死なない世界の修行の仕方 Ⅵ
少女、青藍の寝室。
微妙に閉まりきっていないカーテンから月光が差し込む閉じた窓。紫と空の星座の星がちりばめられたようなシーツの、キングサイズのベッド。
赤絨毯が、部屋の端から恥まで敷かれていて、そんなベッドが中央に置かれただけの、他に物どころか、家具すらない。
寝る為だけの部屋のようなそこは、青藍に与えられた私室である。
カタンッ!
眠りについていた青藍。以前と同じように、寝る時間は早いままではあるが、ここ数日、普段よりもどうしても眠りが浅くなっているため、
「……んん」
目が覚めてしまう。
落下音。
なにかが地面に落ちた音。絨毯の床に落ちて、それでも鳴った、音。
それを考察するには、青藍はまだまだお眠であった。
起き上がり、くるまっていた、様々な月齢の月が黄色で刺繍された黒いタオルケットベッドを肩に引っ掛けたまま、起き上がり、ベッドから降りて、立った。
カーテンの方へととぼとぼ歩いていった青藍は、それを左右に大きく、分け開いた。
タオルケットの隙間から、半ば透けるような、薄い薄い白いネグリジェ姿の青藍を、差し込む月明かりが照らす。
まだ、半ば寝ぼけている。
とぼとぼと、赤い絨毯の上を歩き、物音の主を探す。
碌に目も開ききらず、ぼやけた視界で、目を擦ろうともせず、四つん這いになって、手を絨毯の上を滑らせ、のろのろと、手探りに探す。
カコンッ!
手に当たったそれを、手にとった。
ジリリリリリリリリリリリリリリリリ――――!
「っ!」
強制的に覚醒させられる羽目になった。
きっと、びっくりして、尻尾を波打つように立てた猫のような姿勢になっていたに違いない。
それは、目覚まし、時計である。
意地悪そうな爺さんの顔の形をした、黒い時計。開いた口に短針と長針のついた時計盤が埋め込まれた何とも悪趣味な時計で、中に内蔵された機構が金属の金切りにも似た不快な音を鳴らしている。
止め方は、その頭を叩くこと。
それを知っていた青藍は手を放してしまって絨毯の上に転がってしまって、それでもなおなり続けていたそれを、掴んで、立って、空いているもう片手を振りかざして、その頭を、ぱぁぁんっ、と一発。
それは、ものの見事に停止した。
口の中の針として、秒針が出現し、せわしなく、けれども音もなく動いているので、当然、壊れてなんていない。
それの止め方を知っていたのは、それが学園長の品であると知っていたから。学園長の趣味とはちょっと違うが、学園長が何故か妙に大切にしている、と印象に残っていた時計である。一度見せてもらってそれっきりの。
「?」
手にしているそれを眺め、首を傾げる。
意図が分からないから。
でも夜であるし、学園長が今日は帰ってこないというのは、夜ご飯自分の分は用意しなくていいと言われていたから知っていたし、だから、青藍が選択したのは、二度寝、である。
びっくりさせられたときに体からずり落ちて、絨毯の上に落ちてしまっていた月刺繍のタオルケットを肩に引っ掛け直して、気怠そうに、ズズズズすり足で、ベッドへと。そして、力を抜いて、ベッドの上に倒れ込もうと…―
ドギィシィィィッ!
落ちて、きた。
何か、大きなものが。
自分の布団の上に。
予想外の展開に、思わず尻餅をついた青藍。ずり落ちたタオルケット。
ベッドの上を、見上げた。
「えっ……?」
それは、普段の服装のまま、酒と吐瀉物の臭いに塗れた、少年、だった……。
青藍は固まっていた。
立ち上がりもしないまま。ベッドの傍、そこから数歩分離れて、絨毯の上に、尻をつけて、足を開いたまま。ずり落ちたタオルケットを再び纏うことすらせずに。
あの日から気まずくて、会いにきてくれなかった、会いにいけなかった、あの少年が、何故か、泥酔? 昏睡? 意識を失って? 眠って? 自分の部屋の、ベッドの上で、横たえている。完全にのびて、いる。意識なんて、絶対にない、と断定できる。
ドクン。
ごくり。
タオルケット放ったらかしに、青藍は、立ち上がり、おそるおそる、足を前に進め、ベッドのふちに、腰をかける。そして、後ろを向き、そこにいる、意識の無い少年を、見る。
口元に吐瀉物が残存している。
それは、青藍のベッドのシーツを微かに汚していた。
「……。ライト……?」
起きてるの、とでも尋ねるかのように、小さく、そう、声を掛ける。
当然返事はかえってこな…―
「んん……」
少年がそう声をあげて、寝返りをうった。青藍の背の向きを向いて、横向きに背を丸めていた姿勢から、仰向けになっていた。
びくんっ! と声を殺して、すくみあがっていた青藍の心臓も、手に握る汗を含めた体の汗も酷いものになっていた。着ている衣類に湿りを感じるくらいに。
バクン、バクン、バクン、バクン!
青藍は、ベッドに身を乗り上げる。
そして、少年の胸に、耳をあてる。
大柄な少年。がっちりとした。
だから、そうやって、コレクトルの体重が、耳を胸にあてるために前から、脇腹が、片胸が、首筋と髪が、耳が、耳を縁取るようにあてられた片手の指が、体に乗っても、びくりともしないし、ものともしない。
意識ない、無抵抗な少年は、されるがまま。
ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。
青藍の耳に響いてくる少年の心音は、穏やかで、けれども力強くて、何より、少年の胸越しに伝わってくる穏やかな熱と頼もしさ。吐瀉とアルコールの臭いの奥の、汗の、匂い。
それが、少年のものだと思うと…―
「ぅぅ、ごぼぼぼぼぼ……」
少年の口から、泡が……。
急いで青藍は、少年の首の後ろに手を回し、その背を持ち上げ、何とか、この、吐瀉中であれば最悪といえる姿勢を何とかしようとするのだが、当然のように、少年の身体は、重い。ただの少女が持ち上げられる類では決して無いのだ。
なら、魔力を使えばいいのでは、となるのだが、生憎……、青藍は朝に弱かった。つまり、寝起きはダメダメであるということ。魔力をまともに練ることすら、寝起きである今は叶わない。
しかし、このままでは――
そこで青藍はどうしたかというと、少年へ、覆いかぶさるように、自身の唇を、少年の唇に――
吸い、上げた。
想像だにしない、苦酸っぱさに、咽るそうになりながらも、飲み干す。泡の下は、液体だったから。
ごくん。
思わず、飲み込んでしまった。吸い出して、吐き出すつもりだったそれを。
味わう余裕もない。
少年が飲み干した量は果てしない。
再び溢れてきたそれは、今度は、透明で、より純粋な酒の臭いがしている。
すぐさま、青藍は同じことを繰り返す。
けれども、さっきのとは違う。飲み込んでしまうなんてことにはならない。それは、この日まで未知だった、酒の味。
そして、それは青藍にとってあまりに早過ぎたようであって。
吸い上げて、口に含んで、嫌な熱を口の中に広がっていくのをなんとか耐えながら、少年から身を放し、吐き捨てる。
ゲホゲホ、と咽せて。涙も鼻水も、流れ始め、止まらない……。
それでも、まだまだ終わらない。
こんなになるということは、見掛けからも分かる通り、泥酔状態。学園長がたまに酔うのを見たときの経験からも間違いないと青藍は覚悟を決めた。
安定姿勢をとらせることも、起こすこともできはしない。
だから、終わるまで、続ける他、ない。
耐性の無いそれに、自身が侵されてゆくのに耐えながら、青藍はもうそれはもう、必死に、頑張り、続けた。
初めての、好きな人との、キス。その味は、ひたすらに、吐瀉とアルコールの暴力だった、咽るような、青藍にとって、悲しいくらいに忘れられないものになった。




