デート・クロス・デート・クローズド・サークル・レイク Ⅷ
少年は進み出す。
恐ろしいくらい、揺れない。両足が地面から浮いている瞬間が無いのだ。つまり、走っていない。だが、それでも、彼女自身が歩く速度よりずっとずっと早い。それどころか、彼女自身が走る速度よりもずっと早い。
(通った道は全て憶えている。加えて、見えた範囲も全て記憶している。問題は三つ。一つ目は、ゴールが内にあるか外にあるか、分からないということ。二つ目は、ゴールは一目見てゴールと分かるものなのか分からないこと。三つ目は、ゴールに至るまでに壁以外の通行不能箇所があるかどうか、だ。つまり、左手法が使えるかが分からない。……いや、そもそも、この広さで、左手法なんて使ったら、どれだけの時間が掛かる……)
なお、左手法とは、迷路の必勝法として巷で知られる手法の一つであり、迷路の通路左側を、左手で触れたまま進み続けるというものだ。壁に突き当たったなら、壁に左手で触れたまま放さず、曲がり、進んでいく。そうすれば、ゴールが最外縁部に存在し、落とし穴や毒の池などの壁が途切れる通行止めが無ければ、必ずゴールにたどり着けるという、ファンタジーではなく実在する理論である。
他には現実で有名な迷路関係の理論としては、トレモー・アルゴリズムやオーア・アルゴリズムなどいくつか存在するが、少なくとも少年が知っているのは左手法のみ(他の理論が物語世界で発見されているとは言っていない)である。
(元師匠が言うには、左手法は確実ではあるが、必ず使える訳ではない上、時間制限などがある場合、かえって焦ってしまい逆効果なことがある、とのことだった。確かにその通りだ……。使えると分かったとして、この状況、この広さでは、とても……)
「魔法を使わざるを得ない。幸い、辺り一面は、鏡。抜けている部分は多々あるとはいえ、鏡部分が目に付かないところは無い。分岐が現れた際、選択していない道を走査することができるが、一度放てば更なる分割はできない上、私の魔力量では使える回数に限度がある……。どう、する……?」
高速で歩き続けたまま、少年は振り向くことなく、彼女に言った。
「やめておきましょう。ライト、落ち着きましょう。わたしも人のこと言えないかも、だけど」
ドクンドクンドクン――
ドクンドクンドクン――
互いに互いの心音が届く。
その焦りの理由が全くの同一という訳ではなくとも、焦っているということには変わりない。
(これは、尿意、ではない……。便意だ……。この責は重い。重過ぎるのだ……。精神からくる、体内の怨嗟だ……)
ぎゅるる……
(下の方から、音がする……。ライトの、下……。下の方……。それって……。……。違うのね。そうよね。そういう音じゃあないわよね。……これは……。おなか……ね……。それって、未だ余裕のあるわたしより、ずっと、不味い……)
そこから、少年の速度は風を切る程に上がる。
(早い早い早いっっ! でも、こうなってしまっては、鈍らせることなんて、絶対にできないっ……!)
それでも全く揺れない。ちょっとでも遅れたら、壁に激突しそうだから、彼女は必死で、視認しにくい曲がり角の出現を見落とさず確認し、少年の肩を叩く。右を叩けば右に、左を叩けば左に少年が曲がる。分岐でもない曲がり角で逆の方向を叩けばきっと、少年が壁に激突するのは明らかだった。それも、自分を背負ってるせいで、手をつくこともできず、顔面から。
(絶対、駄目! ライトにはそういう趣味なんて、無いんだから!)
最悪の光景が想像できてしまう。
(あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"……。失敗なんて、絶対に、できない"ぃ"ぃ"ぃ"……)
奇しくも、少年と同じような、迫りくる恐怖を味わうこととなった彼女。
徐々に、もじり始めた。
もじ。もじもじ。こすりつけるように。
そう。もう、彼女にも余裕はない。薄い尿意何ぞ引っ込んで、だというのに、追いつけられている。その上、自分の心配ではなく、しないといけないのは少年の心配と、緻密な少年の操縦。ある意味、少年以上に一気にピンチ、である。
そして、少年はその彼女の身体の動きを、当然の如く勘違いせざるを得ない。
(あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"――)
もう、思考も試行もクソもない。
ぎゅるるるるるるるるぅぅぅぅ――
おぞましく鳴り響く腹の音という刻限の鐘に怯むことすらできない。
そして、その鐘の音は、彼女にはばっちり聞こえている。響いてきている。
こんな密着。いつもの彼女なら、甘くピンクにドキドキできている至高のひとときの筈なのに、今回に限っては全くそんなことなくて、冷や汗を通り越して、もう、青褪めて、でも、心臓はやばさにバクバクいっている。この上なく。クラクラするくらいに。目眩いがするほどに。
「もう無理ぃいいいいいいいいいいいいいいい――」
もう、彼女は耐えられなかった。
その叫びが始まった瞬間、少年は――跳んだ。左右の壁を蹴り、飛翔するかのように、重力に逆らって、恐ろしいスピードで、遡上してゆく。そして、
「ライトニングボルトォオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」
尋常ならぬ、莫大な魔力の放出、一瞬で、結果は結実し、閉じられた別世界であるこの場所を、天から裂いて、つんざくように、それは、一閃、炸裂し、その鏡な巨大な立方体の建物の、少年たちの頭上の天井を、大半が反射し、散らせれてゆきながらも、砕く、否、蒸発させた。
自身にも通電してきたそれを、制御し、彼女を感電させることも、熱を帯びさせることも、弾き飛ばさせることもなく、全て自身の動力に変え、飛び出す少年。ロケット弾のように、びゅぅううう、と、飛んでゆく。
少年は彼女をがっちりと抑え、彼女もがっちりと少年に密着を保っている。
そのまま、恐ろしい勢いで、その世界の果てまで――
ゥオオオンンンンンンン、神掛かったアクロバティックな、宙返り挙動を入れ込み、勢いを一瞬殺し、彼女の両足をそっと抜き、しがみつく首元の両腕を、ツボを衝いて、弛緩させる。
(遣り……遂げたぞ……)
彼女の感触と、熱が、離れてゆくのを感じて。
残った力に流されるように、少年は、ぶっ飛んでいった。