訪問
実家を出た後は、あらかじめ契約して荷物も運びこんであったアパートに移り住み、そこから新たな生活を開始した。
バイトで生活費を稼ぎながら、合間に小説を書いた。やりたかったことはこれだ。父の猛反対にあい、諦めて就職はしたが、未練はいつまでも残っていた。特に大学生のうちは暇を持て余していたこともあり、何本か短編を書いてみたりもしたが、どこかに投稿するでもなく、人に見せるでもなく、虚しさからかいつの間にか書かなくなり、原稿もそのうちにどこかへ紛失してしまった。就職してからも無性に書きたくなり、ペンをとることがあったが、数枚の原稿用紙を埋めたところで、やはり虚しくなってやめる、ということを繰り返していた。しかしそれも年をとるにつれて頻度は低くなり、三十を過ぎた頃にやっと忘れられるようになった。それから思い出すことはほとんどなかったのだが、家庭での位置を見失うようになってからやたらと昔のことばかり考えだし、それが契機となって再び思い出した。
やり直すのであれば、全く違う人生にしようと思い、しかし実際に過去に戻ったとき、明確にやりたいもの、というものはなかった。まずは周囲になじむことに専念したが、ある程度なじんでくると、虚脱感のようなものに襲われ、しばらくの間無気力で過ごした。このままでは元の人生と変わらないと思い、それでは何をするかと考え、同じやるのであればやりたいことを、と思い、真っ先に思い浮かんだのがこれだった。
小説を書くことをしなくなってからも本はよく読んでいた。だが、書くことからは随分と遠ざかり、ネタをこねくり回すこともしなくなってずいぶん経つというのに、書きたいことはいくらでも出てきた。いつどこでどんな発想が出るかもわからないため、気付けばネタ帳を持参するようになっていた。もっとも、後で読み返してみれば、書きとめられたネタの四割ほどは意味不明で使えないのだが。
バイトは肉体労働だったが、体は数日間筋肉痛と疲労感に悩まされただけで、あとは問題なかった。もともと運動はあまりする方ではなかったのだが、二十代の肉体は、鍛えればある程度の体力はすぐに付くのだろう。五十代の肉体で同じことをすれば、体力がつく前に筋を痛めるか、ぎっくり腰になるか……とにかく体を壊すだろう。
どういうわけか、正社員の人間から気に入られたらしく、人間関係も問題ない。もとの人生を勘定に入れても五十年以上生きているが、ここまで充実した生活は随分久しぶりだった。
そういった生活を始めて二,三ヵ月位たったころに、どうやって場所を調べたのか、兄が訪ねてきた。
五才年上の兄は誰に似たのか、飄々とした性格で、同じ家で育っておきながら、どうやればこのような性格になるのだろうかとよく思う。何を考えているのか分からない、とまではいかないがどうにも掴みにくい。それでも自分の考えはしっかりと持っていた。ついでに言うならば、兄の方は自分と違って父とも割とうまくやっていた。実のところ、自分は昔から兄に劣等感を抱いていた。それは父との関係によるところが大きいと思う。
兄が訪ねてきた理由を、母あたりが自分を説得するよう頼んだからではないかと思ったのだが、どうやら違うようだった。あの時あの場にいなかったから、と言って自分が何をしたいのか、当面の生活はどうするのか、といったようなことを訊いてきた。小説家を目指すことと、生活費はバイトで稼いでいることと、僅かだが、学業の傍ら貯金をしていたということを答えると、頷きながら何が嬉しいのか笑っていた。この顔を見る限り、兄は自分に反対する気はないらしかった。……なぜ笑っているのかはわからなかったが。そう思っているのが表情に出ていたのか、兄は苦笑して言った。
「やり方はともかく、いい傾向だと思うよ私は。いつまでも父さんに怒られるのを怖がって言うこと聞いているだけ、というよりずっと。そこまでやるからには、覚悟もできているようだし。」
……敵わないなと思った。精神年齢は若干若返ったようだが、それでも自分の中身は五十年という時間を過ごしてきたというのに、まだ二十代後半の兄に勝てない。腐っても兄ということなのか、自分があまりにも不甲斐ないだけなのか。もしかしなくとも、かなり心配をかけていたのだろう。
帰り際、兄はまた来ると言い残して帰って行った。