至る
書きかけの原稿を読み返しながら資料を漁る。どうにも行き詰り、先に進まないため、最初から一度読んでみることにしたのだが、記述の一部が気になった。その元となった資料を探しているが、どうにも見つからない。いったん諦め、手に持っていた資料を机に置いた。以前であれば、執筆中は、一度集中してしまえばかなりのペースで書き進めることができたのだが、最近はその集中が続かず、こうして手を休める時間が増えた。落ち着かない。スランプだろうか。だが、過去に何度かスランプになったことはあるが、今回はどうも違うような気がしてならない。原因不明だ。
一休みすることにして、窓をあけ、煙草に火をつける。程よく冷えた外気が室内の澱んだ空気を押しのけて入り込んでくる。だいぶ過ごしやすい時期なってきた。これからだんだん寒くなる。
一息ついて、何とはなしに部屋を見渡す。独りで暮らすには広い家。その一室を書斎にし、主に仕事はそこでしている。住み始めた当初は隙間だらけだった本棚も、今ではそのほとんどが埋まっている。小説を書くとなれば、その内容にもよるが様々な資料がいる。己の本来の興味、趣味、嗜好にかかわらず、必要があれば読まなければならない。ここにあるのは、ほとんどがその資料だ。特に自分の場合は膨大な資料が必要だった。余計な事を書いてしまわないために。自分が五十だった時には当たり前のことでも、この時代ではまだなかったり、発見されていなかったり、ということがある。そういったものをうっかりと書いてしまった場合、内容によってはとんでもないことになりそうな気がする。試しにやってみる気はないが。
とにかく、何か気になることがあれば、一応の知識を持つものでも資料をそろえていたため、数はあっという間に膨れ上がった。必要だったのはもちろんのこと、自分はこの本棚を早く埋めてしまいたかった。まだこの書斎の本棚に多く空きがみられたときに感じた、欠失感を伴った焦燥を、自分はこの家の広さのせいだと思った。その焦燥をなくすため、物をとにかく置こうとした。とはいえ、調度品になど興味はなく、同じ置くのであれば実用的なものを、と考え、書斎以外にも壁という壁に本棚を取り付けるという、奇行に出た。そして、とにかくその隙間を埋めようとした結果、今や家中が書斎のような有様になってしまった。おかげで初めて来る人間は一様に驚く。しかし、このような状態になっても、欠失感、焦燥感は収まらなかった。そして、それをごまかすかのように煙草の量が増えた。
元いた時代では禁煙していたが、もともとは、成人する少し前から喫煙していた。一度やめていた喫煙をする気はなかったのだが、肉体そのものはこの時代の、すでに喫煙が習慣づけられてしまったものだったせいか、ニコチンが切れたとき特有のいらつきに我慢ができず、再び喫煙をするようになってしまった。それでも最初のうちは、一日数本といった程度だったのだが、段々と増してくる焦燥感と欠失感に比例するように喫煙量は増え、今では一日に十箱以上を消費する、立派なヘビースモーカーだ。元の時代でも、このころはまだ喫煙していたが、量はこんなに多くはなかった。もしかしたら、元の時代の年齢に行きつく前に、肺癌で死ぬかもしれないな、等と、愚にもつかないことを考えた。
廊下を誰かが歩いてくる足音が聞こえ、我に返った。呼び鈴も押さずに、この家に入ってくるのは自分の担当だけだ。書斎の扉がノックされ、返事を待たずに開かれる。案の定、そこに立っていたのは担当だった。どうやら連れがいたらしく、挨拶をしながら入ってくる担当の後ろから、もう一人が入ってきたのだが、それは兄だった。おそらく、来る途中で会ったのだろう。兄が自分を訪ねるのはまれだが、それでも何度か来れば担当とはち合わせる。二人はすでに知り合いだ。しかも、何故か波長が合うらしく、会ったことがあるのはほんの二,三度程度だというのに旧知の仲のようだった。
自分がちょうど手を休めていたこともあり、兄が土産に持ってきた菓子でお茶をすることになった。見たところ洋菓子だったので自分と担当にはコーヒー、兄には紅茶を淹れる。兄はコーヒーが飲めない。兄いわく、泥臭いのだそうだ。
居間でのんびりとコーヒーをすする。担当と兄の二人がいるとこういった空気になる。二人の性格によるものだろう。土産はやはり洋菓子で、ケーキの詰め合わせのようだった。それぞれ勝手に好きな種類のケーキをとる。正直なところ、甘いものは好きでも嫌いでもないので、種類などどうでもいい。二人に先に選ばせ、自分は残りをとる。担当は甘党だ。そして兄は甘いものも辛い物もいける。ついでに自分はどちらかというならば辛党だろう。
二人が選び終わったのを見て箱を覗き込むと、残っていたのはモンブランだった。ケーキの中で、自分がまともに名称のわかるものはショートケーキにチーズケーキ、モンブランくらいのものだ。そういえば、と最近ほとんど考えることもなかったことを思い出した。
妻も娘もこれが好きだった。娘が幼い頃などは何かあるたびに買っていたような気がする。二人の誕生日は当然のこと、泳げるようになったとか、苦手な漢字テストで百点取れた、だとか。ちょうど携帯電話が普及し始めていた時期で、便利だからと妻が一台購入し、自分に持たせていた。何かあれば妻が嬉しそうにその携帯にかけてきて、それを聞いた自分がモンブランを買って帰っていた。それをしなくなったのはいつからだろう。世間は就職氷河期、リストラも横行し、失業率が悪化。自分の会社も当然影響を受け、一時期は出社しても仕事がなく。その状態から何とか立ち直ると、反動のように忙しくなり、残業が増え、帰りの遅くなる日々が続き。おそらく切掛けはこれだろう。
そこまで考えて、ふとため息をつく。そんなことを考えてもしょうがない。
意識を現実に戻すと、兄と担当が話をしている。そういえば、担当はなぜか少しでも暇があればここにいる。それはいつものことだからどうでもいいが、兄は一体何の用事でここに来たのか。訊いてみると遠い眼をしながら笑った。
「今日は叔母が来ていてね……」
納得した。叔母は父の妹なのだが、寡黙で厳しい父とは異なり、おおらかな性格だ。ついでに、世話焼きでもある。いい人なのだが、問題はその世話焼き、という部分だ。顔を突き合わせるたびに見合いを勧められるらしい。その相手をするのが煩わしいのだろう。ここはていのいい避難場所、というわけだ。
事情を知らない担当が首をひねり、兄が苦笑しながら説明しているのを聞きながらしかし、と思う。元の時代で、兄はとうとう結婚することはなく、何故か養子をとった。この時代ではまだ先のことだが、これを考えると、結婚する気自体がないらしい。それが何故なのかを訊いたことはなかった。訊こうかどうか悩んでいる間に、担当はあっさりとそれを訊いてしまった。知らないというのは強い。
それに対して、兄は忘れられない人がいるのだと、何の気負いもなく言った。続けて、その人以外を女性として見ることができないのだ、とも。殊更軽い口調で言うのは、それが兄にとって、本当は重要である証拠。自分はこの、数十年先を知っている。彼女以上に思える人が出てくることがあれば、結婚することもあるだろう、と言う兄に、そんな人は現れない。その人が誰なのか、自分には予想もつかない。いつからその人を想っていたのだろう。そして、おそらくは一生その人を想うのだろう。いつも飄々とした兄が、そんなにも深い思いを、一人の人間に対して抱いていることなど知らなかった。兄弟だというのに。
初めて知った事実に苦い思いが湧く。自分は一体何を見てきたのだろう。
担当の方は気楽なもので、兄に対して呑気に相槌を打っている。何やらよくわからないが、感動しているらしい。そして何故か、自分に話を振ってくる。先生の方は? と。
その問いに、物思いに沈みそうになるのを現実に引き留め、相手がいない、と答えたところで元の時代では、ちょうどこのくらいの時期に妻と出会ったのだと思い出した。
妻とは見合いではなく、会社の仕事の関係で出会った。出会ったといっても、その時は顔を合わせた、という程度にしか過ぎなかった。その後、偶然再会し、そこから付き合いが始まった。今自分は小説家だ。会社で出会った妻と出会うことはない。そもそも、今自分が住んでいる場所は、妻が勤めていた会社とも、住んでいたところとも、遠く離れている。接点がない。当たり前のことに初めて気付いた。確かに、全く違う人生をやり直そうと思った。妻と出会えないのは、ある意味当たり前だ。だというのに、何故こうも動揺するのだろうか。
そして同時に。まったく別の人生をやり直すというその行為が、妻と娘を捨てたということと同義であることに、初めて思い至った。