犬も食わない Ⅸ
規模は違えど、学園長が常時張っているのと同じ。概念や効果を齎す領域。
恐らくは、逃げる、という概念を打ち消している。
発動の条件は、追い詰められること? 一対一であること?
何れにせよ、この相手固有の魔法であることには違いない。意図せず、形になったからこそ、色々と漏れてきているのか、それも条件に含まれるのか。
単純な類ではない。説明できる類でもない。
これは、何の参考にもならない。私にはものにできない魔法の類だろう。
立ち上がった、周囲の空気を歪ませるような熱気を放った、相手の瞳は、黒く焦げ灼けるように、濁っていた。
圧が、違う。ぞっと、肌が震え立って、染み付いた業を、
「†斬る†」
放つ、が、空振る。
仮にも業。それは、魔法に等しい。まぐれではなく、息を吸うように、集中せずとも放てるようになったそれは、同じ位階に立つ者どころか、その先をゆく者ですら、避けるということは絶対的に在り得ない。
外した、なら、まだ有り得る。
これは明らかに、避けた、のだということを少年は把握して、思う。
(寝た子を起こした、というべきか……。開眼。嘗て垣間見た、師匠の本気か、最悪、それ以上ということも……)
もう既に、低く屈み終えて、こちらへと飛び掛かって地面から足を離した後。
【†アンバー・デュエル† †タスク†】
「ガァアアアアアアアアア!」
拳、ではない。爪。
先ほどまでのとは違う。躊躇や戸惑いや意図や狙いが、無い。
【†縦薙受†】
魔法の剣で、咄嗟に構える――が、透かされるように、空振る。
(っ! 透け……、いや、残像か! 熱! 歪み! 蜃気楼か!)
構えた剣を持つ手の肘の下、鎧の脇腹に掛かって、千切り、とられた。
少年は、一見損傷の大きな脇腹以上に、剣を握る手に厳しさを感じた。
(ほとんどの衝撃は、肘で、か。こんなところが、砕けるなんてことは、組み合うでもない限り、まず、無いというのに……。砕けただけじゃあない。もって、いかれた)
手先から徐々に力が抜けてゆくのは、もっていかれたのが、肘の辺りの骨と皮と肉と血だけではないということである。
(ただですら、乏しい、魔力……が……)
少年の視界がくらついた。
ここにきてとうとう。
それは少年にとって、すこぶる相性の悪い相手。
元・師匠の言葉を思い出していた。
(「お前は人よりも獣相手の方が苦手のようだな。なまじ賢いだけに、考え過ぎだ。脳無しの気持ちなんて、分からないなら、等しく、読めん。だから今後に生かすなら、できる限り相手にするな、といったところか」、か。暴れ牛の群れ。確かに梃子摺った。そう苦戦する相手でもない筈なのに。読めなかった。理屈でもなかった。ただただ勢いだった)
都合よく待ってなんてくれない。
前方下側から、突き上げるように、こちらの顔面目がけて、放たれる、禍々《まがまが》しい、危機。
【†アンバー・デュエル† †スパーダ・タスク† †キュウマスチニク†】
右手は、否、右腕はおしゃかになって、上げようとする意志に意に反して、垂れようとし、剣は抜け落ちようとし、少年は、碌に中身の再生しきっていない左手で、握り直しながら――
ザシュゥ!
自身の右腕という腕の役割を喪ったそれを、右肩上から斬り上げ、切り離した刹那、右足で、蹴り上げて、【フラッシュバインド】押し付けた。
光は――炸裂しない。
(師匠。違う。考えるから間に合わない、じゃあ、きっとないんだ。間に合うように、考えればいい。停滞や躊躇の時間が無いというだけだ。そうできなきゃ、負けるだけだ)
右腕だったものは、そうやって、相手の腹に押し付けられ、断面から血の軌跡を描きながら、吹き飛ぶ。相手を巻き添えに吹き飛ばしながら。
相手は今、獣。獣であるからこそ――自切の意味なんて、決して分からない。
そうして、明らかに数段違う殺意、トドメの圧が掛かっていた、猫の手に構えた掌が、爪が、彼女の腹に蹴りの威力と共にめりこんだ右腕が、どうなったかというと――赤熱しながら、噴き出すものごと煤けていって、真っ黒にりながらおちてゆき、地面について、チリになるかのように砕けちった。
燃え滓。絞り滓。残り滓。
距離は、離れた。数十メートル。
相手はそうして、吹き飛ばしの推進力を受けなくなって、ずっ、と地面を踏みしめて、勝ち誇るかのように、体を震わせながらぴくつかせる。
どくん。
抑えようと耐えるが、抵抗虚しく、少年のあの魔法が炸裂し、串刺し針の山と噴き出す血の水溜まり、抜けてゆく、消えてゆく、熱。そうして――獣の時は終わる。決闘。それは、人のいう決闘ではなかった。獣と獣の決闘。つまるところ、剥き出しの殺し合い。
「獣に成り果てねば、未だ、勝負は分からなかった、ろうに」
少年は、痩せ我慢して、息を切らさず、そう言った。そのせいで、酷く、視界は歪んで、くらんで、ぼやけて、それでもそんな視界にもこれだけ色濃く血色であれば、映る。
再び、崩れ落ちた女、という結果が横たわっていた。
続ける言葉も無く、剣を消し、虚ろな左腕を掲げ…―
ぞくり。
それは、錯覚ではない。感じる重みに実体が、ある。抱き、つかれて、いる。倒れた筈の、相手、に。血色に染まったが故に、獣に成り果てていたと錯覚しきっていたが故に、少年は、気付かなかった。十全でない少年のそのときの十全。つまり、悩みに苛まれて削れた分、彼は、無様で、愚鈍で、察しが悪い。
「け、い、かじ、」
(まず、)
「ん、まいな、す、きうじう、く」
(いっ!)
間に合え、という、少年の悪あがきの踏み砕きの右足の動きは――
ドチャアアアンンンンンンン! ボゴゴゴゴゴゴオオオオオオオ――、……。
間に、合わなかった。
そう。負けたのだ。ぐうの根も出ないくらい、はっきりと。




