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安息

 メニューには各種様々な銘柄のコーヒーだの、紅茶だのが並んでいた。コーヒーをよく飲みはしていたものの、そのほとんどは仕事の合間に飲むインスタントで、銘柄など気にもしたことのない自分にはよくわからなかった。結局、コーヒー、とだけ注文し、銘柄については任せることにした。


 注文を終えて息をついことで、肩に力が入っていたことに気付いた。ここのところ忘れていた安心感と安定感に身を浸す。思えば家庭での自分の位置が曖昧になってから、家でも職場でも、緊張していたのだろうと思う。


 何も考えずにサイフォンの音を聞いていると、ほかに耳に入ってくる音があった。時計の音だ。カウンターの中の時計を見降ろすと、やはり様々な種類の腕時計が不規則に、しかしびっしりと並んでいる。今気付いたが、示す時間もバラバラだ。それらの秒針の動く音が、奇妙に大きく、しかし静かに聞こえてくる。一つ一つバラバラに時を刻んでいるはずであるのに、音の一つ一つがより合わさって不思議な調和を醸し出していた。


「マスター」


 唐突に聞こえてきた声に、意識を現実に引き戻された。声がした方―――――カウンターの奥―――――を見ると、中高生くらいの女の子が一人。この店の雰囲気にそぐわないくらいに平凡な子だ。かといって浮いているわけでもないが。その子は私に気付くと、「いらっしゃいませ」と少々物馴れない様子で言ってきた。どうやら従業員であるらしい。この調子では雇われたばかりなのだろう。客が来ていると思わなかったのか、私と男を見比べながら困惑している。途方に暮れているようにも見えた。用があって声をかけたのはいいが、続けて話していいものか戸惑っているのだろう。


「どうしました?」


 男―――――マスター―――――が促すと、ほっとしたように話し始めた。


「えっと、新しいグラス、届いたときのままなので……どこに片付けたらいいですか?」


「ああ、そうでしたね……。片付ける前に洗いますから、梱包だけ解いて、置いておいてください」


「わかりましたー」


 会話を聞くともなしに聞く。彼女はすぐに奥へ引っ込んだ。


「……中学……いえ、高校生くらいですか?」


 特に深く考えずに訊く。


「そうですね、ついこの間まで」


 ちょうどコーヒーを淹れ終わったのか、言い終わるとほぼ同時にコーヒーカップが目の前に置かれた。ついこの間まで、ということは、今は大学生なのだろうか。それにしては幼く見えるが、今の子供はそういったものなのだろうか。そう考え、自嘲した。わかるはずがない。今時の子供のことなど。自分の娘のことさえ、碌にわかりはしないのだから。


「あの子が何か?」


 笑顔のまま首を傾げられる。女々しいとは言わないが、いちいち動作が男らしくない、などと頭の片隅で思う。


「……娘がいてね」


 それをきっかけに、気付けば娘のことだの妻のことだの、家庭のことを中心に、これまで腹の底にもやもやとたまっていたものを吐き出すようにして話していた。初対面の人間に話すようなことではないかもしれないが、むしろ、初対面だからこそ気楽に話せるのかも知れない。この店と、男の持つ空気がそうさせるのだろう。とにかく、余計な口を挟まず、相槌を打ち、否定することなく話を受け止めてくれる人間というのが、有難いものだということを随分久しぶりに思い出した。


「やり直したい、と思うことはありますか?」


 二杯目のコーヒーを飲み終えたところで大方話し終え、長いこと背負っていた荷物を、ようやく降ろすことができたような心持でいたところに、そう訊かれた。


「よく思うよ」


 事実だ。特に最近は。だがそれは、あの時ああしていたら、こうしていたら、等というものではない。どこでどう間違って今になったのか、自分にはよくわからないのだ。やり直しても同じことになるだろう。いっそのこと、全く違う人生をやり直してみたいと思う。


「もしやり直すとするなら、いつからやり直したいですか?」


 やり直すとするなら。自分の人生にとって、最も大きな分岐点は。


「学生時代かな」


 言って苦笑する。やり直すことなど、実際にできるはずがない。わかってはいるのだが、それでも夢想してしまう。いや、むしろ―――――。


「できないからこそ、か」


「できますよ?」


 独り言のつもりでつぶやいた言葉にそう返され、思わずおうむ返しに聞き返した。意味がよく理解できない。


「……できる?」


「はい。できますよ? 当店のサービスですから。」


 にこやかに言う男。その笑顔からは何の裏も読み取れない。本気で言っているようにしか見えなかった。しかも不思議なことに、それが事実なのだろうと、納得してしまっている自分がいた。


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