デート・クロス・デート・クローズド・サークル・レイク ~輪転白馬に跨って~ Ⅸ
「いや……まだだ……。未だ終わった訳じゃない!」
引き攣った顔で、青筋を浮かべながら、少年は絞り出すような声でそう言って、不自然なくらい唐突に、真顔になった。
『青藍……! いるんだろ! いったん水浸しにしろ! 糞みそで歩き回らせる訳にはいかんからな!』
強く念じた。
どうなる? と、結果を見守る。
不意に下から溢れ出す水。自身の女の想像だにしなかった唐突な災難に固まっていた男のケツの下。井戸から吹き上がり、男の巨体が浮き上がる。そんな男が落下を始めるよりも早く、溢れ続ける水は水位を上げ、落下を待たず、男を呑み込んだ。既に女も吞み込まれていて。その二人は脂ではなく、筋肉質に重量級であるらしく、水に、浮かばない。前もっての警告も無いその水害に抗う術もなく、溺れている上、水流にかき回されている。
『浮かばんぞ! 汚れを彼らの衣服から落とし切れたらすぐ消せ! 問題無い! 彼らの肉体なら、人間なら内臓破裂必至なこの高度からの落下でも、打撲程度にしかならん! トロールでありながら浮かばんということは、人間で言うなら、私以上に鍛え上げられている、ということだ! っ! いいや! このまま溺れさせて意識を刈り取ってくれ!』
おろおろする幼な子を横目に少年は思う。今は説明している暇は無いのだ、すまない、と。
「ただい…―」
バサァァッッ!
自身の魔力で紡ぎ、織った、鏡の布。強烈に魔力を消耗する、布でありながら鏡である謎布を生成する魔法を、少年は躊躇なく使った。未だ未完成なそれ。穴がある。だから、幾重に重ねて。
全力のライトニング・ボルトの消耗に迫るほどの消費である。
「水は吸わんが、弾くくらいはできるだろう。湿って張り付かん程度に拭い、たったと服を着ろ」
念の為に背を向けていた少年はそう言った。
「……え、ええ……」
背後。布越しから聞こえてきた返事は戸惑い交じりのものだった。
「戸惑っているのはこっちだ。心臓に悪過ぎる。君が報復で連れ去られたと思ったぞこっちは! よくよく考えたら、これまでからして、その手の悪意を低減または無効化するよう、連れ去るが為の魔法は崩されるから、あり得ないと分かったからよかったが」
バサッ!
「ごめんて。でも、いくらライトでもお手上げだったでしょ……?」
「まあ……なっ! ……な……」
滴る水。湿って乱れた髪。僅かに張り付く衣服。若干透けるようで透けないようで、透けない。だが、はっきり浮かぶボディーライン。
乱れ、ほつれ、消える鏡の布。少年の魔力制御が乱れたからだ。
つまり、動揺した。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン……!
「ライト……?」
すっと消えて、すっと、現れた。下からひょっこり。斜めに傾く彼女の口。髪の毛から滴る水は何も、髪の毛だけから流れ落ちる訳ではない。
彼女の額を辿り、片目に落ち、彼女は思わず、っ、と目を瞑る。
ドクンドクンドクンドクン――!
「は……離れて……くれ……」
絞り出す、とは違う。情けない声。これまで見せたことのないような。
少年の片手が、彼女の湿った肩に触れる。ねっとり。
緩く、放すように、押す。
顔を背けて。
くらっとする。
彼女、ではない。少年が。
見た……ことがある……。とうとう。とうとうだ……。とうとう、自分にも時が来てしまった、ということだ。もう来ないと思っていた。そういう人間も稀ではあるがいるっちゃいるのだから。
だが、違った。
だからこそ、不味い。
安全弁は、後、何層残っている……?
怖い……。
怖い怖い怖い……。
なのにどうして、こんなにも、幸福を感じるのだ……。
彼女の肩を押した手先から、ぬめっと湿った感覚は消えている。残り香のように残る熱と湿気。それ以上に、熱い。全身が、熱い。
「っ! がぁああああ! 痛たたたたたたたたたたたたた――! すぐ戻る!」
と、背を向けて走り出し、拳で壁を砕き、砕き、遠く、遠く、砕き、砕き、少年の姿は消える。
「……」
無言で、顔を赤らめ、けれど、いつもみたいに舞い上がるのではなく、困惑。それでも僅かに上がる口角。少年の反応に、身体を熱くしていたのだった。
幼な子はただ、呆然としている。
何が何だか分からないといった風。
魔法使いで、これほど幼いままに、このパークに踏み入れる域に至っている者何ぞ碌におらず、そういった者がこのパークに訪れるなんてことは極めて稀有なのである。訪れるのは、夫婦か、大人な関係な恋人たちばかり。故に、色々見てきたこの幼な子には逆にかえって分からない、となる訳である。