犬も食わない Ⅰ
朝。少年が、椅子にもたれかかる師匠の声を掛ける。
「師匠、大丈夫ですか……?」
「見ての通り大丈夫じゃねえよ……」
「確か、発つのは三日後、でしたよね」
「ああ」
「なんで、準備で忙しかった四日前までより、今の方がやつれてるんですかね」
「余った時間全部、そのまんまあいつとの…―」
「ここ三日毎日同じこと言ってますよね……。聞き飽きましたよいい加減。辞めにしときましょうよ。私は疲れる。貴方は自己嫌悪でやさぐれる。良い事無しです」
「だな……。はぁ。体力が、もたねぇよ……」
「体が保っているだけまだましでしょう? 別に光が黄色く見えてる訳でも無いんでしょう?」
「昨日までは見えてたぜ……」
「えぇ……。ん? 今日は大丈夫、ということです?」
「まあな。それどころか、どういうわけか、体の調子はすこぶるいい。どんどん良くなっていってるというべきか……」
師匠たるその男の葛藤を少年は無視する。
「いいことじゃないですか。慣れてきたということでは?」
「なんか、怖くね? 終わりは日に日に疲れ酷くなってきてんのに、次の日の朝迎えりゃあ、体は日に日に元気になってんだぜ? 最初は筋肉痛酷かったのに、もう全然そんなのならないし、何故か数十メートル先の人の顔がしっかり見えるようになってる。妙に体に力はいるようになったし、トイレでの気張りがすげえ楽になってんの。怖く……ね……?」
だって、今更、である。
「分かりきってるでしょう。古来からある魔法の一種じゃあないですか。ぼ…―」
「みなまで言わんでいい。分かってるんだが、なんか怖い。重い。全部俺の為だって分かってんだが。……。全部? んん……。全部じゃあないか。だが、誰にだってすることじゃあない。俺にだって、使ったのは七日前が初めてで……」
少年は顔をしかめた。
そんなこと聞かされても困るのである。そもそも、子供にする話ではないだろう、こんなこと、と。耐性はあるが、それでも聞いていてうんざりしないなんてことはないし、自分は悪趣味ではないのだ、と言いたくなるのを、抑えて抑えて。
そんな少年の心の内なんか気にも留めず、天井を仰ぎ何か思い浮かべて百面相したかと思うと何やら俯いて考え込む師匠。自分の事情に一杯一杯なその男を見て、少年は思う。
面倒くさい。あんたは乙女か、と。
言って……やりたい……。
「よかったですね。愛されているって事ですよ」
結局、そんな風に言葉を選んだ。
「棒読みかよ……。ま、お陰で頭冷えたわ」
そして師匠はこちらをじいいっ、と見てくる。何も言わずに。
「何かついてますか?」
「ついてるっちゃついてる」
「どこ、です?」
「目に見えない、だが、どろっと纏わりつく、無味無臭の何かだよ。今のお前にゃ、匂いも味も重さも、未だ感じられない何かさ」
そう、こちらをからかうように、いじわるそうに、子供っぽく無邪気に笑った。
呆気にとられる。
「何か、昨日までみたいな毒がないですね。不自然に薄れたというか……。体調良いって本当みたいですね。何だか慣れません……」
「ま、もう三日だけ辛抱してくれ。それよりも、お前さぁ。はぁ……」
と、少年を呆れた様子で、見て、溜息。
「分からないものは分からないですって」
「お前さぁ……。お嬢ちゃんとたったと仲直りしろよ。地味にきっついのよ。俺のとこにあの子、愚痴言いにくるのよ……」
それは初耳だった。だが、仲直りしろというの自体はここ三日よく言われている。いる、が……。
「師匠、流石にしつこいですよ。これは私事です。些細な事です。よくある話ではありませんか。仲の良い女の子の地雷を踏んだ。多分それなりに大きい、けれども、一発アウトともいかない程度の」
「……」
苦いものでも噛んだような顔で、こちらを見て呆れているのが見てとれる。繕おうともせず、あっけらかんに、お前、マジか、と言ってるかのよう。
「もしかして……物凄く、不味い、ですか……?」
今更、な反応をしてしまう少年。それに男は、先達として真面目に答えてやった。
「俺のが痴話喧嘩にも満たないノロケだとすると、お前のは破局の危機だよ」
「? 私と彼女はそういうのでは無いですよ? 知っているでしょう? ただの親しい友人ですよ。この学園で一握りの、まともな人間で、私に引かない、心地よい友ですよ。確かに異性ではありますが、色恋なんて、私たちにはまだ早い」
それを聞いて男は頭を抱えた。
「……。たったと謝ってこい。分からないままでも悪いことをしたということだけは分かっただろう?」
だから、せめて、これくらいはやれ、というアドバイスをした。
「それはまあ……」
「素直に話してこい。最後までちゃんと、な」
そして、しっし、と手の甲でわたしに、雑に、たったと行けと言う。少年はそれでも不安で、
「なんとか……なります……よね……」
年相応な情けないくらいの自信の無さをさらけ出す。
男は思う。
心底、めんどくせぇ、と。
それでも面倒見のいいこの男。
「なるなる。なるに決まっている。だからたったと仲直りしてこい。めんどくせぇ」
ちゃんと相手をしてやるのである。
「毎日弟子に愚痴る師匠も大概なのでは?」
「分かってるよ。はよいけ」
しっし、と先ほどよりも雑に、だるそうに、手の甲で指図するような有様であっても、だ。
そうしてやっと、少年はとぼとぼと歩き出し、学園方向への扉を開け、家を後にした。