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のびして。かがんで。(年の差男女まとめ)

まだ、うまく言えない

作者: 縞々杜々


 張り倒してやりたい。

 春のぽかぽかした日差しの下で、そんな物騒な気持ちになったのはどうしてか。

 彼女が、何の予告もなく自分の前に現れたからか。その笑みが、能天気の極みだったからか。今年の桜が、もう散ってしまったからか。

 とにもかくにも、沙穂(さほ)が悪いのだ。


 ***


 六月。人生二回目の入学式も、もう二ヶ月前のこと。規模が大きくなった校舎にも、変わった通学路にも、3倍になった学級にも慣れて、すっかり緊張感が薄れてきた。

 教室の廊下に面した一角で、男子が5人、まばらにイスを集めて辺りの机に昼食を広げている。教室のあちこちで楽しげな声が交わされているが、特に元気なのは、この中の一人だ。身振り手振り、昨日見たドラマの話をしている。


「そこでバットを振りかぶり!」

「あれはホッケーのスティックだよ。」

「あり? そうだっけ?」


 握りしめているクリームパンまで振り回した所で、隣に座っていた橋場(はしば)凍雨(とうう)が口を開いた。

 ささいな間違いではあるが、二つを取り違えたままでは、後に困ったことになるはずだ。凍雨も同じドラマを見ていたのである。

 そっかそっか、とうなずいて矢中が話を再開させる。それを聞きながら、凍雨は弁当を口に運ぶ。今日の卵焼きはオムレツ風で、ケチャップが挟んである。おいしい。

 と、大きなまん丸おにぎりをほお張っていた外口が、いきなりガタンっと立ち上がった。その目は、教室と廊下を隔てる窓へと向いている。今は風通しのために開いていた。


「沙穂ちゃん!」

「あ! ホントだ、沙穂ちゃん!」


 続いて矢中も立ち上がる。後田が深くため息をついている。窓の傍に座っていた前島が、ペットボトルに口をつけたまま、ひょいと横に退いた。窓に外口と矢中が飛びつく。そこから廊下へ飛び出しそうな勢いだ。

 廊下を通っていた女性は、その姿に驚いて、抱えていた冊子の束をぎゅっと抱き締めた。ビクッと跳ねた体に合わせて、首の後でまとめたおダンゴが揺れる。


「沙穂ちゃん、何してんの? こっちにいるの珍しいねー。」

「沙穂ちゃん、一緒にお昼食おうっ!」


 身を引いた沙穂のカーディガンをわしっと矢中がつかむ。沙穂はきゅっと眉をつり上げた。元来の彼女の顔立ちのせいか、迫力はない。


「二人ともっ、先生でしょ。先生!」


 精一杯怒って見せるが、外口も矢中もにやにやと笑っているだけだ。


「沙穂ちゃん先生、何してるのー?」

「図書室に、借りたもの返しに行ってるんです!」

「沙穂ちゃん先生、お昼ー。」

「職員室で食べます!」


 ”ちゃん”が外せなかったからか、彼女の眉は未だに角度がついたままだ。片手で冊子をしかと抱き込んで、空いた手でカーディガンの裾を取り戻そうとしている。

 苦戦している様子を見て、哀れに思ったのだろう、後田がもう一度ため息をつく。


「矢中、先生を放せ。」

「えー?」


 矢中は不満そうに眉を寄せた。前島がにこにこと笑う。


「このままじゃ、稲宮(いなみや)先生がお昼ご飯食べ損ねちゃうよね。矢中はそんなに先生にイジワルがしたいの?」

「えー……。」


 眉は寄せたまま、唇もとがらせているが、それでも矢中はぱっと手を開いた。


「ありがとー、二人とも。」


 ほっと息をついて、沙穂が逃げていく。外口がひらひらと手を振る。矢中も倣って振る。


「またねー、沙穂ちゃーん。」

「次は一緒にお昼食おー。」


 沙穂は手を振り返しはしたが、矢中の言葉には苦笑をこぼした。それを見送って、外口も矢中も先程まで座っていたイスに戻る。

 騒ぎの間も、凍雨は黙々と食事を続けていた。ただ一人だけ、廊下から目を背けながら。


 ***


 借りたイスを元に戻した後も、5人は外口の席を中心にその一角に残っていた。

 後田と外口が、英語の教科書の疑問について話している。平行線のまま終わった、登場人物の会話が気になるのだそうだ。こうじゃないか、ああじゃないか、と口にする度に、横から前島が適当に茶々を入れている。

 矢中は腹が満たされたせいか、他人の机に突っ伏して寝始めている。矢中と後田は隣のクラスだ。本格的に眠り込まれると面倒くさいので、凍雨は強めにその背をたたいた。


「ねむれーよい子よー。」

「あやしてるんじゃないよ。」


 たたくのに合わせて勝手に歌う外口をにらむ。そうしている間に予鈴が鳴ってしまった。仕方なく、思いきり張り手を喰らわせる。


「ぎゃぴっ。」


 奇声をあげて矢中が飛び起きた。きょろきょろ辺りを見回す矢中を、後田が廊下へと連行していく。

 凍雨は二列向こうの、自分の席へと戻った。そろそろ、次の授業の準備をしておいてもいいだろう。すとんっと席に着き、机横に掛けていたカバンから教科書類を取り出す。上に乗せる時、前島が机の向こうに立ち、こちらの顔をのぞき込んでいることに気がついた。

 腕を組み、じぃっと見つめてくる。凍雨は顔をしかめた。


「何?」


 思わず低い声が出たのに、前島が気にする様子はない。いつもの軽口と変わらぬ調子で、言葉を寄越した。


「橋場ってさ、稲宮先生のこと嫌いなの?」

「あー! それ、俺も気になってた!」


 食いついたのは外口だ。まだ矢中達と話していたのか、廊下へ身を乗り出していたのに、ぐりんと勢いよくこちらを振り返った。


「凍雨ってばさー、沙穂ちゃんが来るとすーぐどっか行っちゃうじゃんっ。この間もさ、いると思って振り返ったらいねぇでやんの。すげぇ恥かいたんだぞー、俺!」


 ぎゃいぎゃい吠える声から、凍雨はぷいと顔を背けた。前島がいやに真面目な顔で、ふむふむとうなずく。


「これはもう、まさに、何かあると言ってるようなもんだよね。」

「えー、マジで嫌いなの? 沙穂ちゃん良い子よー?」

「先生相手に、子って言うのはどうかと。」

「何、お前までそんなお堅いこと言っちゃうの? 良いのよ、女はいくつになっても乙女なのよって、ばっちゃが言ってたし。」

「じゃあ、田村先生も乙女ってことだね。」

「えー。マジかよー。なんか萎えるわー。」


 二人の話が、女性教員の乙女判定に移る。

 脱線していく話に耳を傾けながら、凍雨は詰めていた息をふっと吐いた。知らずに力を込めていた指先が、少ししびれていた。


 ***


 橋場一家がこの町に引っ越したのは、凍雨が小学四年生の冬のことだった。

 単純に父の仕事の都合だ。母は、四月まで凍雨と元の町に残りたいと訴えていたのだが、それはかなわず、中途半端な時期の転校となった。


 凍雨は、新しいクラスになじむことが出来なかった。

 最初の一週間はクラスメイトに囲まれることが多かったが、それがいけなかった。人見知りの嫌いがある凍雨は、大勢にわいわいと話しかけられることに驚いて、彼らを拒絶してしまったのだ。むっつりと黙り込んでしまう凍雨に、やがて誰も話しかけて来なくなった。

 凍雨は休み時間も放課後も、一人で過ごすことになったが、それ自体は大した問題ではなかった。凍雨は一人の時間が嫌いではなかったからだ。

 ただ、家に帰ると母が質問を重ねてくるのが辛かった。


「今日、何があった?」

「休み時間、何してた?」

「誰か、仲良しになれた子はいる?」


 以前は、こんなことを聞いては来なかった。


「べつになにも。」

「本よんでた。」

「とくには。」


 凍雨が答える度に、母の顔が悲しそうに曇った。

 凍雨は家に帰るのが嫌になった。家にいるのが嫌になった。

 ランドセルを自室に置いて、すぐ外へ飛び出すようになった。交わす言葉は減ったのに、”遊びに出る”凍雨を見て、母はうれしそうにしている。凍雨はますます家にいられなくなった。

 外でしたいこともないのに。

 待っている人もいないのに。


 ***


 凍雨はいつも公園にいた。自宅から小学校とは反対方向にある、小さな公園だ。滑り台と花壇くらいしかない。

 そこの滑り台の天辺に腰かけて、日が沈むのを待つ。大体は本を読んで時間を潰すのだが、雨の中に持ち出すわけにはいかず、降った日はぼんやりと雨雲を眺めて過ごす。


 それは、二月の半ばの雨の日のことだった。

 ぬれた鉄板に座るのは嫌なので、上にビニール袋を敷く。黒い傘を両手でしかと支えて、ぬれる木々を眺める。滑り台の天辺にこうして屋根を掛けると、まるでやぐらだ。そう思うと秘密基地のようで、凍雨の気持ちは浮上してくる。

 ぱしゃんと、軽い水音がした。枝から雫でも落ちたのかと、凍雨は気にもとめない。

 けれど、ジャリジャリとぬれた土を踏む音が近づいて来るのに気がつくと、身を強ばらせた。ぎゅうっと、傘の柄を握る手に力を込める。


「ねえ、君。」


 投げられたのは少女の声だった。クラスメイトのような甲高い声ではない。多分、凍雨よりいくらか年上だ。


「ねえってば。」


 大人になりきれていない甘い声が、もう一度飛んでくる。凍雨はふいっと首を反対方向に向けた。

 ジャリジャリ。砂を踏む音が真下まで迫る。


「ねえ、君。ここにずっといるよね? どうしたの? 誰か待ってるの?」


 問いを重ねる声に、悲しそうな母の顔を思い出す。自分を囲むクラスメイトの煩わしさを思い出す。

 凍雨はぐっと眉を寄せた。


「どこか具合が悪いの?」

「うるさい!」


 凍雨は立ち上がると、声の方へ思いきり傘を振った。滑り台を見上げて、傘を傾けていたその人は、まともにしぶきを浴びることになった。くりっとした大きな目がぎゅっと閉じる。


「わぶぶ。」


 その人が、傘を片手に預けて、もう一方の手の甲で顔を拭う。

 その隙に凍雨は走り出した。滑り台を駆け降りて、その勢いのまま公園を飛び出した。


 ぬれてぐずぐずになった靴、張り付いて生ぬるい靴下をぽいぽいと脱ぎ捨てる。母が困った顔でタオルを持ってきた。


「ずいぶん急いで帰ってきたのね。どうしたの? お友達とケンカした?」


 水たまりも気にせずに走り抜けたせいで、ほほにも泥が跳ねていた。それもタオルで拭われる。

 その間重なられる言葉に、凍雨の苛立ちが募っていく。

 凍雨は口をへの字に曲げて、自室に駆け込んだ。


 ***


 翌日、滑り台の上で本をめくっていた凍雨は、通りの足音を聞く度に顔を上げた。

 犬を連れた老人、買い物袋を提げた女性、カバンを元気に振っている学生が通り過ぎると、ほっと肩から力を抜いた。本へ視線を戻す。


 二日目、三日目と平和な日が続くと、凍雨は警戒を解いた。

 夢中で文字を追っていると、ぽつ、と紙面に染みが浮いた。あ、と思うと、またぽつり、と雫が落ちてきて、凍雨の首にもひやっとしたものが触れた。本を閉じて胸の下に抱え込む。きょろっと辺りを見ると、視線の先の地面に、ぽつぽつと黒い染みが出来ていく。

 雨だ。

 傘がない。帰らなくちゃ。

 そう思うと同時に、母の顔が頭を過ぎて動けなくなる。


 とりあえず、滑り台の下に行こう。立ち上がろうと足に力を入れた瞬間、視界が赤く陰った。驚いて横を向くと、女が立っていた。

 公園の前を通る、セーラー服の少女達と同い年くらいだろうか。ぐっと背伸びをして、滑り台の下から凍雨へ赤い傘を差し掛けている。ふわふわとクセのある髪にぽつぽつと雫が落ちている。くりくりした目と、凍雨の目がぱちっと合って、よりまあるくなる。

 女はぱくぱくと口を開閉してから、ようやく声を発した。


「あのっそのっ、これ返さなくて良いから! カゼ引かないようにね!」


 女は凍雨へ傘を押しつけると、きびすを返して走り去った。振り回している手提げからは青々としたネギがのぞいていた。


 帰ってきた凍雨を見て、母はうれしそうに笑った。


「あら。その傘どうしたの?」


 バサバサと羽ばたかせて水気を切った赤い傘へ、凍雨は視線を落とした。


「……何だろう。」


 凍雨のつぶやきに、母は不思議そうに首をかしげた。


 ***


 凍雨は今日も滑り台の天辺に座っていた。

 空には薄く雲が掛かっているが、雨が降る気配はない。しかし、凍雨は本を持って来ていなかった。代わりに赤い傘を抱えている。

 じっと通りを見張っていた。

 本日二人目で女は現れた。

 曇り空のような灰青色のワンピースに、深緑のカーディガンを羽織っている。女はすいっと滑り台へ視線を投げて、ぴしりと固まった。凍雨が自分の方を見ているとは思わなかったのだろう。

 凍雨はいつかのように滑り台を駆け降りると、女の前へ立った。ずいっと傘を差し出す。


「あ、どうも。」


 女がおずおずと手を伸ばしてくる。その手が傘をつかんだのを見て、凍雨はぷいっと背を向けた。公園の中に戻る。


「ねえ。」


 女の声がかかる。凍雨は肩越しに振り返った。


「そこ、好きなの?」


 そことは、滑り台のことだろうか。公園のことだろうか。


「べつに。」


 答えると、女は眉を八の字にした。そのまま口を開かないので、凍雨はまたぷいと前を向いた。滑り台を坂の方から登る。

 天辺に着くと、女が滑り台の根元まで寄って来た。くりっと凍雨を見上げる。


「私も、ここにいて良いかなぁ?」


 凍雨は眉を寄せた。

 嫌だ。嫌だけど、ここは公園だ。


「すきにすれば。」


 女がにこりと笑う。


「ありがとう。」


 女は花壇に腰かけた。カーディガンのポケットからケータイを取り出して、ちゃっちゃっと操作してから、またしまう。その後は先程の凍雨のように、通りを眺めていた。

 女は、凍雨が帰るまでずっとそこにいた。


 ***


「私ね、沙穂っていうの。君は何くん?」


 公園に来て、滑り台に登る。この女がやって来る。花壇に腰かけてしばらくは静かにしているので、そのままにしていると、ぽつりぽつりと話し始める。それが煩わしくなったら帰る。そうした流れを何日か繰り返した。

 昨日から、沙穂は滑り台の階段に腰かけるようになった。


「もう三月なるのに、今日はすごく冷えるね。」


 沙穂が自分でしていたマフラーを外して、凍雨の首に巻こうとした。凍雨はそれを左手で払うと、もそもそと膝を抱えた。沙穂が苦笑して、マフラーを自身の膝に置く。


「今日みたいな日は、もっと暖かい格好して来るんだよ。滑り台のこの板だってさ、結構冷たいんだし。」


 階段に座り直そうとした沙穂が、「あ。」と小さく声をあげる。凍雨に向き直った。


「今日もさ、お名前教えてくれないの?」


 凍雨はぷいっとそっぽを向く。


「しらない人にはおしえない。」

「ううーん。いったい後何回会ったら、知人にランクアップ出来るんだ……。」


 沙穂はため息をついて、階段に足をそろえて今度こそ前を向いた。凍雨は顔を少しだけ浮かせて、その背をうかがった。ふわふわした髪が風を含んで揺れている。沙穂は上向いて、空の雲を追っていた。


「なまえなんて、どうしてしりたいの。」


 腕の中に吸い込まれるようなぼそぼそした声でも、彼女はちゃんと拾ってくれた。こちらに背を向けたまま、楽しそうな声だけ寄越す。


「名前を知らないと、公園の外で君を見かけても、呼び止められないでしょ。」

「ここ以外でそばによってきたら、ひめいあげてやる。」

「やめてー。ちびっこにそんなことされたら、社会的に死んじゃうー。」


 情けない声をあげてから、沙穂は、ああ、でも、とつけ足した。


「ここなら、寄ってっても許しくれるんだ?」


 からかうような声音に、凍雨はぐっと口をへの字に曲げた。ぐりぐりと自身の膝に顔を埋める。

 沙穂はなお笑った。歌うような軽やかな声で。


「なら、いいかな。名前、知らなくても。ここで、一緒にいさせてくれるなら。それでいいや。」


 沙穂はそれで話を切った。しばらくして、今日の雲の形がどう見えるか話し始めた。

 その日から、凍雨の名前を尋ねてこなくなった。


 ***


 沙穂は、ぽつりぽつりと、どうでも良いことばかり話す。


「そこの木にね、冬に赤い花が咲くんだけど、見たことある?」

「私が小さい頃って、外でも男の子達がカードゲームしてたんだけど、今の子はどうなのかな。」

「急にあったかくなったね。もう菜の花が咲いたんだって。」


 凍雨が返事をしなくてもお構いなしに、思いついたことから話す。凍雨が本からチラッと目を上げると、にこっと笑う。


「桜はいつ咲くのかな。一緒に見られると良いねぇ。」


 前は一日一冊読み終わったのに。

 読むスピードが落ちたのは、このおしゃべりのせいで気が散るからだ。

 凍雨は本に向き直ると、せっせっと目で文字を追った。


 ***


 昨日は終業式だった。

 春休み初日、凍雨は昼食を食べてから出掛けた。沙穂はもう公園で待っていた。

 けれど、その日の沙穂はじっと地面を見つめていて、凍雨となかなか目が合わなかった。「あのね、」と口を開くのに、そこで言葉を切って、しばらくして近所の犬の話など、どうでも良い話を続けた。帰る凍雨を見送る時、困ったように眉を八の字にしていた。

 次の日も、沙穂は先に来て待っていた。

 いつもと変わらず、取り留めがないことをぽつりぽつり話す。しばらく黙ってからふいに、


「私ね、遠くの町の大学に通ってるんだ。」


 分かるかな、と沙穂が告げた駅名は、県外のものだった。思わず、凍雨は「ウソでしょう?」とこぼした。


「キミは、もうずっとまえから ここにいるじゃない。」


 そう、初めて会ったのはもう一月近く前だ。

 凍雨の反応が面白かったのか、沙穂がクスクスと笑う。


「大学はね、春休みがとっても長いんだよ。だから、その間、家に帰って来てたの。」


 沙穂が体をずらして、凍雨に向き直る。くりっとした目が凍雨を見つめる。


「それでね、明日、学校の方へ戻るんだ。ここに来るのも、今日が最後。」


 急に、音が遠くなった気がした。


「今年から色々忙しくなるから、夏もあまり帰れそうにないんだよね。だから、しばらく会えないね。」


 風に揺れる木々のざわめきも、近所で鳴いている小型犬の声も聞こえなくなる。


「本当は、ギリギリまでこっちにいようと思ってたんだけど。お父さん達があっちの様子を見たいって……どうしたの?」


 途中で言葉を切って、沙穂が首をかしげる。足下に手をついて、凍雨の顔をのぞき込もうとする。

 まだチャイムも鳴っていないのに。まだまだ日は高いのに。凍雨の視界は暗くなっていく。胸の内がグラグラと煮立っている。


 ここにいたいって、言ったのに。

 一緒にいたいって、言ったのに。

 一緒に桜を見たいって、言ったのに。

 それなのに、遠くに行ってしまうのか。

 それなのに、僕を一人にするのか。


 凍雨は衝動のまま立ち上がった。その顔を追って沙穂の目が上向く。


「うそつき!」


 口を突いて出て来た四文字に、湧いて来る文句を全て込めてたたきつける。

 滑り台を駆け降りる。砂地を蹴って、地面を蹴って、公園を飛び出す。その背を、慌てた声が追いかけてきた。


「待って! ねえ!」


 アスファルトを蹴って、凍雨は走り続ける。遠く遠く。速く速く。あの優しい声を振り切って。


 凍雨が重い足取りで公園にやって来たのは、二日後のことだった。

 沙穂の姿はない。滑り台の終点に腰かけて、膝を抱いた。

 あの日言っていた通り、沙穂は来なかった。


 ***


 近所の土手で桜が咲いた。クラス替え直後は以前と変わらない生活だった。暖かくなる気候に逆らうように、凍雨の胸は何故だか冷えていった。席替えの後、同じ本を読んでいたことをきっかけに、後ろの席の前島と親しくなった。いつの間にか同じ班の矢中も話に混じっていた。

 すっかり寒さを忘れられたと思った頃に、また桜が咲いて、一陣の冷たい風が胸を抜けた。


 三回目の桜が咲いた。凍雨は中学生になった。

 二年生に、新任の若い教師がいることは知っていた。入学式のその日に、前島が兄から聞いたのだと話していたからだ。けれど、ほとんど接点のない教師のことなど、お互い興味が薄く、慌ただしさの波に飲まれた。

 だから、四月の半ば、生活委員の「あいさつ運動」とやらで、あののん気な顔を見た時は驚いた。くりくりした大きな目も、へにゃへにゃした笑みもあの頃のまま。下ろしていたクセのある髪が、後ろでまとめられていることだけが違った。

 沙穂は凍雨へ向けてにこりと笑みを浮かべた。「おはようございます。」と、そう声をかけた。

 そして、凍雨の後ろにいた女子生徒の一団にも同じ笑みを向けた。一団は二年生だったのだろう、「沙穂ちゃん、おはよう!」と元気な声がかかる。


「先生でしょう?」


 本人は低く注意したつもりの声は、迫力に乏しく、「沙穂ちゃんせんせーい!」と楽しげな声が返る。

 とぼとぼと下駄箱に着いた時、もう驚きは抜けていた。

 凍雨はじっと自身の爪先を見つめた。

 グラグラと何かが煮立っている。胸の内で、グラグラ、グラグラと。

 何で、こんな所にいるんだ。何で、普通に笑っているんだ。

 ああ、張り倒してやりたい。

 そうしたら、このムカムカも、イライラも、すっきりするのではないだろうか。


 一生徒が一教師を張り倒したりしたら、親を呼ばれて指導を受けることは想像に難くないので、凍雨はその衝動を忘れることにした。

 沙穂を視界に入れると、また胸が煮えてくるので、見ないように気をつけている。声を聞くとムカムカするので、すぐに遠ざかるようにしている。

 それなのに。


 同じクラスの外口と仲良くなった。生活委員に入った外口は、副顧問の沙穂を気に入ったらしく、矢中と一緒に懐いて回るようになった。

 のん気な顔が三つも並ぶと、ムカムカも膨れてくる。はしゃぐ声二つと困っている声一つに、胸の内が噴きこぼれそうになる。

 一度だけ、矢中を後ろからど突いた。気持ちは晴れなかったし、キャンキャン吠えられて煩わしかった。


 ***


 コンビニに寄りたいと、階段を先に降りる矢中が言った。後田がうなずく。凍雨も否はないので口を挟まない。


「かふぇおーれっかふぇおーれっ。」


 機嫌よく歌いながら、矢中がたんたんっと段を跳ばして降りていく。一つ下の階に着いた所で、きゅっと止まった。


「お。沙穂ちゃーん!」


 ぱっと顔を輝かせた矢中とは反対に、凍雨はぐっと顔をしかめた。しかし、矢中はすぐにションボリと肩を落とした。凍雨と後田が矢中に追いついて並ぶ。

 いつものように駆け出していかない矢中に、後田が首をかしげた。


「どうした?」

「お姉様方、いっぱいー。」


 見れば、教室を出たすぐの所で、沙穂が女子生徒に囲まれて眉を八の字にしていた。二年生のグループだ。外口同様に沙穂を気に入っていて、よくああしておもちゃにしている。

 今日の標的はそのクセ毛であるらしく、コームを持った一人と、ヘアピンを持った一人が沙穂に迫っている。

 たかが一年。されど一年。中学生には大きな差である。しかも、異性の群。あそこに突っ込んでいく勇気は矢中にはないらしく、「ちぇー。」と唇をとがらせている。階段を降りていく。後田も矢中の後に続いた。

 苦笑を浮かべる沙穂が、手にしていた教材を盾にして逃げようとしている。しかし、後から少女の一人がその腰に抱きついた。沙穂はそれだけで動けなくなる。情けない悲鳴が、にぎやかな声に遮られる。


「橋場?」


 後田の声に振り返る。階段の中程に立ち止まって、後田がこちらを見上げていた。もう踊り場を越えたのか、矢中の姿は見えない。知らない男子生徒が二人、上の階から降りて来て、後田の横を通り過ぎた。

 階段と廊下の境に自分が立ち止まっていたことに、凍雨はようやく気がついた。

 再び後田が口を開く。


「どうしたんだ? 先生に何か用か?」

「ないよ。」


 意識するより早く言葉が滑り出た。

 そう。ない。ないはずだ。

 まだ不思議そうにしている後田の横を早足に過ぎる。凍雨は努めてその目も廊下も振り返らなかった。

 用なんてない。今更話すことなんて何もない。

 こっちから呼びかけてなんて、やらない。


 ***


 窓から見える空が暗く灰色によどんできたから、嫌な予感はしていた。降り注ぐ銀線が、すでに作った水たまりでバチャバチャと弾けている。

 昇降口の軒下にたたずんだ凍雨は、雨雲に沈んだように暗い校庭を眺めてため息をついた。午前中は晴れていたなんて、自分の記憶の方を疑いたくなる。

 だが、その証拠に傘がない。持って来ていない。置き傘は元々していない。凍雨と同じ目にあった者は少なくないようで、いつもは数本置いてある貸し傘も今はない。

 日直だからと、担任が用を頼まなかったのなら、前島と一緒に帰ることが出来たのに。

 前島は雨の時季でなくともカバンに傘を入れている類の人間だ。ちなみに、矢中と外口は駄目だ。彼らは大雨の日に走り回る類の人間だ。


 一か八か、後田が校舎に残っていないか、確認しようと凍雨は下駄箱に引き返した。上がらずに、すのこを挟んで背伸びしながら後田のスニーカーを探す。出席番号を覚えていないので、右上から順番に見ていった。

 キュッキュッと廊下を踏みしめる音が近づいてくる。


「凍雨くん?」


 棚を追っていた目が瞬く。

 女の声だった。凍雨を下の名前で呼ぶ女性は学校にいない。しかし、凍雨を驚かせたのはその違和感ではなかった。

 その声が、遠く記憶を揺さぶる、甘く柔らかい声だったからだ。

 彼女が廊下からこちらへ入ってきたようで、靴音が変わる。


「どうしたの? 早く帰った方が良いよ。雨、もっと強くなっちゃうって。」


 声が、すぐ横まで近づいてきた。

 凍雨はぐっと唇をかみ締めた。振り返る。立っていたのは沙穂だ。肌寒いのか、カーディガンの前をかき合わせている。段差の分、リーチがあるはずなのに、凍雨と目線が並んでいる。

 沙穂がいる。目の前に。あの頃と変わらないくりっと丸い目で、自分を見ている。

 どうしてここに。どうして今更。

 どうしてと、そればかりが頭を巡る。その中の一つがぽろりとこぼれた。


「どうして、名前……。」

「ん? あー、外口くんがそう呼んでたから。」


 いつのことだろう。沙穂の前で名前を呼ばれた記憶が凍雨にはない。

 沙穂の視線が、凍雨の手元と傘立てにチラッと走る。凍雨の目へ戻って来た。


「傘、ないの?」

「……はい。」


 何となく気まずくて、凍雨は斜めに視線を逃がした。視界の端では、沙穂が口元に手を当てて何やら考え込んでいる。やがて、ふいっと顔を上げた。


「先生の傘で良かったら、貸してあげる。」


――これ返さなくて良いから!


 目の前の彼女は微笑んでいるのに。焦ったようなあの声がよみがえるのは、差し出される彼女の手が変わらないからだ。

 子供が雨にぬれるのは可哀想だと、そう。

 受け取る凍雨の心は、あの頃とこんなにも違うのに。

 凍雨はふいっと顔を背けた。

 グラグラと胸が煮えている。どうして、なんでと沙穂を責めている。

 何一つ口に出来ない凍雨を責めている。



 今日も沙穂は来ない。

 抱いている膝に顔を押しつけて、目からあふれそうになるものを押さえ込む。


「バカ。サホの、バカ。」


 今更名前を口にしたって、もうあの人は振り返ってくれない。届かない。

 ああ、どうして。一度くらい名前を呼ばなかったんだろう。

 どうして。名前を教えてあげなかったんだろう。

 どうして。ちゃんとお別れが言えなかったんだろう。

 きっと、沙穂は忘れてしまう。名前も知らない子供のことなんて。きっとすぐに。



「あの……。」


 先程まで真っ直ぐに飛んできていた沙穂の声が、力なく沈む。


「公園の外で話しかけたから、怒ってるの?」

「え?」


 消え入りそうな声だった。それでも、雨音にもかき消されずに確かに聞こえた。思わず沙穂を見る。

 振り返った凍雨に、沙穂はビクッと肩を揺らした。本人としては、誰の耳にも届けるつもりのない独り言だったのかもしれない。口元を押さえている。


「今の……。」

「ご、ごめんね。何でもないのっ。傘持ってくるね!」


 きゅっと沙穂がきびすを返す。ふるんっとおダンゴが揺れる。

 凍雨は逃げていくカーディガンの裾をつかんだ。びんっと布地が張って、沙穂が立ち止まる。

 おそるおそる、といった様子で振り返る彼女を、凍雨はぎっとにらんだ。


「僕だって、分かってたの?」


 こくり。沙穂がうなずく。


「いつから?」

「……四月に、朝見かけて。」


 あいさつ運動の時か。それより前か。どちらにしろ、あの時点で凍雨のことを分かっていたのか。

 カーディガンをつかんだままの手に力がこもる。


「それで? 僕が公園の外で話しかけるなって言ったから、律儀に黙ってたの?」

「うん。」

「バカじゃないの。」

「だって、悲鳴あげられたりしたら、今の方が大惨事だよ!?」


 沙穂の方が悲鳴のような声をあげた。凍雨は空いている方の手で額を押さえた。何だか頭がぐるぐる回っているようで、頭痛がする。


「怒ってるよ。怒ってたに決まってるでしょ。」


 戻って来てたなら、何で教えてくれなかったの。

 やっと再会したのに、何でいつも通りなの。

 今年も、桜を一緒に見られなかったじゃない。

 どうして、他の子ばかり構うの。

 どうして、傍に来てくれないの。


 四月のあの日からたまっていた文句が、胸の内で暴れている。ぶつける相手は目の前にいる。でも、のどの奥でつかえて、一つも口にすることが出来ない。

 一番言いたい、ごめんねの一言も。

 代わりにこぼれたのは、弱々しい声だった。


「沙穂のバカ。」


 ひゅるひゅると力なく落下する声。それをすくい上げるように、沙穂は凍雨の手を両手で包んだ。へへっと笑う。大人にしては丸みのあるほほに、赤みが差す。


「私のことなんて、覚えてないと思ってた。」


 凍雨はぐっと口をへの字に曲げた。額を押さえていた手を下にずらして、手の甲を目に押しつけた。


 ***


 四限の理科が終わって、ぞろぞろと科学室を出る。


「腹減ったー。」


 腹部をさすりながら、たかたかと外口が前を行く。凍雨は前島と並んでその後に続く。階段を駆け上がって、外口が「あ!」と声をあげた。廊下へ身を乗り出す。

 沙穂が女子生徒二人と何やら話している。一人がノートを開いて見せているので、授業に関することだろう。


「さーほーちゃーん!」


 外口が手を振り駆け出す。沙穂がこちらを振り返る。


 びんっ!

「ぐぇっ。」


 数歩行って、外口がのけ反った。自身の襟を引っ張りながら、凍雨を振り返る。その目には涙が浮かんでいる。


「何すんだよ凍雨!」


 凍雨はきょとりと目を瞬かせた。自分の手が、外口の襟をつかんでいた。

 ……いつの間に。

 横では前島が肩を揺らしている。女子生徒と分かれて、沙穂がこちらに駆けて来る。


「外口くん? 橋場くん? どうしたの?」


 くりっとした大きな目に見つめられて、凍雨は外口を放した。外口がけほっとむせる。沙穂は心配そうに眉を寄せて、その背をさすり始める。

 む。


「沙穂。」

「先生でしょ。先生。」


 沙穂が眉をきゅっとつり上げて、凍雨を見上げる。凍雨は、そのほほをぐにっと引っ張った。大きな目がくるりとさらに丸くなる。


「にゃにするの、ひゃしびゃくん!」

「あっはっはっはっ。急にどうしたの橋場。何したいのお前っ。」


 沙穂が非難の声をあげると、とうとう前島が腹を抱えて笑い出した。ここは階段なので、二人の声がよく響く。

 前島が何を笑っているのかよく分からないし、自分自身でも何がしたかったのかよく分からない。


「もうっ。何なの!」


 手を払った沙穂が、ほほをさすりながら凍雨をにらんでくる。それを見て、なぜか気分が晴れたので、凍雨的にはもう全部解決した。

 怒らせて気分が良いなんて、前島が言った通り、自分は沙穂が嫌いなのかもしれない。そういうことにしておこう。



 END

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