から零れ落ちました。



「―――いかがです?お気に召されましたか?」


 歌声だけでなく、硝子ケースの中の不思議な鉢植えの姿にも心を奪われていたエータの背後から、突然声がしました。

 エータは飛び上がらんばかりに驚いたのは言うまでもありません。思わず奇妙な悲鳴をちいさく上げてしまった程です。

 慌てて振り返ると、すぐ背後に頭の上から爪先まで真っ黒な姿をした、こちらもまた男とも女とも判別のつかない銀色の長い髪の人物が佇んでいました。

 銀髪の人物は、エータの様子にくすりと苦笑し、驚かせてしまったことを詫びました。

 その人の名は、レーティクリ、といいました。この店――――一応、聞いたところによると、花屋、と言う事だそうです――――の主だそうです。

 エータが先程奇妙な声をあげたせいか、硝子ケースの中はしんと口を噤んでしまったかのように静かになってしまいました。


「あ、あの…何か俺がびっくりしてヘンな声出しちゃったからかな…歌、止まっちゃったんだけど…」

「ああ、まあそうでしょうね…。しかしそうお気になさらず。落ち着きを取り戻せばまた歌いだしますので。」


 そういうものなのか…?と、エータが半信半疑に頷くと、それを見透かしたように再びガラスケースの中は唄い出しました。

 歌声は、先程と同じ甘く透き通った美しいものでした。再び紡がれ始めた美しい声に、エータはうっとりと聴き惚れていました。


「これは…花、なの?」

「花、と言えばそうなるのでしょうけれど…正式な名は“花歌”と、申します。」

「はなうた?」

「歌う花、と書きまして、特別な技術を持った植木職人たちの手で生みだされた世にも珍しい歌唱植物なのでございます。」


 歌唱植物……仕事柄、エータは音楽に関する噂は色々と耳にすることが多く、その名称もいつぞや聞いた覚えがありました。

 世にも珍しい、自ら歌を唄う花が、この街のどこかで売られている―――はっきりとした目撃証言も購入経験者もいないため、所謂、都市伝説として扱われる下らない噂話の一つだと彼は耳にした当初は思っていました。植物が唄うなんて、と。

 しかし、いま彼の目の前では確かに土の盛られた鉢に腰かけたちいさなヒトがこちらに微笑みかけながら歌っているのです。

 言われてみれば、花歌と呼ばれるそれは、確かに花弁の様に美しい色合いの服を纏っていました。

 子どもの頃に読み聞かせてもらった、お伽噺に出てくる妖精の姿を彷彿とさせる、と、エータは思いました。

 唄う花、花歌はすっかり彼の中の疑心を掻き消していました。


「花歌、ってやっぱり育てるのが難しいんだろうね。」

「いいえ、それほどでも。極端な温度変化と乾燥には弱いですが、この街の気候であれば問題はございませんよ。一日に3度、一晩置いてカルキなどを抜いた綺麗な水をたっぷりと与え、週に1度肥料として特別な飴玉を与えれば充分です。」

「特別な飴玉?それって鉢に植えたり?」

「人も、唄うためには喉の手入れが重要でございましょう?ですから、そういったケアを行うための物なのです。与える際はこうして…口に運んでやればよいのです。」

「へぇ…自分で食べるんだ…」


 レーティクリが懐から七色に煌めく、米粒ほどの大きさの飴玉がたくさん詰まった小瓶を取り出し、その中のひと粒を、硝子ケースの中の花歌に差し出しました。

 花歌は差し出された飴玉を、ちいさいながらも目一杯開けた口でぱくりと喰い付き、とても美味しそうに頬張っていました。からころと飴玉が花歌のちいさな口の中で転がる様に耳を傾けながら、エータはその愛らしさにますます魅了されていました。

 正直な気持ちを吐露してしまえば、彼の心はすっかり眼前の花歌に奪われていました。

 しかし同時に、自分の身の丈に合わない代物である事も重々承知していました。

 そんなエータの胸中を知ってか知らずか、レーティクリは更にこう付け加えました。


「こちらの花歌はキファ、と申しまして、花歌の中でも超一級品の代物でございます。」

「キファ…」

「これの最大の特徴は、先程お聴き頂いた歌声と、この黒曜石の様な黒い髪。これほどの花歌は10年にひとつの逸品とも言われております。」


 レーティクリから眼前の花歌―――キファの話を聞くにつれ、エータはそれがますます欲しくなっていました。


「お気に召されましたか?」

「うん…だけど、俺みたいな安月給には手が出ないだろうから、遠慮しとくよ。」


 エータは自分の職業の話を簡単にしました。まだまだ駆け出しで、日々の生活を回していくだけで精一杯の給与しか手許にはないという事も。

 エータの話を聞いて、レーティクリは懐から取り出した小さなメモ帳の様な物に何かを書きだし、それをエータの前に差し出してきました。紙面には様々な数字…金額が羅列されていました。金額は、この花歌にかかるであろう最低限の費用を書きだしたものでした。

 具体的に示された金額に、エータは驚きました。自分には不相応だと思っていた物が、存外手が届かない事はないものであると知ったからです。


「え…10年にひとつ、なのに、こんなに手ごろな物なの?」


 思わずそう聞き返したくなるほど、示された金額は彼にでも支払いが可能と思われる額でした。

 エータの疑問を、レーティクリはこう教えてくれました。


「花歌は、とても繊細で、一般的な植物以上に持ち主からの愛情を欲しております。先程、綺麗な水を与え、肥料を時々与えるだけでよいと申しましたが、それらと同じ…いえ、それ以上に持ち主からの愛情を与えなくてはなりません。殊にこのキファは、まあ、所謂寂しがりな性質でして…少しでも持ち主の気が自分から逸れると、たちまちに萎れてしまうとのです。」

「萎れる…って、ことは…花歌は、死んでしまうってこと?」

「まあ、見た目がヒトの様ですので言われる場合もございますね。花歌には寿命がございますが、その長さは持ち主の手入れ次第でいかようにも伸び縮みいたします。愛されれば愛される程、これは主人を癒す美しい歌声を紡ぎ、魅了する姿を保ち続けると言われております。」

「でも…やっぱりいずれ枯れる事はあるんでしょ?」

「ええ、勿論、生きとし生けるもの寿命があるのですから。ただ、愛されていると花歌が自覚していた場合、“種”ができると聞いております。」

「“種”…それって、植えたら、また花歌が出てくるの?」

「さあ…私はただ職人たちが丹精込めて育てた花歌を引き取り、ここで本当の持ち主に引き渡すだけの者に過ぎませんから、そこら辺の事はあまり詳しくは存じておりません。」


 自分の愛情如何でその命の長さを決定づけると聞き、エータは一層悩みました。何故なら、耳にしてしまった歌声とそれを紡ぐ姿は、命の長さを決めるという重たい命題と天秤に掛ける事も躊躇われない程に魅力的だったからです。

 レーティクリの話から察するに、このキファとやらは些か気難しい性質の花歌らしく、それ故買手がないのだろうとエータは考え、レーティクリに訊ねました。

 エータの推測は概ね当たっていたようで、レーティクリは大きく頷きました。そして、こうも言葉を付け加え、ますますエータを悩ませました。


「花歌は自ら持ち主を選ぶと言われておりまして…そのお目当ての持ち主のお迎えが近くなりますと自然と芽吹き、蕾を付け、やがて花開くのです。」

「自ら、選ぶ…って…ことはこのキファとやらは、もしや…」

「ええ、お察しの通り、お客様がご来店されるのを知っていたかのように一昨日辺りに芽吹きまして、お客様が来店されると同時に開花いたしました。」


 なんということか…!エータはレーティクリの言葉に驚きを隠せませんでした。ただ酒に酔って道に迷ったとばかり思っていた事が、実は予め花歌の意思によって導かれた物であっただなんて到底信じられなかったからです。

 けれども、信じがたい運命と言う物をも納得させられてしまう程に、硝子ケースの中で唄うキファの歌声は素晴らしいものでした。

 この歌声は自分のためだけに紡がれているのだ……そう、エータが思い至った途端、もう迷いも躊躇いも彼の中にはありませんでした。


 こうして、エータは、彼の半年分の稼ぎにも当たる金額を支払って、キファをレーティクリから買い取ったのでした。



 エータのちいさなワンルームマンションの部屋に迎えられたキファは、程良く陽のあたる風通しの良い窓際にその鉢が置かれました。

 花歌は唄う事は出来ても話す事はできません。しかし、言葉を操るように歌声を操り、持ち主の心情を汲み取ることができると言われているそうです。

 朝昼晩と、よく肥えた土に、一晩汲み置いておいた水をたっぷりと撒いてやると、キファは愛らしい頬をほんのりと紅潮させて微笑みました。そして水を貰った礼か、水を得た悦びを表すためか、キファは水やりをすると必ず澄んだ瑞々しい声でのびやかに唄いました。

 歌声は、朝、耳にすればすっきりと目覚めるような感覚を、昼間耳にすれば午後からの活力を、夜に耳にすれば一日の疲れが解けていく程の癒しを得るような、とても不思議な効用をエータのもたらしてくれました。

 そしてその不思議な効用は、みるみるまに彼を健康な働き者へと変貌させたのでした。


「エータ、今日この後みんなでこの前の店に行こうと話しているんだけれど、君も来るだろう?」


 キファを家に迎えるまで、エータは仕事帰りは先日の様に仲間と酒を飲み歩いて最終列車に慌てて飛び乗るという毎日でした。夜明けごろに家に辿り着き、入浴もろくにしないままベッドに潜り込み、仕事の始まる昼ごろまで眠りこける不健康極まりない毎日でもありました。

 今までであれば、仕事仲間のイオタやシェリアクからの誘いの言葉には二つ返事で快諾していました。

 しかし、いまの彼は健康な働き者になったのですから、仕事が終われば向かう所は当然酒の出る賑やかな店ではありませんでした。

 イオタからの誘いの言葉に、エータは済まなそうに苦笑して断りの言葉を述べました。

 それまで誘いには二つ返事で応じていた彼からの断りの言葉に、イオタは当然驚きました。


「エータが酒を呑みに行かないだって?一体全体どうしたっていうんだ?」


 天変地異の前触れかとでも言いたげな大袈裟なイオタの驚きぶりに、エータは苦笑して詫びの言葉を述べ、仕事場を後にしました。


「おい、シェリアク。エータが吞み会の誘いを断ったぞ。」

「なに?それは一大事だな…」

「今日に限らず、この所いそいそと家路についているよな…」

「…恋人でもできたのかもしれないな…」

「いそいそと家に帰りたくなるような?」

「おう。それも、とびきりの美人で、気立ても良くて、料理も美味いとくるような稀代の逸品とも言えるような恋人だろうな。」


 シェリアクの推測にイオタは大いに頷けると思いました。それぐらい、エータの変わり様は眼を瞠る物があったのです。

 エータ、イオタ、シェリアクは、同じ学校に通う頃からの親友…と言うよりも悪友で、そしていまは大切なバンド仲間です。昔からそれぞれに隣に恋人らしき存在がいる事も時々ありましたので、今回の様に仲間よりも恋人を取る事は珍しくはありませんでした。

 3人はそれぞれのかつて恋人ができた時、どんな風に普段と様子が変わるのかクイズを出されても全問正解ができる自信がある程よく知っていました。

 ですが、このところのエータの様子はこれまで知る中でも顕著なものでした。少なくとも、イオタとシェリアクの見ている限りでは。

 ですから、2人は、エータによっぽどの恋人ができたのだろうと考え至ったのです。


「…ひょっとすると、来年の今頃には俺たちでお祝の歌でも作って唄ってやらなくちゃいけないかもしれないな…」

「…場合によってはご祝儀に出産祝いを追加する羽目になるかも知れんな…」


 それまで同じように毎夜のように呑み歩いていた仲間のひとりがぴょいと一歩先に進んでしまった現実に、2人は戸惑いつつも、祝福をする心積もりでいました。何せ彼らは昔馴染みの悪友なのですから。


 しかし、イオタとシェリアクの推測は、大筋は合っていましたが、肝心要の処が違っていました。

 それは、エータがいそいそと帰路に就く理由が、恋人の所為ではなく、花歌の存在であったからです。



 悪友らの戸惑いと羨望と祝福を混ぜ合わせたような複雑な想いなど露とも知らないエータは、鼻歌交じりで歩きながら自宅へ向かっていました。

 帰宅の挨拶もそこそこに、エータは窓際に置かれている鉢に腰かけているキファに微笑みかけます。しばし見つめ合い、「ただいま、キファ」と、改めて丁寧に挨拶をするのがこのところの日課でした。

 エータが帰宅すると、キファはこの頃何かを強請るような甘い調子で唄い出す事がありました。

 どうしたことだろうかとエータは最初不思議に思っていたのですが、それがキファからの水や肥料の催促であることにすぐに気がつきました。甘い歌声を聴きながら、エータは汲み置いておいた綺麗な水をちいさな硝子コップに注ぎ分け、その中身をそっとキファの鉢へと撒きました。

 朝、出掛けしなにたっぷりと与えた筈の水はすっかり乾いてしまっていたらしく、撒いた水はたちまちに土に吸い込まれて行きました。

 続けてもう1杯、2杯と水を撒く間、キファは鉢の縁に腰かけながら鉢の中へ向き直り、湿り気を帯びていく自らの足許をうっとりと眺めていました。乾きが潤される事はキファにとって空腹を満たす事と同じでした。

 水撒きの後、満たされたちいさな身体でいっぱいに伸びをすると、キファは先程までの甘い調子の声よりもうんと瑞々しい声で唄い始めました。


「ああ、本当にいい声だね…愛してるよ、キファ。」


 風呂上りの軽い晩酌の酔いも手伝って、エータは普段口にしない様な甘言を囁いていました。

 囁かれたキファは、言葉の意味を既知しているのか、途端に耳の端まで真っ赤に染まりました。そして一層甘く唄いました。白く透けるような肌がほんのりと紅色に染まっていく様は、さながら美しい花が蕾を綻ばせるのをみているような奇跡の瞬間だとエータは思っていました。



 エータは、とてもしあわせでした。しあわせな気分になると身体の動きが軽くなり、それに伴って仕事をこなしていくスピードも上がっていきました。なにより、彼の本業である音楽を作るという作業において、こういった清々しささえ覚える気分はとてもいい効果をもたらしてくれました。

 キファが家に来て暫く経つと、エータが作った曲はどれも仕事場の仲間に好評を得るようになりました。

 仲間に曲が評価されると、時折街の演劇場やバーなどで開かれる演奏会でたびたび披露される機会が増えました。


「今回の曲も大好評だったな、エータ。」

「最近付き合いが悪いと思っていたけれど、こんなにいい曲ばかり作ってくれるのなら文句を言う気にもならないな。」


 演奏会の評判が評判を呼び、会場はいつもお客さんでいっぱいになる日が続いてしました。エータをはじめとするバンドのメンバーは有頂天でした。メンバーに褒めちぎられて、エータは照れながらも嬉しい気持ちでいっぱいでした。

 キファの歌声を聴いていると、彼は頭の中に次々と新しい旋律が浮かんだのです。いくつもいくつも、湧水の様に。浮かんだそれらを音符に起こして曲として編み直しただけに過ぎませんでしたが、どれも素晴らしい音楽であることに違いはありませんでした。

 イオタやシェリアクらは、大方、エータに新しい恋人ができたんだろうと思っていましたので、相手を紹介しろ、お披露目しろとからかいました。


「いやいや、みんなが思うような素敵な恋人なんて俺はもう何年もいないよ。それは2人ともよく知っている事じゃないか。」

「またまたそんな見え透いた嘘を。なあ、シェリアク。」

「そうそう、イオタの言うとおりだ。愛しい存在なくしてあんないい曲が作られるものか。」


 エータがどんなに違うと言っても、2人をはじめとするバンドのメンバーは信じてくれませんでした。

 でも、だからと言って、彼はみんなにキファの事を話す気にはなりませんでした。何故か、その事は自分だけの秘密しておこうと思ったのです。

 なのでエータは、その通りかもしれないと頷いておくことにしました。素敵だなと思うヒトがいるよ、と。それは間違ってはいない気持ちでもありましたから。

 ようやくその言葉でみんなは納得し、そして新たなからかいの種を得たとばかりに彼をひやかしました。エータはそれを甘んじて受けることにしました。

 エータにとって、キファはもはやただの観賞用の歌唱植物と言う存在ではありませんでした。やはり、みんなの言う通り、恋人の様だと思えました。ちいさくて美しい声で歌声を紡ぐ愛しい存在の事を想うだけで、エータの胸は甘い花の蜜で満たされた気分になる程にしあわせでした。


 作った曲はどれも評判で、それらを演奏する会は大入り満員で、駆けだしで無名だった彼は、いつの間にか街で評判のアーティストになっていました。

 街には彼が作った音楽が溢れ、人々はそれらをこぞって聴きました。そうするとますます評判になって人気者になっていきました。



 いまや街で知らぬ者はない程に有名になったエータは、ひとりの音楽家として忙しい日々を送っていました。

 家は、狭いワンルームからひろい高層マンションの一室を買い上げた物に変わりました。

 エータは、その大きな陽の光が燦々と降り注ぐ窓辺にキファの鉢を置きました。そして、取り寄せた特別綺麗な水を惜しげもなく与えました。

 肥料である飴も、レーティクリに頼んで上等な物を取り寄せてもらうようになりました。エータはそれを3日に1度与えるようになっていました。

 特別きれいな水と上等の飴を与えられたキファは、以前にも増して艶々とした花弁の様な服を纏い、黒髪を一層豊かに揺らしていました。歌声もいつ聴いても瑞々しく美しいものでした。

 でも―――――その一方で、このところのエータは落ち着いてキファの前に座り、じっくりと歌声を聴く暇もない程に忙しい日々を送っていました。

 1日の終わりに、必ず綺麗な水と時々飴を与え、満たされたキファの歌声をささやかな晩酌をしながら聴いていたエータは、最早どこにもいません。

 仕事がとても忙しくなり、仕事場に缶詰めになってなかなか帰れない日が増えてきました。帰って来てもほんの数時間と言う事もありました。ほんの僅かな時間でも、エータはキファに声を掛けてくれてはいましたが、それすらもここ数週間ほどは途絶えがちでした。

 駆けだしの頃とは違った忙しさで毎日くたくたになるまで働き、駆けだしの頃とは違って高級な店を、エータは毎晩呑み歩くようになっていました。


 そうして、あんなに大切にしていたキファの歌声に耳を傾ける至福のひとときは、そこで得た幸福感は、瞬く間に朽ちていったのでした。



 ―――記憶があやふやで定かではありませんでしたが、少なくとも半月近くは自宅にろくに立ち寄っていなかったことを、エータは思い返していました。

 最後にきちんと向き合って、甘言を囁き、微笑んでいたのがいつだったのか……エータは、もう、思い出す事も出来ませんでした。

 最後に名前を、呼んだのはいつだったでしょうか?自らの手で水を与えたのは?さっぱり、何ひとつ、思い出せませんでした。

 何ひとつこの頃の事は思い出せませんでしたが、いま、眼の前にある光景の原因がこの頃の自分にあることを、エータは痛いほど解っていました。


「―――――…キファ…?」


 花歌は呼ばれても返事はしません。ヒトの様な言語を持っていないからです。

 しかし、呼ばれれば振り返り、微笑む事はありました。

 花歌は話しかけられても答えることができません。言葉の代わりに美しい歌声を持っているからです。

 ですから、キファは、エータに名を呼ばれれば、ほんのりと頬を染めて微笑んで返していました。彼の名を甘く囁くように。

 だけど……いまはもう、その微笑みはどこにもありませんでした。

 あるのは、鉢の中の土と同じような色に変わり果てた朽ちた色合いの服を纏った、ちいさくちいさくなったキファの姿でした。透けるほどに白く美しかった肌も、甘言ほんのりと染まっていた紅の頬も、美しい歌声を紡いでいた唇も、黒曜石の様な髪も、もうありません。

 キファの美しかった筈の全ては、土塊と同じ色に変わり果てていたのです。


「キファ…!」


 悲鳴のような声をあげて、エータは窓辺に置いた鉢に駆け寄りました。触れてみると、素焼きの鉢に詰められた土は、どれもカラカラに乾いていました。

 掌でそっと抱きかかえるようにキファの身体を起こしましたが、琥珀色の瞳が再び彼の姿を映し出す事はありませんでした。

 ちいさな身体をやさしく揺すってやっても、いくら名を呼んでも、閉じられた唇が開き、歌声が紡がれる事はありませんでした。

 エータは、自分が招いた取り返しのつかない事態にただただ呆然としているだけでした。

 ほんの数カ月忙しくしていただけだったのに―――そう、考えた彼の頭の奥から、初めてキファに出逢ったあの日に聞かされた言葉を思い出していました。


“殊にこのキファは、まあ、所謂寂しがりな性質でして…少しでも持ち主の気が自分から逸れると、たちまちに萎れてしまう――――”


 どうして自分の様な駆けだしの音楽家でもキファを手に入れられたのか、彼はようやく思い出していました。そしてそれを守らなかった故に、掛替えの無い歌声をなくしてしまったのだ、とも。

 悔やんでも悔やみきれない、己を責めてもどうにもならない結末を招いてしまった事に、エータは行き場の無い悲しい思いを抱いていました。

 言い知れない悲しみと自責の想いが入り混じり、それはやがて彼の眼から頬を伝って流れていきました。あとからあとから、想いは滴り落ちていき、カラカラに渇いてしまったキファの躯の上に降り注ぎました。もう、飲み干す事は出来ないのに。

 キファの名を叫ぶように呼びながら、エータは随分と長い事泣いていました。悲しみに満ちた彼を癒す歌声は、どこからも聞こえてはきませんでした。


 それから、三日三晩、寝食も忘れて泣き続けていたエータは、ようやく思い立って、とある場所へ向かいました。

 青い満月の夜、綺麗な大判のハンカチに鉢をひとつ、丁寧に包んで、ひとり出掛けて行きました。



「―――そうですか、枯れてしまいましたか…」


 久し振りに訪れた店の奥にあるちいさな応接間の様な場所で、エータはレーティクリと向かい合って座っていました。2人の間には鉢がひとつ置かれています。

 萎れてしまった花歌は、数日が経つと土と同化してしまうため、いまはもうキファの躯は影も形もありません。僅かに枯れた草が植わっているだけです。

 エータは、キファがこうなってしまったのは自分が原因だと言いました。忙しさにかまけて世話を蔑にしたこと、寂しい思いをさせ続けたことも。


「本当に、本当に…キファにも、キファを俺に引き渡してくれたあなたにも申し訳ない…なんと詫びたらいいのかわからない…」


 お詫びの言葉をなんとか口にしながらも、エータは悔恨の涙を止めることができませんでした。言葉を発するたびにあとからあとから溢れてくるのです。

 何日も放って寂しい思いをさせ続けた自分のことを、キファはきっと憎んだり恨んだりしているだろうとエータは考えていました。愛しているなんて囁きながらも、結局は忙しさにかまけてほったらかしてしまった自分など、きっとそう思われているに違いない、と。

 身を切られる程に悲しい事でしたが、自らの罪を鑑みれば当然だと彼はレーティクリに言いました。そして外聞なく激しく泣きました。

 どんな蔑みの言葉でも受容れる、と、腹を括っていたエータに、キファの居た鉢のあちこちを眺めていたレーティクリは思い掛けない言葉を言いました。


「あなたがキファを心から愛していたことは、キファにも十分伝わっていると、私には思われますよ。」

「……え?どうして、そんなことがわかるの?」

「この草の下を覗いてくださいませ。」


 キファの死を悔やむエータに、レーティクリは鉢の中に残っている枯れた草の下を覗くように促しました。

 言われるままにエータは鉢に手を入れ、枯れた草を丁寧に除けながらその下の土の辺りを探りました。

 すると、草と土の間の辺りからちいさなビー玉の様な丸い粒が出てきました。粒は黒く、所々琥珀と乳白色が渦状に混ざり合っていました。

 これはなんだろうかとエータがレーティクリに訊ねるように掌に乗せて差し出すと、レーティクリはやさしく微笑んでこう答えました。


「それは、キファの種―――花歌の種、でございます。」

「種…?!」


 花歌は愛されていないと種を残さない物だと、最初に逢った時にレーティクリが教えてくれた事がありました。だから、エータはいま本当に驚いていました。キファに寂しい思いをさせて枯らせてしまったのに、愛された証の種が遺されているなんて、と。

 一果の宝石の様なちいさな種は、確かにどことなく人恋しげで、キファの雰囲気を漂わせている気がしました。


「貴方は充分にキファを愛していらっしゃったのでしょうね。」

「でも、俺は…キファをほったらかしにして…」

「本来、花歌は放置されてしまったと、愛されていないと自覚してしまうと、種は勿論残りません。根ごと朽ちてしまうからです。」

「根ごと…?じゃあ、そうやって枯れた花歌は、二度と…」

「ええ、芽吹く事も咲く事もありません。絶えてしまうのです。しかし、愛されながら天寿を全うしたと悟った物は、根を残して枯れるのです。」

「天寿…ってことは、キファは、寿命だったってこと?」

「ええ、まあ、それが今回の大きな原因でしょう。とても気難しい花歌でしたからね、キファは……長く買い手がつかず、あなたに出逢わなければこの店先で種のまま朽ちてしまっていたかもしれません。そうした物も、実は少なくないのです。ですから、その直前に貴方の様な方に出逢い、貴方の家に迎えられたキファは大変幸福だったと思いますよ。」


 こんなに立派な種を遺しているのですから、間違いございませんよ、と、レーティクリに微笑み掛けられて、エータはまた涙を溢れさせました。最期に寂しい思いはさせてしまったかもしれないけれど、それすら霞む程に自分はキファを愛してやれていたのかとようやく認められたからです。

 はらはらと種や鉢の上にエータの涙が降り注ぎ、カラカラに乾いていた土の表面が僅かに潤いを取り戻していました。


「もう一度、キファを芽吹かせ、今度こそ存分に、悔いのないよう愛情を注がれてくださいませ。」


 かつてキファが植えられていた土に新たな物を少々加え、そこに種を植えながらレーティクリがエータに言いました。

 勿論だと言う様にエータは頷き、レーティクリの店を後にしました。手には、丁寧にハンカチで包まれた鉢を抱えて。



 それから再びキファがエータの前に現れたのはふた月程経った、夕暮れの綺麗な日だったとか。

 黄昏色に染まるキファの生まれたての笑みは、待ち焦がれていたエータの心を蕩かせるに充分でした。

 真新しい髪や頬に触れ、もう二度と寂しい思いはさせないと誓う様に、エータはキファと口付を交わしました。



 ちいさなその誓いの通り、エータは二度とキファをほったらかしてしまう事も寂しい思いをさせる事はありませんでした。最上の持ち主に巡り合い、惜しげもなく注がれる愛情を一身に浴びていたキファは、花歌の中でも屈指の長寿だったということです。


 ヒトと欲望が渦巻く、どこにでもある街のどこにでもいる青年と、花歌の話はこれでお終いです。


<終。>


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― 新着の感想 ―
[良い点] とても優しいおとぎ話を読んでいるようでした。枯れてしまったのは残念ですがきっと美しい花が再び芽吹くのでしょうね。 文章も丁寧でとても読みやすかったです。 [一言] 拝読させて頂き誠…
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