稀有なる壁越えの映像記録 裏 Ⅲ
師匠に――呼び出された。自分だけではなく、彼女も連れて来るように言われて。
だから私は、以前にましてべったりな青藍を伴って、出立前で忙しい筈の師匠の、逆さまの宮の居室にやってきた。
トントン!
ノックは絶対である。うかつに扉を開ける訳にはいかない。鼻を咽る臭いでやられたくはないし、最近の情けない師匠が更に酷く情けない調子だったり、痕跡が隠されてもいなかったりしたら、きっつい。
私だけなら未だしも、こんな機嫌のよい鼻歌気分で、私の手を握っている彼女の機嫌を悪くしたくない。私は多分、未だ参っている。回復しきっていない。数日前の状態に戻る危険は絶対に回避したい。本来ならここに来ることすら嫌だったが―…
「ライト。入っていいんじゃない? ほら。鍵、開いてるわ」
そう、空いている手で鍵穴を指差し、不思議そうに首を傾げる彼女に、どう事情を説明すべきか、迷う。
まさか、本当のことを言う訳にはいかない。彼女は乙女で、良い意味で汚れていない。私のように、汚くも大人な知識は無いだろう。あるなら多分、こんなことは言わない……。
少年は失念している。彼女は、心が、読めるということを。そして、少年は知らない。彼女は繕うことが、覆い隠すことが、得意だということを。
手を握られたまま、扉の前に背を向けて立つように移動し、困り汗を流しながら、苦笑いして、時間稼ぎするという、悪あがきする少年。まともな言い訳すら出てこない位焦っていた。
彼女は、そんな少年を、なんで、という風にとぼけた表情で。空いている手が、口元に添えられているのは、自然になのか、それとも――
ガチャッ!
「いらっ…―」
「痛っ!」
と、気だるげな声が、開きかけた扉に当たった少年の声で途切れ、扉が閉まった。
少年には見えていないが、彼女は見た。
微笑みを浮かべ、師匠の女が、襟元が乱れた、明らかに男のサイズであるオーバーサイズなシャツの上を着て、出てきた、スカートやズボンは履いていない、小さくも大人の女を。
それには思わず一瞬固まったが、目の前には、少年がいる。今一瞬こちらから意識は外れているとはいえ。色々と飲み込んで、無垢を繕う。加えて、
「……。寝起きだったみたいだなぁ……。アレ、師匠の友人の…―。名前が……出てこない……」
少年にはどうしようもなく余裕が無い。
ガチャッ!
扉が開く。
出てきたのは再び、師匠の女ではあった。上半身を扉の間隙から乗り出して、見えている範囲ではその服装はちゃんと繕われていたし、不自然なくらい、シトラスな匂いがした。
「いらっしゃい、ライト君。おや? 隣のその子は君のアレかい?」
いやらしい手つきでからかってくるその様子に、少年は気が抜けた。何だか慌てていた自分が馬鹿らしく、しょうもなく思えたから。
この人は、自身の痴態をしれっと無かったことにしたらしいし、悪びれた様子もない。何とも酷いものを見た、と焦りは消えて、頭は冷えて。その女の名前をあっけないくらい容易く思い出せた。
「ええ。たたらさん。師匠、起きてますか?」
一応そう、言葉を選んで尋ねた。
「勿論」
返ってきた言葉と共に扉が開き、扉の先へ先んじて進んでいく師匠の女こと、たたらの後ろ姿に、少年は、酷く疲れた様子で溜息を吐く。
「何で下履いてないんですか……」
スカートやズボンなんて、たたらは纏ってはいなかった。
「すまない……」
もう、少年は諦めた。弁明すら。流石に戸惑いを浮かべる青藍に頭を下げ、開きっ放しの扉を閉める。
「……」
「行こう……。いつもの……ことなんだ……」
そう言う少年の顔を見て、青藍の目線は、少年の顔からゆっくり下りて、止まり、そして、また下がって足元を見たかと思うと、くるっ、と踵を翻した。
奥へと進んでいく青藍の足取りの何だか躊躇のなく、軽やかな感じに、少年は思う。
(肝が据わっているのか、無垢なのか。……はぁ……)
重い足取りで、とろとろと彼女の後をついていった。