魔女と魔王 Ⅷ
遅れて聞こえてくる音。
そうして漸く、認識した光景。
キィィインンンン!
飛び掛かるような両の手が、それ以上の進行を遮られている。黒々しい炭の塊であるそれは、衝突を象徴するような白光を強く放つ。
こちらへは、届かない。
意識して防いた訳ではない。
この忌まわしき呪いは、護りでもあるから。
靄。黒い靄。実体をぼかし、存在を仄めかしつつも、芯を捉えさせない。そして、畏れを存分に含むその靄は、加えて、強固な境界のように、相手を拒む。靄でありながら、透過を許さない。
「それが貴方の本気? 貴方がそんな弱い訳が無いじゃない」
青藍は呟く。
言葉遣いによる枷を掛けず。
封じる蓋も無く、せめてもの枷すら無い。
今の彼女は、紛うことなく魔女。
思索が無い。意図が見られない。技巧のカケラも無い。ただ、本能の赴くままに、野蛮に、暴威は振るわれる。
二足歩行の獣と言うものが存在するのならば、このようであろうという体現である。
屈強な腕は、打撃の瞬間に膨れ上がり、衝撃を増幅する。地面に当たった拳は、そこを起点に、爆発したでも無いのに、それに等しいような衝撃で吹き飛ぶのだ。
おまけに、弾き飛ばすのは礫砂に留まらず、空気までも吹き飛ばす。真空になったそこに、大きく離れるように避けて着地した筈の彼女の纏う黒々しい靄が吸い込まれるように引き剥がされる。
一瞬彼女の姿が垣間見える程に。
しかし、すぐにまた、靄で埋もれる。発生させ、纏い続けているのではなく、とめどなく、勝手に漏れ出す分だけで事足りていた。
守りは盤石であるようで、この身に、彼の一撃一撃は、たやすく届く。浅くてこれ。まともに当たれば、一撃で蹴りがつくかもしれない。
彼女にはそれでも恐れはなかった。
その靄は毒だ。精神を苛む病魔の様な。
浴びるように触れて、吸って。微塵も衰弱に近づいていかないだなんてある訳がないのだ。
こちらの足元を大雑把に狙った様な手探りな低めの横薙ぎ、そして、ラリアット、靄ごと大きく大きく息を吸い、迫る大口。低く地面をほぼ平行に蹴って、頭から飛んでゆく。
着地。続けざまにきた。爪を立てて、肉を掴み上げるように、腕を突き出して、掬い上げようとされたのが、大腿の外を掠った。
彼の獣の様な動きはより、連弾的、変則的になり、絶え間なくなってきていた。
狙ってやっているという感じではないのに、最適化されている様な。
先ほどまで存在していた待ちや、様子見の間が無くなってきている。
彼女の頬を汗が流れる。一瞬顔が苦痛に歪む。痺れる様な、穿孔と感電の痛みが、大腿から、周囲に散り、倒れざるを得ず、地面に着く瞬間に、靄は残したまま、自分だけ短く、転移した。
いるはずのない逆方向。上。膨張した白く煌めく黒炭の彼が、普段の彼の大きさよりも小さく見えるくらいの建物三、四階程度の上空へ。
平静の彼になら、このような手は効かない。悪手ですらある。しかし今はどうだ。こんなにも彼は目の前しか見えていない。
やはり。
燃え尽きても彼は彼なのか。ものの数秒で気づくに気づいた。そして、投げるでもなく、放つでもなく、待つでもなく、跳ね上がってきた。
膨れ、膨張させた両足を、一気に収縮させて、飛び上がってきて、彼女の上をたやすくとった。
そして。ぐるぐる空中前転し、風車の様な風を起こしながら、彼女がこの上空で発生させていた靄をあらかた巻き取って、無防備になった彼女に、突っ込んだ彼の縦の遠心力を纏った踵の一撃が彼女の胴を捉える。
彼女は覚悟した。一撃分だけ。連撃にはなり得ないと。
まともに当たったそれは彼女を砕く。骨は言うまでもない。片肺は潰れ、心臓は彼女自身魔力で辛うじて弾いて、事なきを得たが代わりに胃を抜け、破裂させられた。
痛覚は辛うじて遮断を間に合わせつつも、それは致命に限りなく迫っているのだから、彼女の顔は酷いことになった。目、鼻、口から逆流する血反吐。涙も混ざって溢れ出して霞む瞳。逝きそうな開ききった瞳孔。
【尾喰う環蛇】
それは、偽りの自己再生。偽りの永久機関。
溢れる吐血に混ざった声なき声のような魔法。靄が溢れ、血肉を演繹し、万全を偽る。光の爆発の衝撃に吹き飛ばされ続けつつもそれを超える勢いで溢れ続けるそれの靄の様な質量も積み重なり、即ち、引力のような作用を齎す。
彼の上を取るように転移。
彼はーーこちらを見上げ、回転を止めている。
【白昼月弧ノ沈】
それは、白昼の三日月とその終わり。
彼女の反撃。平静の彼なら避けることを選ぶに違いない。夜と月と時の魔法でありながら、昼中にこそ、威力を発揮する。
巨大質量。速度はありつつも、鈍い切れ味の鈍器と圧殺気味の斬撃。
空を蹴って落下を殺して浮力を得ながら突き上げた右腕で迎撃してきた彼の身が罅割れた。
三日月が彼の右腕を、右肩外へ抜けてゆき、右腕が外側半分、縦に割れ、剥がれ、落ちてゆく。
変わらずこちらを見上げる彼は落下を始めつつも、苦しみ一つ見せず、靄で雲隠れしてゆくこちらをまっすぐ見上げ、見据えている。
彼の断裂面から広く、細長い面に従って表面に発生したそれは打ち上がった。
打ち上がりながら突き上げるように貫いて抜けた白雷。
曲がり、貫き、貫き、曲がり、貫き、抜けてゆきながら、白き雷は線を引き遡り、一際強烈な、撃ち落とす雷撃となって、誘導、少女の頭から、背を、まっすぐ突き抜けてゆきながら、燃やした。
雷の速度。予想し、前もって覚悟を備えることすらままならず、熾烈は閾値を超える。硬直し、神経が焼け付く感覚に、残った身から凡ゆる液を吐き出すように漏らしながら、溢れた液ごと、揮発するような熱が後に迸り、蒸発しきる。
両の目は沸騰と小破裂の連続の末に、弾けるように血に滲み、もう碌に視界もない。
鼻は守った。彼は木炭の燻る匂いを濃淡付けて、ある程度の動きと先を漏らしているから。
耳は守った。彼は平静とは違い、音を消さない。偽らない。
脳は守った。言うまでもない。
靄は止まらない。呪いの一部の具現であり、尽きぬ魔力そのものとして、流用し続けている。彼一人しかいないから、溢れ残るからこそ、守りに、偽りの血肉に、使いに使って、これだけは余りある。
息は上がらずともしんどく、多重並列に思考・視点持とうとも、限界が迫ってきている。
脳は、意識は、偽れない。代替できない。それこそ、制御不能に陥る。手加減できない。
確かに今の彼は強い。暴走し、衰弱し、弱体し、知恵捨てし、先見ず、それでも彼女を圧しているように見える。
それでもーー彼は繭から変態前に出る羽目になった、幼生に近しい失敗作な魔王に過ぎない。
地に落ちた、彼の右腕縦切断部が、弾け、光帯となった。地上から、遥か上空へ、彼と彼女のいる、建物二階程度の上空よりもさらに見上げて果てなく高く、発生したそれが、彼女の左腕を肩から切断して、一際強い後光のような煌めく燃焼で、切れ端側を消し炭にし、彼女側断面を焼き塞いだ。
それでもーー彼は魔王と呼ばれるに値する程度には驚異である。
空中にいながらのけぞって、ぐわんと、勢いよく体を一気に丸め、反動で、迫り浮かび上がるように、彼女の胎を喰らい破った。
それでも彼女はーーそんなことどうでもよくて、
【悍魔腐瘴呪胎腑】
ただただ、彼を助けたかった。それだけしか考えていなかった。
彼を滅ぼすでなく、引き戻すが為に、存在を賭けた。嫌悪され、拒絶され、他と同じように彼もなってしまうのだとしても構わないから、あの炭の壁の内側のもっと内側で、怖くて怖くて怖くて泣き暴れている彼を、潰すことなく、助けたいのだと。
魔女として成体である彼女は災厄であり、個人単位への脅威の範疇には居ない。まともに対抗することを選んでいれば、余裕をもって、彼を消し飛ばして自身は(肉体的には)無傷で終わりにできていた。彼女のリソースは余りに余っていたのは上に述べた通りなのだから。
そんな彼女が選んだ手段は、貰った腕輪もとい指輪の件からきた考え。闇より強い過剰な光に、それを消し飛ばせる程度の、数倍量をぶつけ、対消滅させること。
外からだけでなく、内側からも。
それこそ、内からも外からも、包み込むように抱きしめてやりたいのだと。
闘争が為の動きを止め、口にし、喉を通し、腹に呑んだそれの広がりと深淵と歴史と感情の積載の濁に、痙攣しながら、膨らみ、縮み、膨らみ、抑え、震えながら、彼の炭の殻は罅割れて、砕けて、剥がれ落ちてゆき、彼の肌が露出する。生身が、顕になってゆく。
いつもの大きな彼でなくて、幼子のように小さくなっている。存在ごと消耗した彼は、二回りも三回りも小さな幼な子のように小さくなっていて。
声なく、意識なく、血涙を流し、口からこぼれる真っ赤な血。舌を噛みちぎり終えている。歯は、軋り、罅割れ、半ば、砕けている。髪の色は、真っ白に色褪せている。
彼女は、そんな彼を、半ば靄のその身で、正面から抱え込むように包むように抱きしめて、自分が下になるように、背から地面に叩きつけられて、弾けるように跳ね上がって転がりつつも、全部自分が下になるように、彼を護りきった。
光の聳える環壁が消える。
靄が薄れてゆく。
霞む瞳で見届けて、胎に響く啜り泣きの暖かさに、やっと意識を手放せた。
魔女と魔王 FINISH
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