~遠く寒い世界から~
あらかじめ了承しておいてほしいのだが、当方は所謂「オタク」であり「ヲタク」である。具体的に言えば、懐に入った利益の大半を漫画やゲーム、その他諸々のグッズ購入によって散財し、またアニメを深夜若しくは日中にリアルタイムで視聴したいがゆえに明朝のゆったりとした時間を犠牲にすることを至上の是とする戦士のことを指す、あのオタクだということである。
よって、「オタクキモイ」などといった類の心無い感想や意見は控えていただけると助かる。やっぱり傷つきたくないじゃん、俺だって人間なんだし。知ってる?アニメとか漫画って偉大なクールジャパンなんだよ?
…ごほん。さて、ついに何の意味があるのかわからないこのモノローグの本旨に移っていくわけだが、やはりせっかく用意されたこの場で俺が話したいこととは唯一無二である。唯の一つに二つ目以降は無いと書いて唯一無二である。それ以外に蛇足となりうる意見は俺の中からすでに一ミリ残らず排除してあるのでご安心を。
前置きが長くなってしまったが、その内容とはつまるところ「俺がこの後にする蛮行についての補足」である。
この後に俺は、とある「誤った過ち」を犯してしまうのだが、それを皆さんには温かく見守っていてほしいのである。決して自分自身は犯罪者ではないとか俺は悪くないとかそういった情けない弁明をしたいわけではないのだが、如何せん案件が案件である故にそう捉えられても致し方ないようなことを敢行してしまったのである。
なぜそんなことをしたのかと問われれば、自分でも「何故だろう?」と自らの頭上に均整の取れたクエスチョンマークを降ろしてしまうのだが、強いて言えば「共感」してしまったからだろう。偶然、たまたま、図らずも奇跡的に出会ってしまった「彼女」の面影に、どこか自分の境遇を重ねてしまったのだろうと、今はそう思う。運命か宿命かそれ以外か、いずれの都合の良い解釈をしていただけると存外気が楽になろう。でなければ、それはオタク特有のシンパシーだということで構わない。
と、ここまで無駄に長いスピーチをご清聴いただいた方には最大級の感謝を禁じ得ない。
かくして本編は始まるのだが、この物語を認識する際には全く身構えずに、なんなら個包装のチョコを作業の合間につまむがごとくサクッと読んでいただければ幸いである。シリアスなストーリーとか白熱するアクションとか幻想的な異世界ファンタジーとかでは全く以て無く、ただ、俺たちのくだらないやり取りの日常をぼんやりと眺めてほしいのである。
…いや、本当にしょうもないからあんまり見ないでほしい気もする…。
東北地方、そのどこかにある街・依澄市。
自然と都市が一体となって形成されている土地柄でありながら中枢都市のベッドタウンとして人気のあるこの街でも、やはり日本に存在する限り春夏秋冬の移り変わりは避けられなかったようだ。
季節はすでに初夏を過ぎ、徐々に燦燦とした太陽光が真価を発揮し始める時期である。
現在、7月下旬。
この頃になればもう長袖を着て外出するという暴挙に及ぶ者はおらず、ほとんどの人間が半袖に衣替えを完了しているだろう。環境の変化や厳しい勉学に耐えきった学生たちは夏休みに入り、課題をこなしたり、部活に打ち込んだり、はたまた学び舎で出会った友垣たちと遊んだりと、彼らは思い思いの時間を過ごしていた。
夕暮れの橙色に染まりつつある街を一人で歩く少年、海照三冬も例にもれず、休みの日に友人の家で遊び倒したその帰路についているところだった。
高校生らしいナチュラルでシンプルな短髪は汗で滲んではいるものの崩れることはなく、しっかりと髪型の役割を果たしている。夕日が照らす彼の影は、175㎝というもともとの身長の高さも相まって、太陽が沈む方向とは逆の向きに長く黒いシルエットを生み出していた。
「はぁ…あっつ。日も沈みかけてるってのにこの熱気かよ」
三冬は辟易しながら大自然の毎年の恒例行事に対して文句を言ったが、その悲痛な叫びを聞いて慰めてくれる者はいない。さらに、このまま家に帰ったとしても頼みの綱のエアコンは現在故障中のため、まさに「前門の虎後門の狼」といった様相を呈している。この時点でもだいぶ参ってしまうのだが、彼は他にもすべきことがあったことを思い出した。
「うげぇ、そういえば洗濯とかやってなかったっけ…」
彼は一日中遊び惚けていたため、夏休みの宿題のごとく洗濯や掃除などの家事が滞ってしまっていたのである。普通の家庭環境であれば高校生である三冬がすべてしなければいけないということはないのだが、彼はとある事情から高校入学を機に一人暮らしを始めており、それゆえのタスクの多さには我ながら閉口してしまった。
「家事を終わらせてから遊びに行けばよかったな…くっそぉ。アニメとか溜まってんのに」
自らの独り言によってげんなりし、肩を落とす三冬。暑さ・エアコンの故障・家事のトリプルコンボをすんなり受け入れられるほど、今日の彼のメンタルは強いわけではなかった。願わくば、エアコンの効いた涼しい部屋で豪快にひと眠りしたいところである。
そんな彼がうなだれていた顔を上げて家の方向に歩みを進めていたその時、彼のごくごく一般的な視力が、ある光景を捉えて離さなかった。
いま彼が歩いている見晴らしのいい歩道の外れ。周囲には住宅街と田園が入り混じる、都市と自然が融合したこの街の素晴らしい景色が広がっている。
それは、彼の帰り道において本来ならば右折するところを左に顔を向けたところにあった、何の変哲もない山と、そこに続く山道。
「ん…?」
彼はなぜだかその光景に懐かしさを感じた。それまで何の興味も持たず、またなんの思い入れもない景色のはずだったのだが、何故だか彼は惹きつけられるようにしてその山に歩みを進めていた。
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山道は薄暗く、高く生い茂った木々が夕日もわずかな木漏れ日程度にしか差し込ませないので、視界はお世辞にも良いとは言えない。もう夕暮れ時だというのにセミの振り絞るような声が耳をつんざく。登山道としても使われているのか、道の端にはロープでつながれた柵や傾斜を昇降しやすくするためだと思われる木材と土でできた階段などが整備されているため、山道自体は進みやすいようにできていた。
この山ってどんな名前だったっけなぁ、とどうでもいい思考に耽りながら山道を練り歩く彼の様は、さながら休みを見つけて登山に訪れた観光客であった。もっとも、今の彼は登山を敢行するには手持ち無沙汰で、スマートフォンと財布以外持っていないという軽装の極みではあったのだが。
「はあ、俺なにやってんだろ…」
自問自答する彼のために答え合わせをすると、要するに彼は現実逃避がしたかったのだ。確かに一日中遊んでいたのは俺だけど、それにしてもやること多くない?と誰に言うでもなくヘドロのように溜まってゆく鬱憤を晴らしたかったのだろう。無意識下でも、である。
じっとりとした気持ちの悪い汗が頬を伝い、地面に落ちる。腕で汗を拭っても拭っても壊れた蛇口のようにポタポタとあふれるそれに嫌気がさしながらも、あてどもなく歩いている彼の目にそれは映り込んできた。いや、それは最初からそこにあったので「映り込んできた」という表現は正しくない。彼の視界がまたもやそれを「捉えた」のだ。
「ん…あそこも道になってんのか」
なんにせよ、そこにあったのはただの獣道だったので特にインパクトがあるとか、とても美しい景色だ、などという立派な感想を抱くことはなかった。端的に換言すれば、どうでもよかったのである。
…そう、それはどうということはなかったはずの光景である。彼がその光景に興味を抱きさえしなければ、の話であるが。
ほんの一時の、ただの気まぐれであった。普段は面倒くさがってアクティブな行動を避けがちな性格の三冬だったが、「せっかくここまで来たんだから」という些細な理由を胸に山道を逸れた獣道に足を踏み入れる。否、踏み入れようとした。鬱蒼と生え伸びた木々や植物が、彼の進もうとする足を委縮させてしまっていたのである。
加えて、時刻はすでに黄昏時を回ろうとしている。蜜柑色に染まっていた空はもう、濃密な闇を孕んだ黒色に染まりつつあった。もし空が満足に見えていれば、一番星が煌めいているのを確認できたかもしれない。
「…いい気分転換にはなったし、もう帰った方がよさそうだな。道に迷っても困るし」
そう結論付けた三冬は、快刀乱麻を断つとまではいかないもののそれなりに満足し、来た道を戻ろうと踵を返す。さっき通ってきた山道は来た時よりも薄暗く、注意を払っていないと高校生の三冬でも進む方向を誤ってしまいそうだった。高校生にもなって山をうろついた挙句、迷子になって警察沙汰なんて失態を演じるのは御免だ。
そんな想像をして苦笑を浮かべた三冬は「帰りにコンビニによってアイスでも買おう」などと吞気なことを考えていたのだが、ふとある音が耳に入ってきたことによってその思考は中断せざるを得なかった。
「…?」
葉擦れの音、ツクツクボウシが鳴く音、心地よいそよ風がささやく音。そんな自然が奏でる音楽の合間に紛れて、違和感のある「音」が聞こえてきたのである。
「鳥の声…?いや…これは…」
結論から言えば、違和感の正体は確かに声であった。ただし、鳥の声でも、蝉の声でもなく、《《人間の》》、だが。
「人の声?まさか…」
自問自答を繰り広げる三冬だったが、その音を聴く限り、それは人の声にしか聞こえなかった。それも、少女が嗚咽を漏らしながら泣きじゃくっているかのような、悲嘆にくれた声。三冬は、少なくとも日常とは言えない体験に戦慄しながらもある二つの推測を立てた。
「子どもか…?それとも、お化けとか妖怪とかいうんじゃないだろうな…」
前者の選択は現実的ではある。しかし、だとすれば一刻も早くその被害者であろう子どもを保護する必要がある。
幽霊、妖怪という非現実的な存在という可能性も頭の隅にないわけではなかったが(山という地理的存在には怪異の伝承が付き物だということはそういった不確定な存在を信じない三冬でも知識としては知っていた)、もし子どもが捨てられているとしたら、と考えると声の発信源を探さずにはいられなかった。
「探さないとまずいか…?それとも、先に警察に電話か?」
どうやら、声の主と思しき存在は獣道の奥にいるようであった。しかし、彼の判断を遅らせていた要因としては、それが聞き間違いとも動物の鳴き声とも何とも言えない「音」だったことが挙げられる。だが、結局のところ彼は自らの足を進ませていた。
三冬は生い茂る草木を搔き分けて声の主の方へ進んでいっていたが、結果的に、否応なく興味を持たざるを得ない状況に彼は陥ってしまっていたといえる。
「とりあえず、探してみるか」
一旦自分で探索することを選択した三冬は、腰ほどの高さにまで伸び生えた雑草を手で避けながら道を作っていく。幸か不幸かその声自体が道案内をしてくれているようで、日暮れ時ゆえに多少暗くはあったがなんとか迷うことなく道を選ぶことができた。
「はあ、はあ…。くっそ、どこだ?」
普段運動を怠っているツケがたったいま回ってきたようだ。単純に疲れたのである。と、そんな彼の進行を食い止めるかのように、顔に正体不明の名前もわからぬ虫がべちっとぶつかりどこかへ飛んでいく。
「うぅっ、なんかとぶつかったし…っと、泣き声が近くなって来た…。この辺か?」
徐々に声の発信源が近くなっていることを確信する。というか、あれは…。
「あれは、神社か…?」
道幅が比較的広くなってきたかと思えば、三冬は数十メートル先に鳥居のような建造物を見つけた。こんな山道を逸れた山岳の中腹に神社があるなど三冬は思いもしなかったが、彼はいったい誰がこんなところに来るのだろう…などと疑問に思うことはなく、あたりをつけた三冬は進むペースを上げ、声の発信源を見つけ出そうと一心不乱に呼びかける。
「おーい、誰かいるのかー?いたら返事してくれー!」
こちらからも声を出して返答を待つが、返事は帰ってこない。しかし、泣き声に近づいているのは確かである。
「おーい、誰かいないのかー?おーい」
泣き声が響き渡っているが、返事はない。
「…俺、本当に妖怪にでも化かされているんじゃないか…?」
一抹の不安を覚えつつ、再び足を踏み出す。怪談や伝承ならば、ここらへんで泣き声に誘われた旅人が刃物を持った怪しい老婆やらやたら背の高い女性の怪異やら妙に力の強い子どもやらに襲われたとしてもなんら不思議ではないだろう。
自分が旅人として怪談の登場人物にならないことを祈りつつ、三冬はついに神社の入り口にたどり着いた。たどり着いてしまった。
入口には申し訳程度に設置された赤い鳥居が、まるで異界に人々を引き込む門のようにそびえたっている。鳥居を支える二本の柱には蔦が何重にも絡みつき、より一層のおどろおどろしさを演出しており、その空気感でさえそこだけがまるでエアコンが効いた部屋のごとく冷え切っているという印象を与えた。さながらゲームのボス戦に突入する主人公の気持ちである。
「こ、ここか…」
その神社では、ある境界線が引かれたように神社の境内の敷地内の雑草だけが全くと言っていいほど伸びていなかった。誰かが管理しているのか…?と三冬は疑問に思ったが、彼はすぐに向こうの境内の方から声が聞こえてくることに意識を向き直す。
正直なところ、三冬の心中は今となっては子どもを助けたいという気持ちよりも怪異への恐怖の割合がやや競り勝っていた。昔話や伝承の展開通りの行動を自分がしていることに若干の恐怖を覚えつつ、恐る恐る境内に近づいていく。正確には、境内の中に備えられている賽銭箱の背面側に、声の主はいるようだった。
もし誰もいなくて後ろから化け物にでも襲われたらどうしよう、なんてシャレにならないシチュエーションを考えつつ賽銭箱に歩みを進める。一歩、また一歩と。いつの間にか泣き声はすすり泣きに変わっていたが、そんなことは今の緊張状態の三冬にとっては些細な変化に過ぎなかった。
賽銭箱は寂れた神社にしてはしっかりとしたサイズのもので、高さは100センチはあろうかという高さであった。横幅も高さに対してやはり長めに設計されており、正面から見れば美しい長方形を形づくっている。
その背後に声の発信源がいるのか、はたまたいないのか。こちらから見て賽銭箱の右斜め前に位置どる形で近づいた三冬は息を呑み、数度の深呼吸の後に意を決したように賽銭箱の裏側を覗き込んだ。
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そこにいたのは、未だに終わりの見えないすすり泣きを湛えながら、膝を抱えてうつむいた一人の少女であった。いかんせん周囲が薄暗いのでその容貌は判然としないが、長い髪で、着物を身に着けていた。もっとも、相当走り回ったのか、手入れがされていれば美しかったであろう長い髪はボサボサで、着物は着崩れてはいないものの泥やら砂やらで汚れているようだということは判別できた。
「「え…?」」
と困惑気味の三冬に気づいたのか、その少女は顔を上げ、泣きはらした真っ赤で大きな瞳をぱちくりと瞬かせ、小首をかしげながら嗚咽交じりに口を開いた。多分、クエスチョンマークも浮かんでいた。
「…どうしたの?あなた、だれ?」
「いやこっちのセリフなんだけど!?子どもがこんなところで何してんの!?」
いきなりとんちんかんなことを聞かれた三冬は即座に反論を返すも、少女はなにやら三冬の言葉が琴線に触れたのか、語気を強めて、
「子どもじゃないもん!確かに身長は同年代の女の子に比べてちょぉ~~~っと低いかもしれないけど!もうすぐ15歳だし、全然子どもじゃないもん!」
と、さっきまで泣いていたであろう様子をおくびにも出さないように反論を反論で返してきた。
「ほとんどタメかよ…ってそうじゃなくて!君はこんなところでなにしてんだ?もう日も暮れてきたし、早く帰った方がいいぞ。親御さんも心配してるだろうし」
意外な事実に多少驚きながらも、一般的な思考に切り替えて、三冬は少女を諭すように言う。
「むり。かえれない。」
三冬の言葉を一蹴するかのように、そっぽを向いて少女はぴしゃりと言い放つ。
「あのなぁ…君が帰りたくなくても、親御さんは帰ってきてほしいって思っているはずだぞ?家族が健在で帰る場所があるなら帰るべきだ」
取り付く島もないと言わんばかりの少女の言動に負けじと三冬が食い下がると、
「だから、かえれないの!かえりたくてもかえれないの!」
「どういうことだよ…道に迷ったってことか?」
要領を得ない彼女の回答に、三冬は混乱するばかりである。迷ったっていうだけなら三冬が案内すればよいが、本当に捨てられたとか、何かの事件に巻き込まれたとなれば話は別だ。
「家はどこだ?送って行ってやるから」
すっかり困ってしまった三冬が助け舟を出すように少女に提案するが。
「ここがどこかわかんない」
まったくもって押し問答である。のらりくらりとよけられている感じだ。
「大丈夫だって、俺がさっきこっちから来たの知ってるだろ?帰り道くらい覚えてるから」
「違うの…そうじゃなくて」
ん?と三冬は歯切れの悪い少女の言葉に声を詰まらせる。
こんな山奥に子どもが一人でいるというのはかくも不自然なことではない。いや、確かに現実的な光景ではないのだが、家族でピクニックに来てはぐれたとか、親と喧嘩して家出したとか、そんな些細な原因で子どもは迷子になりうるだろう。
しかし、この少女はその類型に対して全くの例外的ケースを示してきた。
「こんなところ、わたしのいた世界じゃない」
「…世界?あんたいったい何を言っているんだ?漫画かラノベの読みすぎだろ」
「らのべ…が何かはわかんないけど、そんなのじゃない!気が付いたらここにいたの」
「気が付いたらここにいたって、そんなのどうすりゃいいんだよ…ちなみに、あんたはどこから来たんだ?」
三冬は発言の真意を理解できないまま、一見間抜けにも見える当然の質問を少女に投げかけると、少女からは非常に端的な単語が帰ってきた。
「里」
「里…?地方のどっかか?」
聞いたことのない表現だな、と三冬は思う。普通自分の出身を答えるなら「~町」とか「~市」のように市町村区分単位で答えるはずだ。疑問点は絶えないが、議論を先に進めるために一旦思考を元の場所に戻し、再び質問を投げ返す。
「どうやってここに来たんだ?見たところ着の身着のまま、って感じだけど」
薄暗くてよく見えないが、少女はどうやら着物を着ているようである。それも泥やら土やら何やらで汚れてしまっているらしかったが。夏祭りか何かの帰りだったのか?この辺で夏祭りなんてあったっけか…。
「わかんない。気が付いたらここにいたって言ってるでしょ」
寂しげに答える少女に三冬はますます途方に暮れたような気分になりながら、頭に手を当てて「うーん」と考え込んでしまう。記憶喪失?誘拐?それとも、夢遊病か何かか?可能性を探してみてもいまいちピンとくる正解にたどり着けず、悶々としていると、彼女が最初のときのように足を抱えてうずくまってしまった。
そして彼は、再び俯いてしまった彼女の、ガラスのような、アクアマリンの宝石のような瞳にまた水たまりができていることに気が付いた。
「うぅ…」
「どうした?どこか怪我でもしてるのか?」
「ひぐっ…うぅ…帰りたい…帰りたいよぉ…」
何か悲しいことを思い出してしまったのか、しくしくと泣き出してしまった少女を見て三冬はとりあえずこの子の身の上についてあれこれ思案することをやめた。もう辺りは暗い。いったん山から下りて、どこか安心して会話できる環境を用意することが先決だろうと判断したのだ。三冬はこの少女に手を伸ばしながら言う。
「とりあえず、場所を変えよう。立てるか?」
「うん…」
さて、ここからこの子をどこに連れて行こうか。順当に考えるなら、警察に連絡して保護してもらうのが最善策なんだろうが…。
「警察…行く?」
「警察って、悪い人とか捕まえる人たちのことでしょ?…はっ、もしかしてわたし、悪いことしたの!?タイホされちゃうの、わたし!?」
今の今まで泣いていたと思ったら、ガラリと表情を変えて「はわわわ」と言わんばかりに慌て始めたんだがこの子。泣いている表情しか見ていなかったので、感情の起伏の大きさに三冬は驚きを隠せなかった。まさしく喜怒哀楽の乱気流である。
「ちがうって!強くて優しいお兄さんお姉さん方が保護してくれるところだよ。もし本当に家族も帰る場所も無いならとりあえず引き取り手が見つかるまで世話してくれる人と場所が必要だし…」
三冬も少女の慌てる様に釣られるように慌てて説明するが、この提案をすることは少女にとって悪手であったらしい。
「やだやだやだ!知らない大人がいっぱいいるのはなんか怖い!わたし知ってるもん!大人ってしょせんお金でうごくんでしょ!?お母さんが言ってたもん!」
「ちょいちょい!日本の治安を守ってくれてる人たちにそんなこと言うんじゃありません!…ったく、どんなこと吹き込んだんだこの子のお母さんは…」
三冬は幾度目かわからない嘆息を盛大にかましたところ、今度は少女が新しい提案を申し出る。もっとも、建設的で現実的な意見を繰り広げていた三冬とは一線を画す大胆不敵かつ突飛な意見ではあったが。
「じゃあさ…」
「ん?なんだ?」
「じゃあさ、あなたのうちに連れていってよ」
…はっ?と、少女が投げ捨てるように言ったその言葉に間抜けな声を上げた三冬は、またも混乱状態に陥る。
「いやいや、ちょっと待て!どうして急にそんな話に!?」
「だって、どこに行けばいいのかわかんないんだもん!」
「それはそうかもしれないけど!どうして警察を差し置いてよりにもよって俺ん家なんだよ!?」
至極当然の問いである。資金面や生活面、何より安全という観点において、見た目ですでに一般人を極めたことが分かる自分なんかよりも頼れる存在などそこら中にありそうである、と三冬は考えた末の問いである。だが、少女はまたしても曖昧模糊な、しかし今度はしっかりとこちらの目を見てその理由を言い放つ。
「直観」
「は!?直観って…フィーリングかよ!」
「大丈夫!わたし、いい子でいられるよ!自信あるよ!」
「いやいや無理だって!俺ん家一般家庭だし、それに…」
「でも、お願い!あなたしかいないの!」
「あなたしかいないって、そんなの助けてくれる人を探してみなきゃわからないだろ!?そもそも、俺たち初対面だよな!?初対面の人間をそこまで信じれるってのかよ!」
「信じてるもん!あなたは怖いことしないって!わたしを助けてくれるって!」
「なんでだよ…いや確かに悪いことはしないけどさ…わけわかんねえよ」
未だに発言の真意を察することができない三冬に助け舟を出すかのように、少女は語る。
「だって、わたしを見つけてくれたから…」
「…えっ?」
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気が付いたときには、彼女はこの神社の境内にいた。
《《生まれてから冬という季節しか知らなかった少女にとって》》、真夏の山というものはまるで未知の世界だったのだ。いや、それだけではない。あの《《白い世界》》とたった今たどり着いたばかりのこの世界では環境が違いすぎる、と少女は最初に考えた。
「え…なにここ…?」
ゆっくりと立ち上がって周囲を見渡してみる。360度を緑色の木々や植物が囲い、天井を見上げてみるも、高く伸びた広葉樹が空を覆い、それによりおそらく昼下がりであろう時間帯にもかかわらず境内は暗然としていた。枝葉の間隙から見える青い空が皮肉げにこちらをあざ笑っているようである。そしてなにより少女に衝撃を与えたのは、《《暑い》》という感覚であった。今まで人生でこんな感覚を覚えたことはほとんどない。暖炉にあたりすぎたときとか、長風呂しすぎたときとか…。
「どういうこと…?私、違う世界に来ちゃったの?こんな景色、本でしか見たことない…」
少女は恐る恐る歩き出してみるも、どこに行けばいいのか皆目見当もつかない。途方に暮れるとはまさしくこのことだろう。
「そんな…私…また、独りぼっち…?そんなの、いやだ…」
とにかく足を動かす。目の前に鳥居が見えるので、おそらくはそこからここの敷地を出るのだろう。しかし、その先に立ちはだかるように見える道は自分の身長よりも少し低いぐらいの植物たちによってふさがれており、普段は好奇心旺盛な彼女でも思わずたじろいでしまった。と、その植物たちの隙間をガサガサと鳴らしながら何かがこちらへ近づいてくる。
「え…なに…ひぃっ。まさか、ヘビ…?」
植物たちの海から顔を出したのは、1匹のヘビであった。今遭遇しているのは毒を持たないヘビとして知られるアオダイショウであったが、「ヘビ」という生き物を「毒を持ち、時にはワニをも殺し、また神とも同等に戦う」という極端な知識としてしか知らなかった彼女にとってそれは悪魔の襲来に等しいものであった。
「やだ、こっちこないで…あっちいって!」
もちろんヘビに人語は通じない。が、どうやらその思いだけは伝わったらしく、ヘビは小首をかしげながらどこかへ去っていった。
「ここ、どこなの?…わけわかんないよ…」
しかし、この恐怖体験によって、少女は精神的に参ってしまった。世界が私に牙を剥いている。ヘビだけではないであろう危険がどこに潜んでいるかわからず、また自分が今どこにいるのかもわかっていない状況下で勇猛果敢に我が道を開拓し、進んでいけるほど彼女は肉体的にも精神的にも強くはなかった。
「もう、やだ…誰か…助けてぇ…」
そうして少女は、賽銭箱に背を預けるように、またありえない現実から逃避するように、泣きながらうずくまってしまったのである。彼女にとって未知の世界で、ただ一人孤独に。
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「そんなときに、あなたが来てくれた」
童話を読み聞かせするように語っている彼女の身の上話を黙って聞いていた三冬は、ある一つの結論を導き出した。
(要するに、ヘビにビビッて動けなくなったってことか…?)
気が付いたらここにいた云々の部分はまだ分からないところではあるが、三冬は、この少女はどうやらこの(少なくとも日本という範囲の)世界でその身の寄る辺がないらしいということは理解した。そして、また彼自身が路頭に迷った少女を放っておけるほど冷淡な人間ではないということも。
「もちろん、怖い人かもしれないって思った。けど…あなたは」
「俺が、どうかしたのか?」
「なんだか、すっごく変な顔をしてたから…」
「唐突にディスられた!?さては失礼だなお前!?」
「ああえっと、悪口とかそういうのじゃなくて!えっと…なんていうか…」
うまく説明できないのか、口をもごもごさせた少女は、考えがまとまったのか改めて三冬の方を向きなおして思いの丈を語る。
「すっごく必死になって探してくれていたんだな、って思ったの。そしたら、気が抜けちゃった」
もちろん三冬は、こんな少女が独りでいると思って歩き回っていたわけではない。しかし、「もし泣いているのが子どもだったら、助けが必要な人だったら」と考えて必死で探してはいたので、思わぬところで自分がお人好しだと暴露され、なおかつ信頼されていると知ってしまった三冬はいたたまれないような気持ちになる。
「そんだけで知らん人を信用しようとしたのかよ…まったく、無鉄砲というか、なんというか」
とふてくされたように言い返すが、
「うん。あっ、何回も呼んでくれてたのに返事しなくてごめんね。どうしても悲しいのが止められなかったというか…」
と答えた少女は、じっとこちらを見つめてくる。
「…」
「…」
…はぁ。しょうがねぇな。三冬はしばらくの沈黙のうち観念したように折れる。
「…うちは広くもないし、散らかってるぞ?あと、エアコンも壊れてるし」
「いいの!?わーい、やったー!ありがとう!」
「リアクションが早いな!もうちょっと溜めとか感慨とかないのかよ!」
ツッコミは間髪入れずに入れる三冬だったが、飛び跳ねて喜ぶわがまま少女を見ていると、彼もいい加減毒気を抜かれたような気分になる。こいつ、演技でもしてたんじゃないか…?
と、ここで三冬はいまさらになって一つ聞いていないことがあったことに気が付いた。
「そういえば、あんたの名前はなんていうんだ?ちなみに俺は三冬。海照三冬っていうんだけど」
「あれ?自己紹介ってまだしてなかったっけ?」
あんたの感情がジェットコースターだったから聞きそびれたんだよ、という文句を呑み込む三冬。少女が「コホン」と一息つくのを見届けると、「しかと聞くのだよ」と言わんばかりの声音で。
「こはく。白姫氷白って言います。白桜の白に姫路城の姫、氷雨の氷にもう一回白が来て、白姫氷白と覚えてください!」
と、彼女は名乗った。実に奇妙な表現方法だと三冬は思ったが、それはかえって彼女の名前を覚えるといういちシチュエーションにおいて絶大な効力を発揮するだろう。…ん?この口上、どっかで見たことある気がするけど、まあいいや。
それよりも当の本人はというと、自分の名前を知ってもらえて嬉しいのだろうか、それともようやく頼ることができる相手と出会えて嬉しいのか満面の笑みを浮かべている。子どもが親に褒められているかの如く調子に乗る氷白はまるで子どもみたいだな、とひとしきり思案したところで、三冬は交渉がひと段落したことに息を一つ入れつつ挨拶を交わそうとする。
「そっか。よろしくな、氷白」
すると、なぜかその少女はパァーっと表情を明るくさせ、その水晶のような瞳をキラキラと輝かせながらいかにも嬉しそうに、元気いっぱいに答えたのだった。
「うん!よろしくね、みふゆ!」
問答を終えた二人が帰ろうと脚を動かす間際の出来事。
「ところでみふゆ。えあこん、って何?食べ物?もしかして、おいしいの!?」
「そこからなのかよ…。エアコン知らないって、本当にいったいどんな育てられ方してきたんだ…あと、食いもんじゃない」
「あー!みふゆ今、わたしのことばかにしたー!」
なぜだかわからないが、どうにもこの氷白という少女は一般的な知識が十分には備わっていないきらいがある。もちろん同じ日本語で会話できている時点で日常生活にあまり支障はないだろうことが予想できるのでその点において特に心配はしていないが、今後のためにも語彙を深めておいて損はないだろう。幸いにして、家には日本語を覚えるためのバイブルとも呼べる財産が山のようにある。
「馬鹿にしてないって…って、うわ!ごめん、ごめんって!謝るから、背中をポカポカ殴るのはやめろー!」
そんな三冬の叫びがすっかり日も暮れた山中に響き渡る。
氷白がうずくまっていた賽銭箱の上、天井や屋根に使われている木材の表面の一部に《《なぜか》》氷柱が伸びていたことを、これから山を下りようとしてわちゃわちゃする彼らには気づく由も無かったが。
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以上が最初に申し上げたモノローグの目的であるが、かくして一人のワケアリ少女と普通の高校生のなんでもない日常が始まりを告げようとしている。
よく考えてみれば略取誘拐とかそんな犯罪なんじゃね?とか、かどわかされたとか言われたらどうしようとか、アニメを観る時間が削られてしまうかもしれない…などと不安に駆られる根が真面目な三冬くんこと俺。俺は結局逮捕されちゃうのか、はたまた世界をまたにかける世紀の逃亡劇が幕を開けるのか…といえば、そんなことはない。
前述の通り、ただの「彼らだけの」日常が始まっただけである。