騎士叙勲辞退 Ⅰ
空は酷く曇っている。今の私の心を映し出しているかのように。
私は、悩んでいた。騎士叙勲の日の前日だというのに。
地方君主の次男でしかない私の叙勲の為に、王族が訪れることになる程、期待されていた。魔法の家門に生まれたにも関わらず、魔法の才能の無かった私には、それだけの、騎士としての才があったらしい。
情けから私を拾い、見出してくれ、今日まで面倒を見てくれた、騎士としての師に丸一日与えられ、私は、森で独り、考えていた。ここまできても、自身の心に纏わりつく靄の正体を。
幼き頃からそれはずっと、自身の心の中に存在し続けていた。意味が無いと分かって、やめられず続けていた、魔法を発する為の詠唱の練習。叙勲の前日である今日ですら、それをやめられず、今こうして、唱えようとしている。
始まりを、強く、思い出す。
私は、変われていない。変われなかった。捨てれなかった。成りたいものは、奇蹟の担い手。騎士として幾ら優れていようが、絶対を、理に反して覆せすことは叶わない。それができるのは、いつだって魔法使いだけだ。
始まりを、強く、思い出す。
物心ついたかどうかの朧げな昔。輪郭すらぼやけた、亡き母の顔。それでも、夜な夜な読み聞かせてくれた穏やかな声と、物語の光景を、よく、覚えている。
(城壁に囲まれた街。その街外れ。薄汚れた暗い家。擦り切れた布団の上の、事切れた子供。傍で崩れ落ち、涙すら流れない、母親。元から恵まれていない者に降り注いだ絶対たる絶望。母親は、壊れながら、目を閉じ、届かぬ筈の天へと、きっと、祈った)
(声が、聞こえた。聞き間違える筈のない、我が子の声。母親が目を開けると、そんな、蘇った子供の頭を撫でる、杖を持って、ローブを深く被った、誰か。次の瞬間には、その誰かの姿は、跡形もなく、消えていた)
始まりを、強く、思い出す。
嘗て、母親の前で語った、希望。今となっては、遠い夢のような。そんな無意味な詠唱を、今日もまた、突き出すように前方を指差しながら、高らかに叫んだ。
「啼け! 居貫く雷!」
何も――起こらない。そう。何も。昨日までと何も、変らない結果。指先に、微かな雷の発生の痕跡すら、一切、無い。
(変わらない……。変われない……。この、声変わりしない声と同じように……。私は結局……)
森から戻ることもなく、眠ることもせず、夜が、開けた。
ガシャン、ガシャン、ガシャン。
足音が止まる。
切株に腰かけて、頭を垂れていた私の前で。
「そろそろ時間だ」
低く、酒焼けしているのに、どこか優しさを感じるような声。見るまでもない。間違えようが無い。
「師匠。早く、ありませんか?」
と、顔を上げながら、私は言った。
「何を呆けている? ライトよ。やんごとなき方々がお見えになられるのだぞ? ましてやお前は、そんな方々の眼前で傅く事になる訳だ。曇り空は続くだろうが、雨は降らないだろう。大気の臭いがそう言っている。延期にはならないぞ?」
師匠は、私のことをそう呼ぶ。拾われたときから今まで変わらずずっとそうだ。
「成程。ああ、師匠。とはいえ、装着済だとは。さすがに気が早いのでは。ううむ、威圧感が、ありますね。師匠の騎士鎧って騎士のそれというよりもどこか、人外染みてるように見えます。とても、強そうなのです」
久々に見た白亜の騎士鎧。武器を除いて、フル装備に見える師匠。筋骨隆々系の二足がっしり系の、人間の大人の男の数倍の恰幅で、変わらぬ背丈ほどの魔獣が中に入っていると言われても信じてしまえそうな位のそれは、大きさやフォルムは野蛮なのに、不思議と品のあるものに見える。
勿論、唯の鎧ではない。騎士鎧なのだから。それも、正騎士の、鎧。つまり、魔法の鎧。
(魔法、そのものでは決してない。だが、それでも、これは、魔法に拠るモノだ)
「ははは。そうだろう。お前の為に着てきたのだよ。どうだ? 少しは不安は和らいだか? ライトよ。今日は善い日なんだ。ようやく、お前はその才能に見合った相応しい力を与えられて、公に認められる。本当に、胸を張って、生きていっていいんだって、公に認められるんだ」
「ええ。まあ……。ありがとうございます」
すると、がしがしわしゃわしゃと、上から頭を撫でつけられる。
「おいおい……。お前寝て無ぇな? ライトよ。お前の疲れは顔や肌には出ないし、体力にも知力にも早々出ねぇから言わなかったが、髪にすげえ出るんだよ。なんか、かさっかさに傷んでるように見えんだよ。真っ白だからか、ツヤの有無が酷く目立つんだよ」
(流石師匠。それは私自身も知らなかった。しかし本当、世話焼きなものだ。ありがたい。ありがたいが……)
風呂場。
自分一人のそこ。踏み入れない筈の、自身の生家の風呂場。光沢のある、焔色の石の切り出し材が張りつめられて構成されている、このどこか落ち着かない気分になる。当時は思わなかったが、こんな石材、どっから見つけてきたのだろうか?
浴場には誰もいない。長い髪ではあるが、もう、流し終え、加えて、髪以外も上から下まで洗い、整えた後。数十人が同時に入れそうな広さの浴槽に張られた、嘗てとは違う、きちんと透き通った熱い湯に漬かり、脱力する。
(あの森を挟んで、師匠たちとのキャンプ地から此処まで。最初で最後の凱旋。だが、父上も、兄上も、弟も、ここでは顔を合わせず、か。……。だが、叙勲の場には必ずいる)
歪む水面に浮かぶ自身の顔は、普段よりもずっと歪んで見えた。赤い硝子色の瞳が幾重にもぶれて見える。
顔や手の傷の数々やかさぶたが無数に見える。焼き色付かぬ肌だからこそ、酷く目立つ。
(積み上げてきた。必死に努力し続けてきた。師匠が、握らせてくれた剣を一日中喜んで振り続けたあの日、私に見せた笑顔が忘れられない。嬉しかったと同時に怖くて、見捨てられない為にというのが最も大きかったのだと思う。自信もついてきた。前を向けるようになった。胸を張れるようになった。だが、それでも、拭いきれないものがある)
ザバァンンン!
立ち上がる。
師匠との生活を始める前とは違って、纏わりついた湯水の質量に全くふらつかない。細枝の手足と薄板の胴であった嘗てとは違う。
彫刻に掘られた裸男のような筋肉。それでいて、動かないあれらとは違って、瞬発力を備えて、私の肉体操作は自由自在。
これは、確かな証だ。何も間違ってない。だから、このまま進み続けるべきなのだ。
(師匠に嫌な顔をされても。師匠の仲間たちにも笑われても。それとは別に、私は必ず毎日、叶う筈の無い詠唱を行うことをやめなかった。……やめれ、なかったのだ……。どうしても……。どうしても、どうしても……)
力が抜ける。無抵抗に湯船に倒れた。
(師匠……ほんとうに、ごめんなさい……。これは、絶望ではなくて、希望……)
背で湯水を蹴り、前転し、跳ねるように、着地し、浴場を走り抜け、後にした。