犬も食わない Ⅱ
そう。しんどい。とてもしんどい。
ここ七日の間の彼女との会話は。
こうなるまで、彼女とのやり取りをこんなふうに感じたことなど一度もなかったのに。
ただ話すだけで疲れるなんてある訳がない。一応面倒な人種の扱いにはそれなりの心得がある。だというのに。
そういう錯覚なのだろうか? いいや、魔法か? それとも…―
何といえばいいのだろう。このもやもやの正体を捉え損なっている。
そもそも、どうやったら、彼女との話せるのだ? まともに、話せるのだ?
彼女がここ数日のいつものように、私の家の側を通り過ぎてゆく時間。いつも通り、いた。
一人だ。この数日のいつも通り。瘴気のような靄を薄く纏っている。
「やあ」
彼女に話しかけ、
「ボクに何か用?」
他人行儀の言葉遣いの殻に阻まれ、げっそりする。こういうところは年相応な少年は、どうしてそのせいでげっそりしているのかが、分からない。こればっかりは、知識でなく、経験せねば分かるまい。
「謝りに来た」
「昨日もそうだったよね」
塩対応。それでも少年はめげない。
「悪いことをした。君の気に障ったのだから」
疲れ果てるのは、遣り取りを終えた後でいい、と。
「何が気に触ってどうしてなのか分からないと、その謝罪は空っぽのままさ。じゃあ、また明日」
彼女の口元は微笑みを浮かべているが目は笑っていない。だが、また明日。そう言ってくれているのだから、まだ見放された訳ではあるまい、と分かるとも。鈍い私であっても。
そして、
「ああ。明日にはもう少し答えに近づけるよう、考えるよ」
口に出してしまって、しまった、と過ちに気づかされる。
空気が凍ったような錯覚。流石にわかる。今日もまた、解答を間違えた。そういう方向性じゃあ、駄目だってことだろう。
少年はただ、深く頭を下げた。下げ続けた。
やがて、踵を翻す音がして、足音が始まり、それが、遠く離れてゆく。
少年は、その音が聞こえなくなるまでずっとそうして、頭を上げると、当然、彼女の姿はどこにも無かった。
どっと、疲れが込み上げてきた。
まだ、起きて数時間。昼すらまだ遠いというのに。ひどく、深く、眠りにつきたいような気分。これも、錯覚なのか。ただ、これは確かに私由来のものである。魔法では決してない。
師匠のそれと似ているようで違う、もっと、しょうもなくて、もっと、どうしようもない。これに名を付けるなら、何になるだろう。
分かって……いる……。師匠も言っていた……。
犬も食わない。
少年は、家の扉を開ける。
がしゃん。
師匠はいなくなっていた。
だから、机の上に安置された紫水晶に話し掛ける。
「師匠……」
すると、
「お前ほんと駄目だなぁ……」
紫水晶越しの声。
「はい……」
「はい、じゃねえよ、ったく」
「どうしたらいいか、もう、わからないです……」
「だろうなぁ……」
「だいたいパターンはできてきて、少しづつ長いこと話せるようにはなってきたのですが、新しい試みやる度に、だいたい彼女が私を見る目が……」
「はぁ……。犬も食わねぇ。そんなもん食わされてる俺は何なんだろうな? ……。最初に言った筈だ。痴話喧嘩は犬も食わねぇ」
「些事だというのには同意しますよ。ですが、私と彼女は恋人関係ではありませんよ?」
「そういうことじゃ無ぇんだよ! お前がどう思ってるなんてどうでもいい!」
「はい……」
「周りから見たらそう見えるってこった。恋人の距離感」
「そう、ですか……?」
実感はわかないが、そういうように見えるらしいとは。師匠のあの女の人みたいな距離感ややり取りと比べれは、彼女と私のやり取りはだいぶ距離の遠いものだと思うが。
「お嬢ちゃん、わざわざお前に毎日会いに来てんだぞ?」
「?」
「わざわざ、お前が遭遇できる場所に予め居るってことだよ! お前が無駄に探し回らなくてもいいようになぁ!」
「何でそんなことを? そんな回りくどいことする位なら、直接声掛けてくれれば…―」
「作法ってヤツだよ! 作法! 美意識って言ってもいいかもしれねぇ。知識としては知ってんだろうが、お前!」
少年はまぶされた砂糖の殻に阻まれて、言葉の真意を汲み取れない。
「そんなこと言われたって……」
そんな少年を形容するなら、
「自分に自信が無さ過ぎるってのも考えものだなぁ……」
となる訳である。
「?」
「もういい。時がくれば分かるようになるだろうさ。お嬢ちゃんに同情するぜぇ……。お前は、重症だ……」
「……」
「お嬢ちゃんは、そんなお前に分からせようとしてる訳だ。純粋に十割全部お前だけの為ってぇ訳じゃあねぇが、九割くらいはお前の為によぉ……。お前のダメダメな話をお前がある程度考えを纏めた好きなタイミングで聞いてくれる、というサイクルをここ数日、懲りずに繰り返してる訳だ。お嬢ちゃんのイライラが溜まるだけで何の得があるんだろうな?」
(分かるようになったらなったで、こいつ自身に気苦労が……。いや、あいつが育てたようなもんなんだったら、案外――)
「知り、たいです……」
と、少年が絞り出すように声にして、男は少しばかりほっとした様子で、それまでよりも少しだけ優しく、アドバイスをと、
「そうか。じゃ、早いこと気づくことだな。言われてわかる類のことでも無ぇ。っと。待って。待ってくれって、おいっ、おいっ、また、か、よ…―」
紫水晶は黒く染まって、音は途切れた。
お礼言う暇もなかったし、半端に終わったのもあり、とりあえず、御愁傷様、と少年は黙祷した。




