魔法使いに最初に必要なもの Ⅳ
逆様の宮。
その入り口へと、転移し、降り立つ。
すうっ、と、ふわり、と。
いつものような、心地良さに、目を瞑る。
が――
「毎度毎度、いじわるなもんですねぇ、ラピス先生よぉ」
その皮肉たっぷりな自堕落な声に、不快感を感じるラピス先生こと学園長。
「そういう貴方は、随分―…」
言いながら目を開いて、絶句し、固まりつつも、言葉を再開しようとするが、
「頑張り、ましたね……」
戸惑いに塗れて、もう皮肉も言えない。
様々な色の染み、汚れの目立つ、明茶色の大きな布で、全身を覆っているだけで、何も着ていないのだろう。敢えてそうしているとかではなくて、何も着れなかったのだと、壁に背を預けつつも、足が何度もかくつく様子からみてとれたから。
ひどくやつれ、げっそりとしていて、そして、本人由来のものだけでは決してない、汗などの、様々に混ざり合ったひどい臭い。
きぃん、と、青い光。直後に突風。どちらも男へ向けて。
「へへ、すまねぇな……。魔力吸い尽くされたんだわ……」
「幾ら君であっても、荷が重いだろう。早いこと、辞めるべきだ」
「あんたそれ、自分の旦那に言えるか?」
「……」
「そういうこった。望んだことだ。俺自ら。それによ。最近、俺の友人も一人、同じ苦労仲間になったんだ。ほら」
そう、手紙を見せる。割れた蜜蝋。開封済みの証。紅いままで、魔法で開ける前の状態に偽られていない証。
「そうそう魔女の伴侶なんて――っ! いやはや、まさかのまさかだね。逆にこれ、魔女の方が負けてるじゃあないか。友人どころか、親にも見せられない類の写真だと、その友人は自覚して……いないのだろうね……」
【良縁に巡り合った。思うところがあったというのもあるが、ま、この通り本気な訳だ。近いうちにこちらに一度来るといい。というか、来い。そして、あいつの話でも、聞かせて欲しい。後ろで倒れている彼女の願いでもある】
「すごいね……彼……。その魔女も大概だけど。これくらいの方がいいのかもしれないね。魔女の伴侶なんてものは。だって、足らなければ、隣に立っていることも、できない……」
「やめようぜ愚痴は。先生。俺もダメージ受けてんだよ。あいつも俺と同じように捕食された筈だろうに、逆に……。目ぇ覚めたらよぉ、枕元でニマニマしながら先にこの手紙読んでたあいつに、散々いびられた俺の愚痴を俺が満足するか飽きるまで聞いてくれるっていうのか?」
「辞めておこう。私も既にボロボロだしね」
「だろう? で、もう、言いたいことは分かっただろう? 先生」
「相談に乗れ、ということかい? 何を話して何を話さないか」
「流石ぁ、ラピス先生。頼んますよ!」
普段、媚びてくることなんてまずなくて、太々しいだけのこの教え子が、どうやら心底悩んでいて、それが、自身のことだけ考えての悩みでは決してなくて、背後に浮かぶ関わり合っている者たちが伺い見えるような気がして、それはとても良い変化の兆しに思えた。
だから、兼ねてから悩んでいた悩みの一つを手放してもいいかもしれない、と思った。
「こうするしか、ないね」
ぽすん、と手元で煙を出して、学園長の掌から差し出したそれを、男は受け取る。
一枚の羊皮紙。その上に直接押された、朱色の動く、蜜蝋印。
右回りに始まる数字。一から十二まで増えて、そこから二まで減って最初の一に繋がり、閉じる、円。逆転するでもなく、増減し循環する時計文字盤。そんな蜜蝋印。
そんな円の中央には、
【魔女伴侶申請書】
【黒亜】
【要:署名】
【正騎士又は同等の魔法使い(但し魔女罪適用者除く)】
【魔女 ラピス】
この紙片が何かを示し、その効力を保障する文言が。
「丁度いい機会だと思ってね。用意しておいたんだ。君が彼を連れてきてくれたその時に。あとはいつ渡すか。それだけだった」
男はポカンとしている。そして、自身の頬を伝った。それに気づき、何故だ、と声無く。
「もう君は狂人じゃあない。だから、真に彼女の伴侶、魔女の生きた安全装置と認めようじゃないか。ん? そうじゃない、って? あんたはそんな都合の良い奴じゃない、だって? 酷いじゃないか。そんなこと言われなくても分かってるよ。魔女。それは、要石無しではどうしようもないただのろくでなしに例外なく与えられる称号だよ」
手にしたそれをみて、そして、学園長を見て、男は追い詰められた表情をしている。覚悟しようとしては、踏み留まって、また、手のそれに吸い寄せられて、首をぶんぶん振り、切羽詰まった表情をして、考える。
「惑うことはない。自身を持ち給えよ。私は君を認めたのだよ。彼を連れてきてくれた。私にとって、彼は希望の光だ。何せ、彼なら、あの人を――」
校長から迸り、漏れ出す、影より黒々しい、虚が、蝕が、男の側をかすめる。
男は咄嗟に、身を丸め、欲しくて欲しくてたまらなくて、どうしようもなくて、しかし、諦めてしまっていたそれを、第一にと、抱きかかえ込むように、守った。
数十秒では収まらなかった。暴威のように荒れ狂う風音と共に、続いた闇色のそれが止んだのは数分後のこと。
まだ、地面に丸まり込んでいて動かない男に、学園長は見下ろし、言う。熱の無い冷たい声で。
「おや。まだいたのかい? もう用は済んだよ」
ふわっ、と男の体は浮かべられ、逆さ窓から硝子がすっと消える。男は、逆さ窓のその先へ、飛ばされ、ぶぅおん、と昇って、否、正しくは、落ちていった。
男は落下の最中、目にした光景を反芻し、思う。
(あいつをああしちゃあ、いけねぇ……。絶対に、だ……)
不定形に蠢くように放出され、触れた先を腐食するように吸い取る、闇の具現。魔法ですらないただの禍々《まががま》しいだけの魔力。あれで破綻せず、正気なのが信じられないくらいの、正真正銘の化け物。
人の形はしているが、人には見えなくて、よく知っているし長い付き合いのある人物なのに、積み重ねてきた交流が無為に思える、決して相容れない、別物な厄い生きた異物。
魔女は伴侶を失うと、堕ちるという。あれで、半落ち……。あれは見せたのか、言葉通り本当に、心にきてた、か……。
(……。そんな未来は絶対に御免だ!)
命を燃やし、魔力に換えて――
【転移 ―帰るべき場所―】
男は、落下の速度による通過なんて情けない最後にしてしまうことなんてなく、自身を中心とした、極黒の、自身を入れて余りある大きさに急速に成長する球の発生に瞬く間もなく呑まれた。
魔法使いに最初に必要なもの FINISH
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