魔女と魔王 Ⅴ
「あ、が、あっ、あっ、あっ、あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"――」
限りなく遅くなった視界。音。鈍く、引き延ばされた感覚の中、青藍は膨れ上がり、光が噴き出し、何時まで続くかに思えた中、刹那、光景は加速し、弾け、飛んだ。自身の世界を、内から突き破られて、肉片の礫となって、飛び散り、そんな断片すら、光に、呑まれて――目を覚ますと、ベッドの上、だった。
跳び起きたような心地だった。
けれども、それは錯覚。
白い天井。音と、においのない、何処か。
光と、それが揺らぐ様子が天井に映った。
差し込んできているのだろう、と、思って、ここは何処か、と、そもそも、とっても鮮明な夢でも見ていたような――
あれは現実なのか、それとも――
体を起こそうとしても、感覚がない。力が入らない。
それでも頑張って、頑張って、頑張って、持ちあがったといえるのは、首だけ。到底、上体を起こしきるには足りない。
(っ……)
ドスッ!
やるせなく、枕に沈む。
「起き上がるには未だ早いですよ」
誰かの声。
やけに、爽やかで、透き通った声。少し高め。けれども可愛らしさは無い。発音に丸みが無いからだと思う。男の人、なのだと思う。多分、大人。
ギシッ。
物音が、聞こえた。
椅子から立ち上がったような音だ。
コトッ、コトッ、コトッ、コトッ、
足音だ。こちらに近づいて――わたしを見下ろす、誰かの顔。こちらを、見下ろしている。限りなく白に近い黄金色の長い髪が、すだれのように、後ろの光を良い具合に遮る。
「……」
その男の人は、こちらを見下ろして、何も言わない。真っ白で、乱れも破損も汚れもない白衣の胸元は薄い。
目の下の深い隈と、張り付いたような微笑。整った顔。高い鼻。長く、しなやかに、真っすぐで、しなやかな、男性にしては異様に長く、それでいて、根本から毛先までちゃんと手入れされている様子が、その艶から見てとれた。
背はそう高くはなさそう。
圧迫感が無い。
肩幅が狭く、華奢。上半身の、上の方しか見えていないけれども明らか。
白衣という長くて、下へと広がりを持つ衣服がそれらの特徴を際立たせている。
目元が緩んで、開く。透き通るような、薄い灰色の瞳が、無表情にこちらを見下ろしていた。目に光が無いというか。無機質なガラス玉のような。青白くはないが真っ白い肌も相まって、一層不気味に、現実離れした、人間でありながら人間らしからぬ造形が際立っている。
潤みや熱が、その目にはまるで宿っていないように見えた。
「治して、くれたのは、貴方ですか? 先生」
手足の末端さえ、びくり、とも動いてくれない。どうやら、思っている以上に、具合が悪いらしい。口が滑らかに動かず、変に途切れた言葉になったのだから。
「まあ、あぁ、ごほんごほん」
と、言いかけて、若々しいのに、まるで年寄りみたいにわざとらしく咳払いして、背を向けたまま、三歩、こちらから離れて、立ち止まって、振り向くことなく言った。
「そういうことになるね。君を生かしたのは学園長の敷いた理。君をわざわざここまで急ぎ治したのは私だがね。尤も、まだ、治ったといえるような状態ではないけれども。未だ当分、布団はめくらないことをオススメするよ。遅れてしまうからね、完治が」
そして、
ガタンッ。
椅子に乱雑に腰を下ろした音だろうと思う。
苛立ちか何か。声に混じった棘は確かなもの。
なら――
(『やめておきたまえ。気持ち悪がられたくないと常日頃思っている癖に』)
「えっ……」
覗き込む、目の下の隈が目立つ男の、憐れむような瞳。遅れて聞こえてきた、椅子から立ち上がる音。
「私だよ。ちゃんと見えて聞こえているようで何よりだよ。魔力知覚の修復は物理的な肉体の修復とは段違いにめんどくさいのだよ」
言われて気づいた。なら、起き上がるくらい簡単だって。魔力が、あるんだから。使える形で。そんな使い方は今までしたことが無かったけれど、やろうと思えばきっと簡単なことだと思うから。
「おいおい。起き上がるつもりかい? 無理やり。それは困る。仕方ない」
と、男は胸元から出した、こぶし大の大きさの、黄金色の琥珀を砕いた。
夕焼け色の光に包まれて――
【貴女の為に心地を遺します】
知らない女の人の声だった。穏やかで優しげで、でも、とっても弱々しくて、儚げな――
「彼のところに行くといいさ。事が終わるまで大人しくしていればいいのに、無駄に苦労しようだなんてね」
ぽたっ。
私を見下ろす瞳からきっとそれは零れたんだと思う。
ぼやけた夕焼け色だけの光景が、薄れ、白く、白に包まれていきながら。
「【想い出すといい。黄金色の過去を。嘗て稲穂の丘で、君は舞った。けれども、なぞらないように。後悔のないように】」
はっきり聞こえたそれは詠唱。
残響のように、その最後の、繰り返される一節。後悔のないように。
優しさと寂しさと、優しく背を押す、華奢な誰かの手。
そうして青藍は、光の柱たちのぼる、爆心地の前に立っていた。
躊躇なく、光の中へと、踏み行って、先へと、消えていった。
少し時間を遡って。
学生街。爆心地。一帯を包んで放出され続け、立ち昇る、光の柱というには広大過ぎた、聳え立つ光の領域の前に、学園長は立っていた。
物音はない。光の領域は音を此方に向けて立ててはいない。唯一の物音は、そう、仕事の報告をしにきたこの男。
何やら話し合って、その決着がついたところであるらしい。
「はぁ。よかったよ。念押しするけれども、最低限、引き摺り出せさえすればいいから、もっとうまくやろうだとか、変に頑張らなくてもいいからね」
「……。御約束、どうか、お忘れのないように」
その証拠に、目元を赤く腫らせた男がそう、学園長に耳打つ。
保健室の教師とはまた別の男だ。
焔色で、淵が焔のように煌めくローブ。そのフードを深く被り、緋色の目に、鷲が翼を広げたような凛々しい赤眉を持つ、飛び散ったような火傷痕の水膨れが頬に目立つ男だえる。
「勿論だとも。一応今回も言うけれども、これが禁忌とされているのは、成功したとて、意味が無いからだよ。両方は叶わない。片方だけ。毎度毎度、入れ替わりを繰り返しているだけ。君と彼女とで。失敗するまで繰り返すつもりかい」
「いつかきっと、わかってくれる時がくると信じていますから」
男はそう、穏やかに微笑んで、目を潤ませる。その瞳には強い光が宿っていた。
「済まなかったね。では、頼んだよ」
と、手を振って見送った。
男が境界に触れると、表面を灼かれながら、爛れた先から再生してゆく。問題なさそうだと、男は躊躇せず、その先へと、灼かれながらも、再生で拮抗しながら、先へと消えていった。
その姿が見えなくなるまで手を振っていた学園長は、大きく溜め息をついた。
「入るは自由。出しはしない、か。嘘っぱちじゃあないか。入ってくるな、だろう? っと。あらら。腿から下は再生じゃあなくて、創り直しか。情報ごと焼け切れてるとはねぇ」
スッ、と掌で断面をなぞると、焼失なんて無かったかのように、学園長の左足は、衣装ごと再生した。
先ほどの男に、危険性の説明をする為に実演してみせた際の焼失だった。
「異界の客というのはどいつもこいつもどうしてああも、面倒なんだろうねぇ。まあ、化け物には化け物をぶつけろとはよく言ったものだ」「
「……よりによって、彼を歪めるとは。未だ消費する訳にはいかないというのに。品質が保たれていればいいが」
学園長は思う。
弟子は保険に過ぎない。生きた彼でなくても、自分には彼が必要なのだ。願いを叶える為に。そう、予言には出ているのだから。
流石に悪いからと、手を回し、今回の件における一応のラストチャンスを与えてやったというのが、後の時間の夕焼けの光景の訳である。




