覚醒
気付けば、見慣れない天井を見上げていた。見慣れないが、妙に懐かしい。体を起し、やっと自分が布団で寝ていたことに気付いた。半身を起した状態であたりを見回すと、そこは狭い部屋だった。自分が横になっていた布団以外には、コタツと本棚、タンスぐらいしか家具のない部屋。あの喫茶店でも、自宅でもない。しかし、見覚えがないわけではない。いや、忘れるはずもない。大学時代の、四年間を過ごした安アパートだ。
しばらく布団の上に座ったまま、呆然と部屋を見回しては、自分の腕を眺める、といった動作を繰り返していた。まだしわ深いというほどではなかったものの、年とともに、確実に老いが浮いて見え始めていた皮膚は、若者特有の滑らかさとハリをもっている。立ち上がり、洗面所に急いで向かう。鏡で自分の顔を確認すると、そこに映ったのは、どこか諦念のにじむ、疲れた中高年の男の顔ではなく、二十代前後の男、しかしまぎれもなく自分の顔だった。
人は非常識に直面したとき、まず驚くよりも呆然とし、次いで混乱をきたすものらしい。どこか冷静な頭の片隅でそう思う。まさかこれは本当に過去に戻ったというのだろうか。いや、それとも過去に戻ったという夢を見ているのだろうか。実際にはまだ学生である自分が、五十代になっている夢を見ていた、という可能性もある。まるで邯鄲の夢だ。いやむしろこれは胡蝶之夢の方が近い。
どうにか落ち着こうとするのだが、頭の中は建設的なのか、どうでもいいのか、さっぱりわからない思考に埋め尽くされ、その混乱に引きずられているかのように、体は意味もなく頭を掻き毟りながら、うろうろと部屋の中をさまよった。しかし、狭い部屋のことだ。五分もしないうちに、本棚の角に足の小指を強かに打ちつけ、反射的に足を抱えて一本足になった瞬間、間の悪いことに足を滑らせて盛大にひっくり返り、側頭部を壁にぶつけて痛みと羞恥に悶絶するはめになった。あまりにも間抜けだ。
幸か不幸か、思わぬ痛みは強制的に精神を鎮静化させる効果を持っていたらしい。まだ頭は少々痛むが―――――瘤ができているかもしれない―――――大方痛みが治まったころにはだいぶ落ち着いていた。――――――とりあえず、この痛みは現実だ。とするならば残る可能性は二つ。男が言っていた通り、過去に戻ったか、五十代になった夢を見ていたかのどちらかだ。精神衛生上、個人的には後者を希望したいところだが、常識的な現実を望む思考とは裏腹に、間違いなく過去に戻っているのだという確信を、どこか本能とも呼べるような、体の奥深い部分に感じていた。それ以前に、体は二十代のものでも、精神は五十代だという自覚があまりにもはっきりしすぎていた。
目を覚ます前のことを思い出す。その記憶も、夜に布団に横たわる記憶ではなく、あの喫茶店での記憶だ。
柔らかな笑顔で、やり直せる、等とあり得ないことを言った男は、呆けたまま黙ってしまった自分に対し、「どうしました?」と何事もなかったかのように訊いてきた。それに対し、意味のあるような無いような、よくわからない返事をし、気付けば何かに操られるように「やり直せるものならば」と口にしていた。時計を持っているかと聞かれ、持っていると答えれば、少し貸してくれと頼まれた。腕時計をはずして手渡すと、今度は目をとじるよう言われ、言われたとおりに目を閉じ、次に目を開ければ―――――この部屋だった。