1. ティアナの孤独
「っく、うう……」
ティアナは苦痛に声を漏らすがそれを聞くものは誰もいない。
瘴気の濃いこの場所で生きている人間など他にいる筈もなく、声と言えば時折、怪鳥の甲高い不気味な鳴き声が響くばかり。
それもそうだろう。ここは敵の本丸、魔王城のほんの目と鼻の先なのだから。
もう何回挑んだことだろう。
何度も魔王に挑んでは命からがら逃げ延び、この森の中の泉――不思議と魔物が寄ってこない――まで戻っては動けるまで自身を回復させた。
動けるようになったら、人類の最前線の街まで戻って仲間に「また駄目だった」と報告しなければならない。
そしてまた呆れたように失笑されるのだ。
ティアナは気が重かった。
「救国の乙女が聞いて呆れる」「予言が間違っていたんじゃないか」と罵倒されても謝ることしか出来ない。
だって彼らの言う通りなのだから。
魔王を倒して、世界を救うのが自分の役割なのに、それが出来ないなら生きてる価値なんてない。
なんとか頑張らないと。
それに、ティアナは仲間の一人である恋人のクラウスに見直してもらいたかった。
彼は魔王領に隣接したシュピラーレ王国の王子だ。ティアナが失敗すれば、彼の国は甚大な被害を受ける。
ティアナは空を見上げた。
魔王が復活してから赤く染まった月は、ほぼ満ちようとしていた。
予言では、あの月が満ちた時、魔物の氾濫――スタンピードが発生し、近隣の国々は蹂躙されるだろうと言われている。
満月まで、後数日。もう時間がない。はやく魔王を倒さないと。
そのためには、街まで戻って聖女ユーリアに完全に回復して貰わないといけない。
彼女に回復してもらえるのは有り難いが、傷を負った時か、それ以上に激痛が走る。
ティアナは何もかもに嫌気が差しかけ、思わず泣き言を漏らす。
「うう……もう、疲れたなあ……」
「じゃあ、やめちゃえばいいんじゃない?」
誰も居ない筈のこの場所で、聞き覚えの無い声が響く。
ティアナは咄嗟に身構え、腰に佩いた剣を抜いた。
治りきっていない体が悲鳴をあげているが、知ったことではない。
「はは、勇ましいなあ。そんな身構えなくてもいいよ」
カサカサと頭上から音がし、何者かが木から飛び降りてきた。
ティアナはゆっくり後ずさる。
謎の人物は苦笑しながら言った。
「大丈夫だよ。僕はエルフだ。ほら、回復してあげるからこっちへおいで」
確かに、その男はエルフの特徴である長く尖った耳と、金に輝く髪、深い森のような色の瞳を備えていた。
エルフは闇に屈しない種族として知られる。本当にエルフなら敵ではないだろう。
ティアナはこっそり探知の呪文を男に向かって唱えた。
幻覚魔法や変装魔法を使っているならこれで見破れるが――結果はシロ。彼はそういった魔法を使っていない。
ティアナは肩の力を抜き、剣を収めた。
エルフはティアナに歩み寄ると、口の中で小さく呪文を唱えた。
瞬間、ティアナは温かな光に包まれ、光が消えると傷が全て癒えていた。
「嘘、回復魔法なのに痛くない……」
それを聞いたエルフは怪訝な顔をする。
「え? 回復魔法が痛いなんて聞いたことないけど……」
「そ、そうなんですか……? いや、そんなことは良くて。あの、助けていただいて有難うございます。私はティアナって言います」
「ティアナはなんで、一人でこんなところに居るんだい?」
「それは……あの……。わ、笑わないで欲しいんですけど……。私が、『救国の乙女』だからです……」
ティアナは恥ずかしそうな顔で言ったが、エルフは答えなかった。
無言のまま不快感をあらわにしたエルフを見て、ティアナは焦って言い募る。
「ごめんなさい! おかしいですよね! こんな弱そうなのが『救国の乙女』だなんて! 自分でも正直本当かなって思ってるんですけど、そう予言されてたみたいで――」
「何もおかしくないよ。ティアナが相当修練を積んでいるのは一目見ればわかる。違う、そうじゃなくて、なんで一人でこんなところにいるんだい? 仲間は居ないの?」
「います……。近くの街に……。そこまで戻って回復してもらう予定でした……」
「……なんで一緒に来てないんだい?」
「私が『救国の乙女』だからです……」
「はあ?」
エルフはその彫刻のような端正な顔を思い切り歪ませ、不快感をあらわにした。
「なんでそうなる訳?」
ティアナは焦って今までの経緯を話し始めた。
なんでこのエルフは怒っているんだろう、と微かに疑問に思いながら。
◆◆◆
闇が世界を覆い、人類が絶望の淵に立たされた時、三人の勇士が立ち上がった。
騎士クリストフ。賢者ヴァーリ。そして、勇者エーファである。
三人は力を合わせ闇を打ち破り、世界に平和をもたらした。
ヴァーリは何処かに姿を消したが、愛し合っていたクリストフとエーファは結ばれ、シュピラーレ王国を建国し初代国王と王妃となった。
晩年、エーファは病で息を引き取る前、ある予言を残した。
「世界が再び闇に覆われる時、私は生まれ変わって再びこの国を救うでしょう」と。
子供でも知っているおとぎ話だ。おとぎ話の筈だった。
ある日、ティアナが突然王宮の広間に召喚されるまでは。
「おお! 召喚が成功した! 予言は本当だったのだ!」
口々に喜びを囁きあう人々に囲まれ、ティアナは何が起こったのかわからなかった。
王宮の一室には建国当初から魔法陣が設置されている。
世界に危機が迫った際に勇者の末裔――王家のものの血を垂らせば、勇者の生まれ変わり『救国の乙女』が召喚されると言い伝えられていた。
魔王が復活したと報告を受けたこの国の上層部は物は試しと召喚の儀式を行ったのだという。
そして、シュピラーレ王国の辺境の森に一人で暮らしていたティアナが召喚されたのだった。
「君が『救国の乙女』だね? 魔王討伐の旅に出る際は私も一緒に行くことになってる。……よろしく頼むよ」
そういって、闇夜の様な黒髪にアイスブルーの瞳を持つ青年――クラウスはティアナに微笑みかけた。
それがシュピラーレ王国第一王子クラウスとの出会いだった。
自分が『救国の乙女』だと言われ始めは戸惑ったが、魔王を倒せるのは自分しかいないと聞かされ、それなら仕方ないと腹を括った。
何もかもが不慣れなティアナを細かくサポートしてくれたのがクラウスだった。
剣の扱い、魔術の扱い方、上流階級のマナーなど、経験がないことばかりだったので最初は戸惑ったが、何もかもあっさり上達していった。
まるで、一度習得したことを思い出すかのようだった。
その過程で、クラウスと次第に思い合うようになり、やがて恋人になったが、それを歓迎しないものもいた。
それが聖女ユーリアだった。
彼女は貴族の出で、その類まれな光の魔力から聖女と呼ばれ人々から崇められていた。
ユーリアはクラウスに思いを寄せていたようで、政略的に見ても、こんな状況でなければとっくに婚約を結んでいたらしい。
「クラウスとユーリアは元々両思いで、それをティアナが我儘を言ってクラウスを側に置いている。クラウスは仕方なく付き合っているに過ぎず、躾のなっていない野猿のようなティアナに手を焼いている」
そういった噂が、気づけばまことしやかに囁かれていた。
貴族は勿論、使用人たちから小馬鹿にされるようになるまで時間はかからなかった。
クラウスがそれに気づかない筈がない。
しかし彼は言った。
「まあ、多少は仕方ないだろう。君の頑張りが足りないんじゃないか? 文句を言わせないように全てを完璧にこなせばいいだけのことだ。『救国の乙女』なんだから。……大丈夫。私だけはティアナの味方だよ」
そうなのかもしれない、とティアナは思った。
もっともっと頑張って、その肩書に相応しい立派な人間になれば、きっとみんな認めてくれるに違いない。
それに、自分にはクラウスはついている。そう思ってより修練に力を入れた。
勿論、「みんなに認められる日」等来なかった。
そして、ついに魔王討伐へ向けて旅立つ時が来た。
ティアナとクラウス、そしてユーリアの三人だった。
初めての戦闘の前、ユーリアとクラウスは言った。
「わたくしが倒れると回復をする人間が居なくなってしまいます。安全のため、わたくしは後ろで待機しておりますね」
「ティアナがメインで戦ってくれ。それくらい出来るだろう? 『救国の乙女』として経験を積む必要がある。――これは、君の為に言ってるんだよ?」
始めは良かった。敵は弱く難なく倒せたし、大きな負傷をすることも無かった。
しかし、魔王城に近づくにつれ敵もどんどん強くなる。
ある日ついに、ティアナが戦闘不能に陥ってしまい、クラウスとユーリアに戦わせることになってしまった。
なんとかその敵は倒せたが、戦闘後、ティアナはクラウスに叱られることになる。
「君がもっと頑張っていれば、私もユーリアも戦わずにすんだんだ。『救国の乙女』なんだから、あれくらいの敵に苦戦してるようじゃ駄目だ。もしかして手を抜いているんじゃないのか?」
そんなことはない、と必死に否定した。
クラウスは溜息をついた。
「サボり癖がつくようじゃ困るんだよ。口ではなんとでも言える。信用を取り戻したかったら、態度で示すんだな」
ティアナはクラウスに失望されたくなかった。
その次の戦闘では、より強い敵をなんとか一人で倒しきった。
クラウスは喜んでくれた。
「さすが、私のティアナ。よく出来たね。愛してるよ」
嬉しかった。もっともっと頑張ろうと思った。
どんどん敵を倒して、剣の腕も魔法の腕も向上させた。
傷を負ってユーリアに回復してもらう際、酷く痛むのが嫌で回避技術も上がった。
それに、自分が頑張ればクラウスは笑ってくれる。
ティアナはそれだけで良かった。
たまに失敗すると、クラウスは眉をひそめ小さく溜息をつく。
それを聞くとティアナは動悸がした。
何か言われる前に自分から反省点を述べて謝る癖がついた。
ちゃんと謝れるとクラウスの機嫌は良くなる。
どんな敵よりも、クラウスを失望させることのほうが、ティアナには恐ろしかった。
遂に魔王城の近く、人類の最前線の街まで来た時、クラウスは言った。
「ティアナ、遂に魔王に挑む時が来たな。大丈夫。私はここで待っててあげるから。戻ってきたらユーリアも回復してくれる。ちゃんと倒してくるんだよ」
◆◆◆
「それが一週間前です。……あ、あの、グズグズしすぎですよね? ごめんなさい! もっとはやく倒さなきゃって思ってるんですけど、苦戦しちゃって。私、弱いから」
険しい顔のまま表情を緩めないエルフを見て、ティアナは焦って謝った。
エルフは溜息をつき、それを聞いて身を強張らせたティアナに向かって何か呪文を唱えた。
「え、あ……」
呪文を唱え終わるやいなや、ティアナは倒れ込み、すうすうと寝息を立て始めた。
エルフはその細腕でティアナを抱き上げ、横抱きにする。
「ちょっと色々、教育が必要だね」
そう言うと、エルフはティアナを抱えたまま転移魔法を使い、その場から姿を消した。
ティアナはベッドの上で目を覚ました。
懐かしいにおい。見慣れた天井。
(ここは……私の家?)
召喚される前に暮らしていた自分の小屋だった。
数年前までは祖母と二人で暮らしていたが、祖母が亡くなってからは一人で切り盛りしていた小屋だ。
もしかして、今までのことは全部夢だったのだろうか。
(とりあえず……喉が乾いたな。水を汲みに行こう)
そう思い立ち上がる。
よろよろと歩きながら小屋の裏手の井戸まで行くと、そこにはあのエルフが腰掛けていた。
夢じゃなかったのか。
エルフはティアナにグラスを差し出した。
「はい。お水」
ティアナはとりあえずそれを受け取り、一気に飲み干した。
そして一旦深呼吸し、精神の統一を図る。
焦るな焦るな。大丈夫大丈夫。
パニックに陥らない自信がついてから、ようやくティアナは口を開いた。
「あの、全ての整理がついてないんですが。えっと……とりあえず、なんで私はあなたと私の家にいるんでしょうか……?」
エルフはにっこり笑って答えた。
「ちょっと休養が必要なんじゃないかと思ったのさ。ほら、自分の家が一番安らぐだろう?」
「なんで私の家を知ってるんですか? 私が魔王を倒さないと、大変なことになるから休んでる暇はないんですけど……。あと、あの、すごい今更なんですけど貴方は何なんですか?」
「この一帯にちょっとだけ時間の流れを遅くする結界を張ったから大丈夫。英気を養って戻っても魔王を倒す時間はあるよ。僕はヴァーリ。――賢者ヴァーリっていったらわかるかな?」
建国の賢者の名前に、ティアナは呆然とした。
不思議と嘘とは思えない。
エルフだったら、たしかに当時から今まで生きていてもおかしくないし、「時間を遅くする」なんて芸当も可能だろう。
ヴァーリはにっこり微笑んだ。
「まあ、ちょっとゆっくりしようよ。それに、僕が良いって判断するまで結界からは出られないようにしてある。魔王を倒すのはそれからでも遅くないさ」
そして、数日間のティアナとヴァーリの奇妙な生活が始まった。
◆◆◆
ヴァーリは不思議な雰囲気を纏っており、いつも泰然と構えていた。
ティアナが何をしても、何を失敗しても怒らないし、溜息もつかない。
ただ、笑って「そういうこともあるさ」と言う。
一緒にいると、不思議と心がほぐれるような思いがした。
そして、井戸で水を差し出したときのように、ティアナの行動を先回りすることが多かった。
「なんで私のしようとしてることがわかるんですか?」
そう疑問に思って聞いたが、ヴァーリはただ笑うばかりだった。
「なんでも分かるさ。君が今日の夜はキノコのスープを作ろうと思っていることだってね」
そう言って冗談めかして笑う。
賢者だし、そういうものか、とティアナは深く考えないことにした。
ある時、ティアナが眠れなくて夜中に空を見上げていると、いつの間にかヴァーリが隣に座っていた。
しばらく二人共黙ってただ座っていたが、ぽつりとティアナが口を開いた。
「クラウスから貰った指輪、失くしちゃったんです」
それは旅立ってすぐにクラウスから贈られたものだった。
位置探知の魔法がかかっているから、これを嵌めていればどこにいても駆けつけることが出来るよ、とクラウスが笑ってティアナの指に嵌めてくれたものだ。
愛情を感じて嬉しかった。
しかし、気がついたら無くしてしまっていた。
折角貰ったものなのに。大事にしていたのに。
「……でも、どこかでほっとしてる自分もいるんです。これで逃げられる、って。……『救国の乙女』失格ですよね」
魔王に何度も挑む最中、指輪を投げ捨てて逃げてしまおう、と思ったことが無いといえば嘘になる。
それでも、逃げなかったのはクラウスに呆れられたくない一心だった。
何が『救国の乙女』だ。実際にはこんなにも、醜くて利己的で、みっともない。
ティアナは自己嫌悪で苦しかった。
やがてヴァーリはゆったりとした口調で話し出した。
「ティアナは頑張ったよ。頑張っているよ。今も、本当は魔王を倒しにいかないといけないって焦ってるんだろう? ティアナは悪くない。僕がこの結界に勝手に閉じ込めただけさ」
頑張った。頑張ってる。悪くない。
そんなことを言ってもらったのは、『救国の乙女』になってから初めてだった。
目の奥から熱いものがこみ上げてくるのを、ティアナは抑えることが出来なかった。
「でもっ、わたし……、全然だめでっ! もっとがんばらないといけないって、いっつも言われてて……」
ヴァーリは何も言わない。
ただ黙ってティアナの頭を撫でた。
ティアナは子供のように泣きじゃくった。それまでに溜めた涙を全部出すかのように泣いた。
しばらくして泣きつかれて眠ってしまったティアナをヴァーリは抱えあげ、ベッドまで運ぶ。
辛そうな表情で眠るティアナの頭を撫でながら、ヴァーリは呟いた。
「明日には全て終わるから……大丈夫だよ。ティアナ」
◆◆◆
次の日の昼だった。
昼食にしようと取れたキノコと鳥を煮込んでいる時、突然小屋の扉が乱暴に開け放たれた。
「良いご身分だな。家に帰って一人だけゆっくりしてるなんて。君のせいで外がどうなってるか知りもしないで」
ずかずかと小屋に足を踏み入れ、男がティアナを睨みつける。
クラウスだった。
ティアナは怯えて足に力が入らなくなり、思わず座り込んでしまう。
「ク、クラウス……」
「『救国の乙女』が聞いて呆れる。こんな責任感のない女だったなんてね。まあ、今なら許してあげてもいい。ほら、許してほしかったら魔王を倒してくるんだな」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
条件反射でティアナが謝り、クラウスに付いていこうと立ち上がる。
それを制したのは、いつの間にか背後に立っていたヴァーリだった。
クラウスは顔を歪めた。
「お、お前……」
「まあ、ちょっと待ちなよ。それで、クラウス。君は自分のどこが悪かったのか、きちんと反省したのかい?」
「私は何も間違っていない! ティアナが自分の役目を果たせば済む話――ぐふっ」
クラウスは叫んでいる途中で、口から血を吐いた。
「え……? クラウス……?」
ティアナは驚愕し、後ずさる。
よく見ると、クラウスの胸から木の根の様なものが生えてきた。
ヴァーリの何か魔法を使ってクラウスを攻撃したのだろうか。
クラウスの目に光が無い。もう死んでいる。――ヴァーリが殺したのだ。
ティアナは何も理解することが出来なかった。
「え? え? なんで? クラウス? ヴァーリ…? なんで……?」
クラウスを殺めたヴァーリは、いつもと変わらぬ口調で言う。
「あーあ、今回も駄目だったかあ。いやあ、道のりは長いなあ」