儚く虚ろな闇色の瞳 Ⅱ
「黙られても困るのだが……」
彼女は、動かない。
何も言わない。
意思疎通、できるのだろうか……?
ザァァァァァァァ――
ただ、周囲には小川の音だけが響き続ける。
私は――彼女から背を向け、外へと向かった。
「……」
元の場所。
ザァァァァァァァ――
小川の流れる音が響く。
証拠は――大きな黒い目が、こちらを見ている。長い髪の毛が、中央と、両脇に分けられて、両の目がこちらを見ていた。
病人のような青白い肌色が、目元周りだけ、先ほどよりも少し強く、赤らんでいる。
睫毛は薄く、だからこそ、その大きな黒目は、こちらを吸い込みそうなくらいに、よく分からない圧といえばいいのか? そんなものがある。潤んでいるからだろうか?
「私の、せい、か……?」
閉じたままの唇は動かない。薄く、そして、色は、白に近かった。
「喋れない、のか? だが、魔物の類ではあるまい。魔物は、単純な痛みや眠気でしか涙を流さない」
「……。じゃあ、こうしよう。頷く、か、首を振る。前者が、はい。後者が、いいえ……。分かる、か……?」
彼女は、動かない。
人形じゃあ、あるまいし。人形も涙なんて流さない。
右手の人差し指。爪を目印に、その部分を直径とする、黄白い光の、小さな、珠。指から生えたような、爪とその裏を球状に覆ったような、珠。未だ灯したままのそれを、彼女へ向けた。
その瞳が、収縮するのが見えた。
「出してくれよ。用も無いのならば。何も言わず、ただ、引き留められても困るのだ。暇では無いのだ。……。どう、説明すればい、いい? 君が関係者かどうかすら、私には知りようがない。……。壁に向かって喋るというのは、こういう気分なのか……。まあ、それならそれで、遣り様はある、か。ある意味、やりやすくなったともいえる」
反応が、無い。彼女は、動かない。
私なりの最後通牒を、言葉でもなく、行動で示すしかあるまい。
生きているというのならば――きっと彼女が、私を閉じ込める檻の中心。森の牢獄。繰り返し、続く、森。
私にとって、森とは、あまり心地のよいものではないのだ。他の数多の者であれば、割とこの環境は心静まる善いところだとは思うが。
威嚇するように、
ザッ!
足音を立てる。
できれば、やりたくはないからだ。
「事情は知らない」
ザッ! ザッ!
彼女へ、距離を詰め、手をのばす。
「だが、すまない。停滞は、嫌なんだ」
彼女の首に、手を――彼女は首を横に振った。
私は、三歩、引いた。手を降ろす。
「判るなら、ちゃんと最初から返事をしてくれ。それに、こんなもの、やめてくれ……。疲れるのだ。出して、くれよ……。ここに飛ばされる前から私は碌でもない目に遭っていたんだ。今日はもうたくさんなんだよ。厄介事はやめてくれ。壁に話している訳じゃあないと分かったんだ。少しでも私は私の負荷をましにするために、君に嫌味と愚痴を言い続けるぞ」
こくん。
「……。本当に、困るのだが……」
ぶんぶん。
「それは君が決めることでは無いだろう?」
ぶんぶん。
「あぁ……。まあ、出れないままなのは嫌だよ。……分かったよ……」
私はもう、観念することにした。
取り敢えず、思うが儘に、結果的に、一方的に喋り続けることとなった。
疲れていたのだと思う。本当に。
自分が憶えている最も古い記憶。顔すら思い出せない母。
そんな母がいなくなってからの、自分が一族に不要なできそこないであることに対する惨めな自覚の始まり。
微かでも才あれば、詠唱さえすれば、小さくとも何かが起こる。魔法使いが見れば、それがどれだけ小さくとも、何かが起こったことは把握できる。
だから、魔法の大家たる私の一族において、その鑑定が見誤れることは無い、と言い切れる。
なら、私のそれは、何なのだろう。
右手の人差し指に灯したままのそれを、彼女に問う。
何も返さない。
私は話を続けた。
それでも、私は憧れていたのだ。捨てられなかった。魔法使いになりたい、という想いを。半ば、存在を無視され、継母や、兄弟から、蔑まれるような目で見られることに耐えられなくなった私は、独り、森で生活し始めた。
苦悩は味わってきたが、苦労を知らない幼な子が、だ。結果は火を見るよりも明らかで、私は死にかけたらしい。
憶えてなんていないよ。朦朧としていたのだから終始。
偶々、私は助かったよ。幸運なことに。幸運……なことに。本当に、そうだったのだろうか……。
何れにせよ、私は助かった。助けられた。
魔法の大家たる私の生家には、様々な者たちが訪れる。
主だったものは魔法使い。次に、騎士。
本来相いれない魔法使いと騎士。その両方が集まる私の生家は、単に金払いがよかったらしい。
私を助けてくれたのは騎士、だった。亡き母以来無かった、私に負の感情を向けなかった大人だった。縋るしかない、と思ったよ。
莫迦だったと今でも思う。
私は余計なことをしてしまったのだ。
助けてもらって、私の父に、直談判までしてくれたあの人。私が何も言わずとも。
生かしてもらうだけなら、連れ出してもらうだけなら、多分、あんなことしなくてよかった筈なのだ。それでも私はしてしまった。あの人の為に、頑張ろうとしてしまった。暫く滞在することとなったあの人たちの気を引こうと、あの人たちの修練を隣で見ていた私は、あの人たちが喜ぶかと思って、拾い上げた木の棒で、あの人たちの真似事をした。
多分、その日の、朝から夜までずっと。棒を振り続けていた。多分、こうだったかな? もっとしっかり握りを切り替えていたような気がする、とか、試行錯誤しながら。
私は、全くばてていなかったらしい。振り上げて、振り下ろした木の棒が、風を切る音すら立てなかった、と驚いた様子で言われたのをよく憶えている。
どうやったかなんてコツも分からない。
それは、並外れて異常なことだったらしい。
確かにそうだろう。幼子が、朝から夜までひたすら同じ動きをやり続けて、疲れ一つ見せず、風音すら立てず、それなりの速度で鋭くもないモノを振り抜き続けたなんて。
当然、そのときは分からなったよ。
だが、年月を経て分かるようにはなったよ。
才能があったのだ、私には。
私が望んだものとは真反対な才能が。
騎士としての、才能が。
剣を振るだけで終始なんてしなかった。
刻限を過ぎても、あの人たちは立ち去ることはなかった。契約は延び、領地の防衛を引き受けて、片手間に私を鍛えて…―
そうさ。違うとも。片手間なんかじゃあなかった。それこそが目的に成り替わっていた。あの人たちは、私を鍛えることを目標にしていた。