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偽善について

作者: しのぶ

 昔、「やらない善よりやる偽善」という言葉を聞いたことがあります。

 元々は漫画のセリフらしいですが、私がこれを最初に聞いたのは東日本大震災の時で、震災の被災者を助けるために募金しようとしていた人が偽善者だと呼ばれて、「やらない善よりやる偽善だ。それで助かる人がいるならやったほうがいい」と答えていたような記憶があります。


 しかし当時からして、私はこのセリフにかなり違和感を感じていた覚えがあります。というのは、そこまでして誰かを助けようとしているなら、それは偽善でも何でもなく普通の「善」だろうと思ったからです。


 そんなわけで、「偽善」とは何なのかと考えてみると、辞書を引いてみますと偽善とは「うわべだけ」の善とか「見せかけ」の善とか云われています。ですから、言葉通り、偽りの善ということになります。


https://kotobank.jp/word/%E5%81%BD%E5%96%84-50674


“ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

偽善

ぎぜん

hypokrisis; hypocrisy

ギリシア語の原意は「劇である役割を演じる」こと。そこから実際にもたない感情や徳などをもっているふりをする倫理的に悪い態度をいう。特に宗教において問題となり,イエスはこの態度を強く戒めている。”


“大辞林 第三版の解説

ぎぜん【偽善】

本心からではない、うわべだけの善行。”


“精選版 日本国語大辞典の解説

ぎ‐ぜん【偽善】

〘名〙 うわべだけを飾って正しいように、あるいは善人のように見せかけること。また、その行為。”



 で、それは具体的にどういうことかと考えてみると、例えば、困っている人を助けることは一般に良いことだとみなされています。


 そして、人助けすることを善だとすれば、その偽りである偽善とはどういうことかと考えてみると、例えば、困っている人を助けるために募金を集めていると自称する人がいて、しかしその人は、実際にはそのお金を人助けに使わず自分のふところに入れている(着服)とか、また、実際には人助けの意思などはなく、ただその行為によって自分の名前を売り、他者から良い評判を得ようとしているという場合には、それは偽善と呼ぶべきだと思います。

 なぜならこの場合、人助けというその善は見せかけのものであり、それは偽りの善行であるからです。


 ただ、善行と呼ばれるものには「意図の良さ」と「行為の良さ」があって、上に述べた例だと、売名のためにやっていて人助けのつもりもなく、なおかつ募金を着服もしているなら、それは意図も行為も共に悪いことですが、もし意図としては売名のためにやっているけど、募金を着服はせずにそれは実際に人助けのために使っているなら、意図は悪くても行為のほうは悪くない、ということになるでしょう。その場合は、この人が改心して人助けに価値を見出すようになるか、別の人がその事業を引き継ぐなら、意図も行為も共に良いことになり、何ら責められることはなくなる、ということになります。


 とはいえ、私が思うに世の中で偽善と呼ばれるものは行為よりは意図について呼ばれることが多いように思います。というのは、行為として善行と偽って何か悪いことをするのは、単に「詐欺」と呼ばれることが多いように思えるからです。

 しかし、ある人の「意図」というのは、他の人からはその人の真意がどこにあるか判別しにくいものですから、偽善というのは他人に言うよりは、自分について自省するほうが主なものであるようにも思えます。


 そのためか、上に引用した事典でも云われているように、偽善はしばしば宗教において咎められるように思います。例えばキリスト教では、当時の時代状況もあってか、キリストがよく偽善を戒めています。


“見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。……あなたは(慈善の)施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らはすでに報いを受けている。……祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らはすでに報いを受けている……”(マタイによる福音書)


 また仏教でも同じように言います。


“実際は尊敬さるべき人ではないのに尊敬さるべき人であると自称し、梵天を含む世界の盗賊である人、彼こそ実に最下の(いや)しい人である”(スッタニパータ)


“袈裟を頭からまとっていても(修行者の服装)、性質が悪く、つつしみのない者が多い。……戒律を守らず、自らつつしむことがないのに国の信徒の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食らうほうがましだ”(法句経)


 またイスラム教でも同じように言います。


“彼ら(似非信者)は、あのような誓言して、そのかげに隠れては(アッラー)の道から背き去る。まことにもってけしからぬことする人々よ。……汝とて彼らのうわべを見れば、その風采には感心もしよう。喋るのを聞けばついほれぼれとするだろう。だが(本当は)まるで立てかけた材木のようなもの(見掛け倒し)。……彼らこそ不倶戴天の敵”(コーラン63章)



 で、偽善というのは上に述べたようなものだと思いますが、世の中では別に偽善でないことまで偽善と呼ばれて、偽善という概念の濫用が行われている(あるいは、行われてきた)ようにも思います。



 例えば、ある人が困っている人を助けるために働こうと思ったが、体をはってまで助けることはしたくないので、お金だけ出すことにしたとか、あるいはお金を出すにしても、1000円を募金しようと思ったけれど、それはもったいないので、思い直して100円だけ募金した、という場合、これは偽善なのでしょうか?


 そう呼ばれることもあるかもしれませんが、私としては、これが偽善だとは思いません。なぜなら、この人は実際に困っている人のために100円募金したのであって、それは別に偽りではないからです。

 この場合はむしろ、その善意が「小さい」ことが問題になっているのだと思います。つまり、1000円を出すのがもったいないから100円しか出さない、といった善意の小ささ、ということです。


 しかし、たとえ比較的小さいものであっても、善意は善意であって、それ自体は決して責められるようなものではないと私は思います。善意が「小さい」ということは場合によっては責められることかもしれませんが、それでもその善意自体は確かに良いことなのであって、それは偽りではないからです。


 むしろ、このように善意の小ささのせいでその善自体を偽善扱いして責めることは、人に対して完全な善か全くの不善かしか認めないことにつながり、それは人々のささやかな善意の芽を摘んで、人々の善行を事前に滅ぼしてしまいかねないものだとさえ思います。




 また、ある人が他者を助けることに対して見返りを求めている、つまり善行に見返りを求めている、という場合、これは偽善なのでしょうか?


 私は必ずしもそうとは思いません。なぜなら、正当な見返りもあると思うからです。


 例えば世の中には、医者のように、仕事として人助けをしている(あるいは、仕事の内容が必然的に人助けになる)という人もいます。その場合、その人が仕事と引き換えにお金をもらっても、それは何ら不当なことではないでしょう。なぜなら、それは最初から仕事として請け負われていることだからです。(もちろん、仕事であると同時に善意でもやっているという場合もあるでしょうが)この場合、そこには偽りはないので、偽善もありません。


 では、ある人が他者を助ける時に、それと引き換えに精神的な満足感を得ているという場合、それは他者のためではなく自分のためにやっていることだから、偽善だということになるのでしょうか?


 私はそうは思いません。


 というのは、もしこれが偽善であるとしたら、では偽善ではない本当の善とはどういうことなのでしょうか?


 人が自発的に何かをしようとする時には、それが良いことであり、行うべきことであり、それを行うことは自分にとって良いことであり、それを行わないことは自分にとって悪いことである、と思ってその意思を持ちます。

 ですから、それを達成できるならその人はそれだけ幸福になり、達成できないならそれだけ不幸になる、ということになります。つまり、その人はそれを達成することによって幸福になるという、その「見返り」を求めている、ということになります。


 もしこれが悪いことであるなら、世の中の善行は、本人の意思に反して行われたものか、あるいは本人が知らない間に無意識に行われたものでなければ真の善行ではない、ということになってしまうでしょう。しかし、私達は、誰かに命令されてやるよりは、自主的に善行を行う人のほうを、より立派だと思うはずです。


 例えば、ここに二人の人がいたとして、一方の人は、他者が喜んでいるのを見ると自分も喜び、他者が苦しんでいるのを見ると自分も苦しみを覚える、だから人が苦しんでいるのを見ると、いてもたってもいられずに人を助けようとする。しかしもう一方の人は、他者がどんなに苦しんでいてもそんなことはどうでもいいと思っている、でも他人から命令されているので仕方なく人を助ける、という場合、普通は前者のほうがより立派なことだと思われるでしょう。

 しかし、この前者は、人を助けることによって自分自身の幸福を求めているのですから、ある意味ではより多く「見返り」を求めている者でもあるわけです。


 しかし、もしこれが善意でないのだとしたら、世の中には「善意」など存在しないことになってしまうでしょう。そして善意がないなら、その偽りである「偽善」もないことになります。


 確かに、この世には相手の事情を考慮しない一方的な善意というものもあります。これは独善と呼ばれるべきものでしょうが、しかし、相手が幸福になってこそ自分も幸福である、という意思もあるのであって、これは普通の善意だと思います。

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[良い点] 凄く健全な意見だと思います! 世の中には、こういう意見を綺麗事と捉える人もいるとは思いますが、こういう意見を持っていれば、成功も失敗も、喜劇も悲劇も目の当たりにして経験を得るチャンスは広…
[一言] この偽善の問題については、小学校高学年のころから悩んでいました。 私も心の中に邪念を抱きながら、うわべだけの善行をするので、偽善者だなあと思っていました。 しかし、「やらない善よりやる偽善」…
2020/04/15 20:06 退会済み
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