彷徨
……失敗した。
もはや溜息をつく気力もない。あの飲み屋街から公園まで行ってみたことはなく、当然その道筋も知らなかったものの、大体の方角へ向かって行けばたどり着くだろうと思っていたのだが。
あたりを見回すと、人気のなくなったオフィス街。自分はこのあたりに来たことはほとんどない。よく考えてみれば、昔から自宅と会社を往復するだけ、たまに飲みにでも行くくらいで、会社周辺の地理はあまり知らない。―――――三十年間、日中のほとんどを、このあたりで過ごしていたというのに。行く予定であった公園にしても、昔、休み時間にタバコを吸いに上った屋上から見えていたから知っていたのであって、行ったことは一度もない。しかも、タバコはもう、十年以上も前に止めている。となると、屋上に上る理由もない。そう思えば、よく公園のことなど思い出したものだ。
とにかく、大体の方角しか知らない、一度も行ったことがないような場所に、古い記憶と勘だけを頼りに向かうというのは、無謀以外の何物でもないのかもしれない。それなりの距離を歩かなければならないことは覚悟していたが、もうかなりの距離を歩いたと思う。道を誤ったか、思っていたよりもずっと距離があったのか、それさえ区別がつかない。こういった状態は判断に困る。道を間違えているのであれば引き返せばいいのだが、間違えていない可能性もある。引き返すべきかどうか、考えながらとりあえず歩いて行く。
結論が出ないまま、十分程歩いたか、特に意味もなく腕時計を眺めた後、違和感に気付き、再び辺りを見回す。……静かすぎる。確かに、オフィス街は夜には人気がなくなる。だが、今は零時を回った深夜というわけではないのだ。自分以外に外に人がいないなど、おかしいのではないか。
急に寒くなったような気がした。もともと空気は少し冷たいものだったが、そのせいではない。背筋に氷柱でも当てられたかのようだった。ぽつぽつと灯る街灯の明かりが、妙に冷たく見えた。少し見渡せば、明かりのついている窓は簡単に見つけられるが、その明りも、妙に白々として無機質な冷たい印象がする。……あの窓の向こうに、本当に人はいるのだろうか。そんな妄想ともつかない思考に囚われる。世界に一人だけで取り残されたような、不安と焦燥を伴った寂寥感に、無意識に足を速めた。
滑稽だと自分で思う。つい先ほどまで騒がしさを嫌い、一人になろうとしていたにもかかわらず、今は人の気配を探して歩き回っている。そうしてどれだけ歩いたか―――――大した距離でもないように思えたが、果てしなく長いような気もした――――――唐突に、このオフィス街に似つかわしくないものを見つけた。無機質なビルに囲まれて、不思議なぬくもりを感じさせる、使い込まれた西洋骨董のような喫茶店。ドアの上に掛けられた、木にややはげかけた金字で「喫茶clock」と書かれた看板は、電灯で照らされているわけでもないというのに、やけにはっきりと読み取れた。だが自分はそれを疑問に思うでもなく―――――そもそも、文字の意味を認識するよりも先に―――――窓から漏れる、黄みを帯びた暖かそうな明かりに誘われ、無機質な街から逃げるようにドアを押しあけ、店内へと足を踏み入れていた。